2020年11月15日「神に満ち足りる」ヨハネ4:27-42
■聖書朗読 ヨハネによる福音書 4章27~42節(新共同訳)
27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
■説教 「神に満ち足りる」 金井 望
1.変えられた女性
主イエスがサマリアの女性に「エゴー・エイミ」(わたしは有るという者である)と言って栄光を現した時に、弟子たちが帰ってきました。彼らは、イエスがサマリアの女性と話をしていることに驚きましたが、その場に主の栄光が現れたので、絶句してしまいました。
John 4:26 Interlinear: Jesus saith to her, 'I am he, who am speaking to thee.'
弟子たちはその意味をまだ悟りませんが、この女性は悟りました。彼女自身がここで大きな変化を遂げます。
女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。(28)
彼女は何のために、そこに来たのですか? 水を汲むためです。ところが、彼女は水瓶を置いて、町へと駆けて行きました。井戸の水よりも大切な霊的な泉を、彼女が得たからです。それは主イエスが言われたとおりです。
この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(14)
主の自己啓示の御言葉によって、彼女は真の礼拝者となりました。
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。(23)
御子イエスがこの世に来られたのは、人々に霊的な命を与えて、新生させるためです。そして、神と人の交わりを回復するためです。
この救いにあずかる時に、人と人の関係も変わります。彼女は人目を避けて生活していたのに、今やキリストの来臨を告げ知らせる伝道者となって町に行き、人々に証言したのです。
さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。(29)
2.刈り入れを待っている畑
主イエスは、彼女に起こった変化に満足を覚えていました。弟子たちが主に食事を勧めると、主はこう答えました。
わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。……わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。(32、34)
主イエスと弟子たちは観ているものが違いました。弟子たちの関心は専ら物質的なものに向けられていました。しかし同じ場にあって、主イエスの関心は霊的なものに向けられていたのです。サマリアの女性は、主と同じ目を持つように変えられました。私たちの心の目は何を求めて、何を見ているでしょうか?
主は弟子たちに注意を促します。
あなたがたは、「刈り入れまでまだ四か月もある」と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。(35-38)
主イエスの眼差しは、救いを待ち望んでいる大勢の人々に向けられていました。主の心は、羊飼いのいない羊のような人々に対する憐れみで満ちているのです。それゆえに神の御子が自ら大牧者としてこの世に来て、牧者となるべき弟子たちを育成していたのです。ああ、しかし、まだまだ弟子たちは主の御心を悟りません。
「イエス様は何を見ておられるのだろうか。イエス様はどのように思っておられるのだろうか」。私たちも、主と同じ霊的な目と霊的な思いをもって、この社会を見つめ、人々を理解し、愛する者となることが、大切です。イエス・キリストと出会って救われることを必要としている人々が、私たちの周りには大勢います。霊が渇いて渇いてどうしようもないのに、どこに行けばそれが癒されるのか知らない。そんな人たちばかりなのです。
3.イエス・キリストを直接知った人々
主イエスに出会って変えられたひとりの女性の証言によって、大勢のサマリアの人々がイエスのもとにやって来ました。彼らは最初、〈女の言葉によって、イエスを信じた〉のです。ところが、彼らは二日間、直接イエスの言葉を聴いて、彼が〈世の救い主〉であることが、よく分かりました。彼らの心にも「泉」が湧き上がったのです。
彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(42)
私たちは、キリストを知った自分の体験を、隣人に証しします。それは大切なことです。けれども、それ以上に大切なことがあります。それは、その隣人が直接、主の御言葉を聴くようになることです。子女に対する信仰の教育も同様です。
サマリアの人々が主イエスと共に過ごした二日間は、なんと幸いな時間だったのでしょう。彼らはこの世ですでに天国を味わったのです。イエス・キリストは今も「インマヌエル」=我らと共におられる神です。間もなく迎える待降節とクリスマスのシーズンに、主イエス・キリストとの交わりがさらに豊かに与えられることを、信じて祈りましょう。