プロテスタント、とりわけ現代のそれは、個人主義の傾向が強いものですが、本来、古代イスラエルの信仰も、初期キリスト教の信仰も、共同性が極めて強いものでした。
そもそも紙とか本とか巻物は非常に高価なものでしたから、個人が聖書を所有することは、ほとんど不可能でした。信仰の営みは、家族・氏族・部族・民族、集落・市町村・郡・州・国といった共同体において続けられていたのです。
ただし、コンスタンティヌス帝の時代になるまで、ローマ帝政下ではキリスト者は極めて少数者でした。ですから、「ふたりまたは三人がわたしの名によって集まるところには」(マタイ18:20)というのも、珍しくなかったかもしれません。
それでも、やはり複数のキリスト者が共に主を礼拝することは、キリスト教信仰の本質に関わる重大事であったのです。
ちなみに、4福音書の中で「エクレーシア」(教会)という語が使われているのは、マタイ16:18と18:17だけです。
イエスは彼らに言われた。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えて言われた。
「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
では、わたしもあなたに言います。
あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ハデスの門もそれには打ち勝てません。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。
何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、
あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」
(マタイ16:15〜19)
また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。
ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。
教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」
(マタイ18:15〜20)
マタイ16:18と18:17の関係・対比によってわかることを、以下、簡単にまとめてみます。
(1) 「エクレーシア」は、70人訳ギリシア語聖書でイスラエルの「会衆」(ヘブル語「カーハール」)の訳語として使用されました。つまり、キリスト教会は新しい選民イスラエルなのです。
(2) 教会の最も重要な役割は、天と地、神と人々をつなぐことです。
(3) そのために特に重要な務めは、人々の罪を処理して、罪の赦しを与えることです。
(4) 神は天国の鍵を教会にお与えになりました。だから、教会は罪の赦しを宣言することができるのです。
(5) ペテロは全教会の代表者=使徒として天国の鍵を受け取りました。やはり教会には職務において秩序があります。すなわち、専任の教職者と一般信徒の区分があることは適切です。
(6) ただし、使徒や教職者だけでなく一般の信徒も、散らされていったそれぞれの地で天国の鍵を用いて、人々の罪を赦し、人々を天につなぐことができたのです。
(7) ですから、「ローマ教皇が天国の鍵を専有しており、その権威を分与された司祭でなければ人々に罪の赦しを宣言することはできない」というローマ・カトリック教会の教えは、正しいとは言えません。
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石居正己著『教会とはだれか ー ルターにおける教会』リトン、2005年