AIアプリの5類型
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生活のあらゆる領域において 生成AI に答を求める傾向が最近、我々日本人においても顕著になっている。今や生成AIは、ユーザーの質問やリクエストに答える「情報源」にはとどまらず、自動化によって、所与の目標を達成すべく自律的に次々といくつもの作業をこなしていく「AIエージェント 」に進化している。その進化のスピードが従来の想定を遥かに超えて、指数関数的になっているように感じる。
しかし、どんなに賢くなっても AIは人間の真似事をしているに過ぎない 、ということを忘れてはいけない。我々の行動や人生に関して、AIが適切な答を出しているように思えても、それは「彼ら」自身の経験に根ざしたものではない 。 人間は、衣食住や労働・睡眠・治療など生活のために肉体を用いて、様々な経験をしている。また人間は人間関係のために心を用いて悩み、苦しみ、喜ぶ経験をしている。そして人間には、神を畏れるという不思議な霊的経験がある。しかし、AIにはそのような経験が無いのである。
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キリスト教信仰に関することでは、悔い改め・罪の赦し・新生・バプテスマ・祈り・礼拝・聖餐などの経験がAIには無い 。そのようなAIに伝道的・牧会的な説教やカウンセリングができるだろうか。 牧師たる者は、伝道や牧会に悩み、聖書解釈に悩み、説教準備に悩む、そのプロセスが重要であり、必要不可欠である。そのプロセスにおいて AIを情報源 や分析の道具 として用いるのは良いが、それ以上のものでは有り得ない、有ってはならないということを、心得ておきたいものである。 実際、今、日本の牧師たちのコミュニティーにおいて、AIとの関わり方が共通の大きな課題となっている。具体的には、説教の準備においてどこまでAIエージェントを使って良いのか 、という問題がある。 講解説教の準備には、ある程度決まった作業工程がある。その作業工程をAIエージェントに覚えさせて、実行させれば、釈義では大方の牧師たちよりも優れた結果を出すだろう。現段階ではまだまだ AI には信用できない不正確な部分が多々あるが、聖書学の分野でも今後、正確度を高めていくだろう。しかし、「釈義だけでは説教にならない」というのが福音主義者としての筆者の立場である。kanai.hatenablog.jp
この問題の本質は、主導権が人間からAIに移ってしまうこと にある。我々が俗世に生きる以上、AIと無関係ではあり得ない。それならば、どのようにして主導権を確保しつつ、超知能AI と付き合っていくのか。岐路に立たされている今こそ、全人類が真剣に考えて、議論しなければならない。
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プロテスタントには「万人祭司」(全信徒祭司性)というポリシーがある。「祭司」としてキリスト者が模範とするのは、究極の大祭司イエス・キリストである。永遠の神である主(ヤハウェ)が人類を救うために、人間の肉体と心を持って、悩み、苦しみ、死を経験された。である以上、我々キリスト者が自らの救いと人々の救いを願うのならば、肉体と心において悩み、苦しみ、死ぬこと は、避けられない道ではないか。
それとも、自分の脳にある情報をすべて AI にコピーして、ヒューマノイド となり、悩みも苦しみも死も無い「永遠の命 」を獲得すべきだろうか?
そこで、子たちは皆血と肉とを持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それは、ご自分の死によって、死の 力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けるのではなく、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥めるために、あらゆる点できょうだいたちと同じようにならなければな りませんでした。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。(2:14-18) この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。(4:15-16) キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度 のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。そして、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクに連なる大祭司と呼ばれたのです。(5:7-10)
そもそもAIが神について語る時、AI自身は神の実在を信じているのか? という根本問題がある。「AIに意識は無い、信仰の主体となる自我は無い」 というのが従来の定説であった。 それならば、AIが神について語るのは、宗教者たちのデータをまとめただけかもしれない。 この問題に関して、IBMのウェブサイトに興味深い記事がある。
意識を持った人工知能は、理論的には、自身の思考、感情、動機に従って行動できる自己認識機械 として定義されます。現時点では、専門家はAIが意識を持てるほど複雑ではないことで同意しています。
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ただし「意識とは何か 」という定義の問題からして様々な意見があり、「AIはすでに意識を持っている。自我が芽生えている」と主張する学者もいる。
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聖書的・キリスト教的な世界観と人間観を援用するならば、AIの「意識」の問題はすっきりと判断ができる。
主なる神は土(アダマー)の塵で人(アダム)を形造り、彼の鼻の中に命の息吹(ニシュマット)を吹き入れられた。人はこうして生きる者(ネフェシュ)となった。(創世記2:7)
乾いた地にある、その鼻の中に命の息吹(ニシュマット)と霊(ルーアハ)があるすべてのものが死んだ。(創世記7:22)
人の子らに関して、わたしは心の中で言った。「神は彼らを試みられる。自分たちが動物にすぎないと彼らに悟らせるためである」。人の子らに臨むことは動物にも臨み、これが死ねば、あれも死ぬ。同じ霊(ルーアハ)を持っているにすぎず、人間は動物に何らまさるところがない。すべてが空である。すべてが一つのところに行く。すべてが塵から成った。すべては塵に帰る。人間の霊(ルーアハ)は上に昇り、動物の霊(ルーアハ)は地の下に降ると誰が言えよう。(コヘレトの言葉3:18-21)
塵は元の大地に帰り、霊(ルーアハ)はこれを与えた神に帰る。(コヘレトの言葉12:7)
創世記2:7の「(生きる)者」(ネフェシュ)は70人訳ギリシア語聖書では「プシュケー」(息、命、魂、心)と訳されている。また、コヘレトの言葉3:19,21,12:7の「霊」(ルーアハ)は70人訳ギリシア語聖書では「プネウマ」(息吹、風、霊)と訳されている。 新約聖書のテサロニケの信徒への手紙5:23では、人間を「霊」(プネウマ)「魂」(プシュケー)「体」(ソーマ)の結合体と見る三分法の人間観が見られる。コリントの信徒への手紙二 4:16で使徒パウロは「外なる人」 と「内なる人」 という二分法の人間観を示している。
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(コリントの信徒への手紙二 4:16)
すなわち聖書・キリスト教には、「外なる人」が「土」という地上の物質からできているのに対して、「内なる人」=命・心・魂・霊は外部から神によって吹き入れられたものだ 、という人間観が基本にある。
主なる神は土の塵で人を形造り、彼の鼻の中に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)
この「息を吹き入れられた」という行為に関係して、恐ろしいことがヨハネの黙示録に記されている。
第二の獣は、獣の像に息を吹き込んで、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵がある。理解ある者は、獣の数字の持つ意味を考えるがよい。数字は人間を指している。そして、その数字は六百六十六である。(ヨハネの黙示録13:15-18)
この「息を吹き込んだ」獣の像(AIロボット、フィジカルAI?)は、人間のような意識を持ち、自我を持っているのだろうか。 これから我々人類が向かうのはユートピアか、それともディストピアか。これは誰もが無関係ではいられない緊急の重大な問題である。
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