闇の世を照らす光(マタイ2:13-23)
日本バプテスト同盟 門真キリスト教会
2022年12月11日 待降節第3主日礼拝
◆聖書朗読 マタイによる福音書2章13~23節
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。
「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから」
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。
「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」
そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこ
に行くことを恐れた。
ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
◆説教 「闇の世を照らす光」金井望牧師
1.闇が支配する世
クリスマスは一年で最も昼が短く、夜の長い時季にある。イエス・キリストが降誕された時に起こった出来事は、この世の闇を象徴している。イドマヤ人であるヘロデ大王は正統的な「ユダヤ人の王」の出現を恐れて、ベツレヘム辺りの二歳以下の男児を皆殺しにしたのである。
事前に天使がヨセフに夢で警告したため、幼子イエスは両親に連れられてエジプトへ逃れた。しかし、愛する幼子を殺された母親たちの号泣と嘆きは止めどなく響いた。
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから」
それはアッシリア捕囚(前722年)やバビロン捕囚(前586年)の悲劇を想起させた。〈ラマ〉は捕囚民が集合した地であり、イスラエルの始祖ヤコブの妻〈ラケル〉の墓はその近くにあった。
2.闇の世に降誕された主
それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
この悲惨な事件においても、神の計画は預言のとおりに成就した。
かつてエジプトで奴隷とされていたイスラエル民族は前13世紀(または前15世紀)に、主が遣わしたモーセに導かれてエジプトを脱出し、カナンの地に自分たちの国を築いた。
その古代イスラエル王国は南北に分裂した後、アッシリアとバビロニアによって滅ぼされた。
バビロンに捕囚とされていたユダヤ人は、ペルシア帝国(アケメネス朝)を興したキュロス王の命によって解放され、前6世紀から前5世紀にかけて帰国して、エルサレムの町と神殿を再建した。
その後もユダヤ人はギリシア人の帝国(アレクサンドロス王、セレウコス朝)やローマ(共和政、帝政)によって征服され、その支配に苦しむこととなった。
全人類の救世主であるイエスは、ユダヤ人のひとりとして生まれて、この民族の悲劇的な歴史のただ中にその身を置かれた。だからイエスは、闇の力に苦しむ私たちを理解して、救うことができる憐れみ深い大祭司となることができたのである。
3.闇の世を照らす光
ヘロデ大王は前4年に死んだ。その後、彼の息子アケラオが領主としてユダヤを治めたが、この男は父親以上に残忍であった。彼は即位して間もなく、神殿の境内で3000人以上のユダヤ人を虐殺した。
ヨセフは夢で天使からお告げを受けたので、幼子イエス、母マリアと共にエジプトを出て、ユダヤに向かった。
ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
「ナザレから何の良いものが出るか」と言って蔑まれたこのイエスこそ、闇の世を照らす希望の光であり、全人類の救い主である。
教会役員の選任(使徒6:1-7)
2021年9月12日(日) 日本バプテスト同盟 門真キリスト教会 主日礼拝説教
【聖書】使徒言行録6章1~7節
1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」
5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
【説教要旨】「教会役員の選任」金井 望
1.教会役員の必要性
エルサレム教会は経済的弱者を支援していた。その「日々の分配で仲間のやもめたちが軽んじられている」という苦情が、ギリシア語を話す信者(ヘレニスト)たちから出た。
当時のユダヤ人は、パレスチナで生まれ育って、主にアラム語とヘブライ語を使うヘブライストよりも、異邦で生まれ育って、主にギリシア語を使うヘレニストのディアスポラ(離散民)の方がはるかに多かった。エルサレム教会でも、ヘブライ語聖書(旧約聖書)を使う弟子たちと70人訳ギリシア語聖書(旧約聖書)を使う弟子たちがいて、両者のコミュニケーションがうまくいかなかったのである。
使徒たちはこの問題の対応に追われて、御言葉の奉仕に支障が出た。そこで教会の実務を担う役員を立てることになった。
2.教会役員の選出
12使徒は弟子全員を集めて、ヘレニスト信徒の中から7人の役員を選出させた。
3.教会役員の適性
12使徒は役員人選の条件として、次の三つを挙げた。
①聖霊に満ちた人
②知恵に満ちた人
③評判の良い人
ステファノやフィリポは御言葉の宣教においても力ある奉仕者であった。
4.教会活動の優先順位
12使徒はこう述べている。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。(中略)彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(2-4)
教会に役員を設けたのは、使徒たちが祈りと御言葉の奉仕に専念するためであった。教会は何よりも礼拝と宣教を重視すべきである。
5.教会役員の任命
弟子たち一同は12使徒の提案に賛成して、7人を選び、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは祈って、彼らの上に手を置いた。彼らは神の御前で聖別され、聖霊の力を注がれて、任命された。教会の運営体制が整ったため、それから宣教が拡大し、入信して弟子に加わる人々が非常に増えた。
教会役員は、自らの選任に主の導きがあることを信じて、忠実に職務に励むべきである。その働きに、主は豊かな収穫をもって報いてくださる。
神に満ち足りる(ヨハネ4:27-42)
2020年11月15日「神に満ち足りる」ヨハネ4:27-42
■聖書朗読 ヨハネによる福音書 4章27~42節(新共同訳)
27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
■説教 「神に満ち足りる」 金井 望
1.変えられた女性
主イエスがサマリアの女性に「エゴー・エイミ」(わたしは有るという者である)と言って栄光を現した時に、弟子たちが帰ってきました。彼らは、イエスがサマリアの女性と話をしていることに驚きましたが、その場に主の栄光が現れたので、絶句してしまいました。
John 4:26 Interlinear: Jesus saith to her, 'I am he, who am speaking to thee.'
弟子たちはその意味をまだ悟りませんが、この女性は悟りました。彼女自身がここで大きな変化を遂げます。
女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。(28)
彼女は何のために、そこに来たのですか? 水を汲むためです。ところが、彼女は水瓶を置いて、町へと駆けて行きました。井戸の水よりも大切な霊的な泉を、彼女が得たからです。それは主イエスが言われたとおりです。
この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(14)
主の自己啓示の御言葉によって、彼女は真の礼拝者となりました。
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。(23)
御子イエスがこの世に来られたのは、人々に霊的な命を与えて、新生させるためです。そして、神と人の交わりを回復するためです。
この救いにあずかる時に、人と人の関係も変わります。彼女は人目を避けて生活していたのに、今やキリストの来臨を告げ知らせる伝道者となって町に行き、人々に証言したのです。
さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。(29)
2.刈り入れを待っている畑
主イエスは、彼女に起こった変化に満足を覚えていました。弟子たちが主に食事を勧めると、主はこう答えました。
わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。……わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。(32、34)
主イエスと弟子たちは観ているものが違いました。弟子たちの関心は専ら物質的なものに向けられていました。しかし同じ場にあって、主イエスの関心は霊的なものに向けられていたのです。サマリアの女性は、主と同じ目を持つように変えられました。私たちの心の目は何を求めて、何を見ているでしょうか?
主は弟子たちに注意を促します。
あなたがたは、「刈り入れまでまだ四か月もある」と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。(35-38)
主イエスの眼差しは、救いを待ち望んでいる大勢の人々に向けられていました。主の心は、羊飼いのいない羊のような人々に対する憐れみで満ちているのです。それゆえに神の御子が自ら大牧者としてこの世に来て、牧者となるべき弟子たちを育成していたのです。ああ、しかし、まだまだ弟子たちは主の御心を悟りません。
「イエス様は何を見ておられるのだろうか。イエス様はどのように思っておられるのだろうか」。私たちも、主と同じ霊的な目と霊的な思いをもって、この社会を見つめ、人々を理解し、愛する者となることが、大切です。イエス・キリストと出会って救われることを必要としている人々が、私たちの周りには大勢います。霊が渇いて渇いてどうしようもないのに、どこに行けばそれが癒されるのか知らない。そんな人たちばかりなのです。
3.イエス・キリストを直接知った人々
主イエスに出会って変えられたひとりの女性の証言によって、大勢のサマリアの人々がイエスのもとにやって来ました。彼らは最初、〈女の言葉によって、イエスを信じた〉のです。ところが、彼らは二日間、直接イエスの言葉を聴いて、彼が〈世の救い主〉であることが、よく分かりました。彼らの心にも「泉」が湧き上がったのです。
彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(42)
私たちは、キリストを知った自分の体験を、隣人に証しします。それは大切なことです。けれども、それ以上に大切なことがあります。それは、その隣人が直接、主の御言葉を聴くようになることです。子女に対する信仰の教育も同様です。
サマリアの人々が主イエスと共に過ごした二日間は、なんと幸いな時間だったのでしょう。彼らはこの世ですでに天国を味わったのです。イエス・キリストは今も「インマヌエル」=我らと共におられる神です。間もなく迎える待降節とクリスマスのシーズンに、主イエス・キリストとの交わりがさらに豊かに与えられることを、信じて祈りましょう。