第1章 正統的キリスト教
1.1 見えざる公同教会
日本バプテスト同盟(以下「JBU」と略す)は「見えざる公同教会」の存在を信じています。「公同教会」(ラテン語: Ecclesia Catholica)という用語は、最古の公同信条 である使徒信条において使用されています。公同信条とは、古代教会において定められた正統的な信仰の基準であり、使徒信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条(NC)、カルケドン信条、アタナシオス信条の四つを指します。「ニカイア信条」(NC)は、東方正教会とローマ・カトリック教会、聖公会、プロテスタント諸派の多くが採用する、唯一のエキュメニカルな世界信条です。
ニカイア・コンスタンティノポリス信条 - Wikipedia
「Ecclesia Catholica」は英訳では「Catholic Church」となりますが、「ローマ・カトリック教会だけでなく、正統的・福音的な信仰を告白するキリスト者はすべて、時代や地域、教派等あらゆる違いを超えて、唯一の普遍的な教会に属している」と私たちプロテスタントは信じています。
イエス・キリストは仰せになりました。
「私はこの岩の上に私の教会を建てる」(マタイ16:18)
ギリシア語新約聖書でこの「教会」の原語「ἐκκλησία」(エクレーシア)は、定冠詞付きの単数形になっています。特定の唯一の存在です。
「この公同教会は地上においては個別教会のうちにおいてのみあらわれている」と私たちJBUは信じています。
1.2 正統的キリスト教
歴史上、最初の教会は紀元30年のペンテコステ(五旬祭)の時にエルサレムで、聖霊降臨によって誕生しました(使徒言行録2章)。その後、キリスト者は世界中に散って行き、行く先々でキリストの福音を人々に伝えて、教会を生み出していきました。
313年にコンスタンティヌス帝が発したミラノ勅令によって、キリスト教はローマ帝国の公認宗教となりました。そしてテオドシウス帝が380年にキリスト教をローマ帝国の国教と定め、381年に開いた第1コンスタンティノポリス公会議において、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択して、アタナシオス派をキリスト教の正統と決定しました。
アタナシオス派は「イエス・キリストは人となられた真の神である」(二性一人格)と信じ、三位一体の神を信じています。「イエスにおいて受肉したロゴスは被造物であった」、「御子が存在しない時があった」、「父の位格と子の位格はその本質を異にする」と主張するアリウス派は異端とされました。三位一体を理解する上では「位格(ペルソナ)を混同せず、本質を分離せず」(アタナシオス信条)というのが重要な法則です。
JBUは「聖書が証言している父・子・聖霊なる三位一体の神を信じます」。すなわち、正統的なキリスト教信仰に立っています。
1.3 聖書の正典
JBUは「聖書を信仰と生活の唯一の基準とします」(聖書主義)。正統的な信仰の基準となるのは、聖書の正典(カノン)のみです。「Canon」(カノン)とは「定規、規準」という意味です。
プロテスタントは、ユダヤ教がヘブライ語聖書で正典としている39巻だけを、旧約聖書の正典としています。紀元90年代にユダヤ教のラビたちによって行われたヤムニア会議で、ヘブライ語聖書の正典が確定されています。ヤムニア(ヤブネ)はエルサレムの西方にある町で、紀元70年のエルサレム陥落から逃れたユダヤ教の指導者たちが、ユダヤ教研究の拠点とした場所です。伝説と異なり、実際には「ヤムニア会議」とは、学者たちが長い年月をかけて議論し、ヘブライ語聖書の正典(マソラ本文)を確定していったプロセスを指しています。
バプテスト教会では第二ロンドン信仰告白(1677年)に旧新約聖書正典のリストがあります。
東方正教会が旧約聖書の正典としている「Septuaginta」(70人訳ギリシア語聖書)や、ローマ・カトリック教会が公式の聖書としている「Vulgata」(ウルガタ、ラテン語聖書)には、旧約聖書の外典(アポクリファ)が含まれています。マルティン・ルターが翻訳したドイツ語聖書では、旧約聖書外典が旧約聖書正典と新約聖書の間に挟まれており、ルターは旧約聖書外典についても説教を行っていました。
日本聖書協会が発行している新共同訳(1987年)と聖書協会共同訳(2018年)の「旧約聖書続編」には、カトリック教会が「第二正典」としている文書が含まれています。我々プロテスタントは、アポクリファが有益であることを認めつつ、信仰の基準としてはこれを用いません。
1.4 コルプス・クリスチアヌムと新プロテスタンティズム
395年にローマ帝国が東西に分割された後、コンスタンティノポリスを中心とする東方の教会とローマを中心とする西方の教会は疎遠になり、教義の解釈や礼拝の形式、組織などの違いが大きくなりました。
1204年に第4回十字軍がコンスタンティノポリスを陥落させて、破壊・暴行・虐殺・略奪を行ったため、東方正教会のローマ教会に対する憎悪は決定的となりました。
ローマの司教は「使徒ペトロの後継者」を自称し、2世紀後半からローマ教皇の首位権を確立していきました。中世には教皇が神聖ローマ帝国の皇帝権に対する教皇権の優位を主張し、宗教と国家は不可分の関係になりました。このような体制を「コルプス・クリスチアヌム」(キリスト教社会有機体)と言います(トレルチ著、内田芳明訳『ルネサンスと宗教改革』岩波文庫、1959年、p.94参照)。
16世紀の宗教改革では、王や諸侯など世俗の政治権力が支配する領域ごとに、住民たちの所属する教派が決められました。国教会や領邦教会であり続けた古プロテスタンティズム(ルター派、改革派)と、17世紀以降に自由教会を生み出した新プロテスタンティズム(ピューリタニズム、敬虔主義)を、トレルチは区別しています(エルンスト・トレルチ著、深井智朗訳『近代世界の成立にとってのプロテスタンティズムの意義』新教出版社、2015年、pp.52-56,115-119,175-177,185-188,228-230,236-238参照)。 そして、〈真の近代世界の形成は、17世紀のピューリタニズムに至ってのことである〉という見方を提示しました(大木英夫著『ピューリタン(近代化の精神構造)』中公新書、1997年、18版、p.7から引用)。バプテストは英国のピューリタニズムから生まれた、典型的な新プロテスタンティズム(近代プロテスタンティズム)の教派です。
ルター派は、「神は為政者を用いて世俗の領域を治めておられ、同時に教会を用いて霊的な領域を治めておられる」と理解しています。これを二王国論(二統治説)と言います。改革派のツヴィングリやカルヴァンは教会と国家、信仰告白共同体と地域共同体の一元論を主張しました(神聖政治)。バプテスト派はローマ教皇の首位権を認めず、国教会や領邦教会の強制教会主義――国民は皆、誕生してまもなく洗礼を受けて、強制的に国教会や領邦教会の信徒にされる――を拒否して、政教分離と信教の自由、信仰者の浸礼を主張しています。この良心の自由に基づく宗教的個人主義が、近代民主主義を生み出す原動力となりました。
私たちバプテストは個別教会の自治独立を尊重し、新生児洗礼を否定します。
1世紀末から2世紀初頭くらいまでに書かれた「12使徒の教訓」(ディダケー)の第7章によれば、当時のバプテスマは三通りの方法で行われていました。
(1) 流れる水の中での浸礼
(2) 冷たい水または温かい水の中での浸礼
(3) 水を頭に三度注ぐ灌水礼
(荒井献編『使徒教父文書』講談社文芸文庫、1998年、p.33参照)
頭への滴礼が慣例となったのは13世紀以降です。紀元180年以前に、無自覚な幼児にバプテスマを授けたという記録は、ありません。テルトゥリアヌス(Quintus Septimius Florens Tertullianus、160年?-220年?)は子どものバプテスマに反対しています。幼児バプテスマが一般的な慣習になったのは、5世紀中葉以降です(H・ホイーラー・ロビンソン著、高野進訳『バプテストの本質』ヨルダン社、1985年、参照)。
1.5 ランドマーク主義という虚構
アナバプテストやバプテストの中には、「我々の教会はカトリックでもプロテスタントでもない。バプテスマのヨハネ以来ずっと信仰告白に基づく浸礼を続けてきた、初代教会から続く唯一の正統的な教会である」と主張する人たちがいます。彼らは、異端として迫害されたモンタノス派やノヴァチアヌス派、ドナトゥス派、パウロ派、カタリ派、ワルドー派などを、自らの系譜に位置づけます(天利信司著『バプテスト(その名称、信仰、使命、特色)』バプテスト文書刊行会、1995年、p.9参照。ジョン.T.クリスチャン著、天利信司訳『バプテスト教会史(初代から現代にいたる新約教会の歴史)』バプテスト文書刊行会 、1979年、参照)。このような歴史観・教会観を「バプテスト継承説」または「ランドマーク主義」(Landmarkism)と言います。
1652年に英国人ジョン・スピットルハウスが「バプテストの継承性」(Baptist successionism)を提唱しました。J.M.キャロルが1931年に出版した『血まみれの道』(The Trail of Blood)は今日でも発行されています。ブレザレン教会の一部や南部バプテスト連盟の一部には、今でもこのような歴史観・教会観を支持している教会があります。日本でこのような歴史観・教会観を保持しているのは日本バプテスト連合と単立の根本主義バプテスト教会です。アナバプテスト派の一部にも同様のグループがあります(E.H.ブロードベント著、古賀敬太訳『信徒の諸教会(初代教会からの歩み)』伝道出版社、1989年、参照)。
JBUはバプテスト継承説、ランドマーク主義を支持しません。JBUは日本キリスト教協議会(NCC)に加盟しているプロテスタントのエキュメニカル派です。
ただし、これらの歴史の記録は、信仰のゆえに権力者から迫害を受けた人たちという面では、近代バプテスト派とも通じる面があり、重要です。