KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

日本バプテスト同盟に加わって

f:id:nozomu-kanai:20210627154101j:plain

牧師就任式を記念して(2021年6月27日)


(注)この記事は日本バプテスト同盟発行『JB』2021年11月号に掲載予定の原稿に多少手を加えたものです。


 4月1日から門真キリスト教で牧会の任に就かせていただいた金井 望(かない のぞむ)と申します。自己紹介をさせていただきます。

goo.gl

 私は牧師家庭に生まれ育ちました。私の信仰のルーツは、英国の超教派のミッション・日本伝道隊(JEB:Japan Evangelistic Band)と米国フリーメソジスト教会の日本宣教にあります。母方の祖父・濱口龍太郎が日本伝道隊湊川伝道館(神戸)で入信したのは1906年大正13年)のことでした。 

kanai.hatenablog.jp

kanai.hatenablog.jp

 母方の祖母と父はフリーメソジスト教会で入信しました。父・金井由信日本イエス・キリスト教団の教職として、八幡福音教会滋賀県近江八幡市)、札幌美園教会(現・札幌羊ヶ丘教会)、明石人丸教会で牧師を務め、関西聖書神学校の教授を長年務めました。私は8人きょうだいの5番目として育ちました。8人のうち6人がキリスト教の牧師・教師・宣教師をしてきました。

日本フリーメソジスト教団 - Wikipedia

Akashi Uenomaru Church

日本自由メソヂスト教団 宣教開始124周年:布施源氏ヶ丘教会

日本イエス・キリスト教団(JCCJ)

八幡福音教会|トップページ

札幌羊ケ丘教会

明石人丸教会へようこそ

関西聖書神学校 

 私は中学1年のクリスマスに札幌美園教会で信仰を告白して、バプテスマにあずかり、中学2年から高校3年まで明石人丸教会に連なりました。

 大学時代は荻窪栄光教会(森山諭牧師の時代)に通いました。また千葉大学キリスト者の会や関東地区キリスト者学生会で、教派を超えたキリスト者の交わりに加わり、学内・ブロック・地区でリーダーを務めました。大学の専攻は経済学です。

 大学卒業後、横浜で3年間は生活クラブ生協職員として、5年間は横浜市職員(行政職事務吏員)として働き、家庭を築きました。その頃は会衆制福音派長津田キリスト教(油井義昭牧師の時代。現在は日本福音キリスト教会連合 JECA に所属)に連なりました。

日本イエス・キリスト教団 荻窪栄光教会 

長津田キリスト教会 | Nagatsuta Christ Church

 その後、私は30歳の時に献身して関西聖書神学校で学び、日本イエス・キリスト教団で伝道者としての歩みを始めました。それは主イエス・キリストが私をお召しになったので、単純にお応えしたのです(ルカ9:57-62)。

 幌向小羊教会(北海道岩見沢市)で5年間、開拓伝道に従事し、鎌倉深沢教会で3年間牧会した後、神戸ルーテル神学校で神学修士課程(M.Div)の学びをしました。その始めの2年間に、日本バプテスト連盟明石バプテスト・キリスト教神戸新生バプテスト教会で定期的に説教のご奉仕をさせていただきました。

日本イエス・キリスト教団 幌向小羊教会 トップページ

鎌倉深沢教会のホームページ | 日本イエス・キリスト教団

神戸ルーテル神学校

明石バプテストキリスト教会 - akashibap ページ!

日本バプテスト連盟 神戸新生バプテスト教会 - 神戸新生バプテスト教会

神戸大石教会 TOP - 神戸大石教会 公式サイト

 その後7年間、神戸大石教会で牧会をしましたが、主のお導きにより2019年3月に教団を退職して、日本バプテスト同盟西岡本キリスト教に転会させていただきました。西岡本では信徒の皆様との良き交わりにあずかりつつ、藤岡荘一牧師からバプテスト教会の実践について具体的にご教授いただきました。

日本バプテスト同盟

| Nishi-Okamoto Christ Church

 転会後2年間は、客員教師として関西部会の10教会で説教のご奉仕をさせていただきました。また藤井勇次師(山下教会)から同盟の規則と制度についてご教授いただき、井上正之師(日ノ本教会)からバプテストの歴史と信仰についてご教授いただきました。

 学んだことを深めて、「日本バプテスト同盟のルールと運営」、「バプテスト教会のDNA」という2本のレポートにまとめ、2020年10月に同盟教師基礎資格の認定をいただいた次第です。

 私が実感したバプテストの素晴らしい特徴は、同盟の要職にある方々を含めて牧師が謙遜であること、個別教会が独立し自律していること、そして、信徒の主体性が確立していることです。

 冒頭の写真は今年6月27日、牧師就任式の時に撮ったものです。家族ともども末永くよろしくお願いいたします。
 

神に満ち足りる(ヨハネ4:27-42)


2020年11月15日「神に満ち足りる」ヨハネ4:27-42

 

kanai.hatenablog.jp

 

西岡本キリスト教会 2020年11月15日 主日礼拝

 

■聖書朗読 ヨハネによる福音書 4章27~42節(新共同訳)


 27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。


 31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」


 39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 f:id:nozomu-kanai:20170428192727j:plain

 

■説教 「神に満ち足りる」 金井 望


  1.変えられた女性


 主イエスサマリアの女性に「エゴー・エイミ」(わたしは有るという者である)と言って栄光を現した時に、弟子たちが帰ってきました。彼らは、イエスサマリアの女性と話をしていることに驚きましたが、その場に主の栄光が現れたので、絶句してしまいました。

John 4:26 Interlinear: Jesus saith to her, 'I am he, who am speaking to thee.'

 弟子たちはその意味をまだ悟りませんが、この女性は悟りました。彼女自身がここで大きな変化を遂げます。

女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。(28)

 彼女は何のために、そこに来たのですか? 水を汲むためです。ところが、彼女は水瓶を置いて、町へと駆けて行きました。井戸の水よりも大切な霊的な泉を、彼女が得たからです。それは主イエスが言われたとおりです。

この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(14)

 主の自己啓示の御言葉によって、彼女は真の礼拝者となりました。

まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。(23)

 御子イエスがこの世に来られたのは、人々に霊的な命を与えて、新生させるためです。そして、神と人の交わりを回復するためです。
 この救いにあずかる時に、人と人の関係も変わります。彼女は人目を避けて生活していたのに、今やキリストの来臨を告げ知らせる伝道者となって町に行き、人々に証言したのです。

さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。(29)

 

  2.刈り入れを待っている畑

 

 主イエスは、彼女に起こった変化に満足を覚えていました。弟子たちが主に食事を勧めると、主はこう答えました。

わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。……わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。(32、34)

 主イエスと弟子たちは観ているものが違いました。弟子たちの関心は専ら物質的なものに向けられていました。しかし同じ場にあって、主イエスの関心は霊的なものに向けられていたのです。サマリアの女性は、主と同じ目を持つように変えられました。私たちの心の目は何を求めて、何を見ているでしょうか?
 主は弟子たちに注意を促します。

あなたがたは、「刈り入れまでまだ四か月もある」と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。(35-38)

 主イエスの眼差しは、救いを待ち望んでいる大勢の人々に向けられていました。主の心は、羊飼いのいない羊のような人々に対する憐れみで満ちているのです。それゆえに神の御子が自ら大牧者としてこの世に来て、牧者となるべき弟子たちを育成していたのです。ああ、しかし、まだまだ弟子たちは主の御心を悟りません。

 「イエス様は何を見ておられるのだろうか。イエス様はどのように思っておられるのだろうか」。私たちも、主と同じ霊的な目と霊的な思いをもって、この社会を見つめ、人々を理解し、愛する者となることが、大切です。イエス・キリストと出会って救われることを必要としている人々が、私たちの周りには大勢います。霊が渇いて渇いてどうしようもないのに、どこに行けばそれが癒されるのか知らない。そんな人たちばかりなのです。

 

  3.イエス・キリストを直接知った人々

 

 主イエスに出会って変えられたひとりの女性の証言によって、大勢のサマリアの人々がイエスのもとにやって来ました。彼らは最初、〈女の言葉によって、イエスを信じた〉のです。ところが、彼らは二日間、直接イエスの言葉を聴いて、彼が〈世の救い主〉であることが、よく分かりました。彼らの心にも「」が湧き上がったのです。

彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(42)

 私たちは、キリストを知った自分の体験を、隣人に証しします。それは大切なことです。けれども、それ以上に大切なことがあります。それは、その隣人が直接、主の御言葉を聴くようになることです。子女に対する信仰の教育も同様です。

 サマリアの人々が主イエスと共に過ごした二日間は、なんと幸いな時間だったのでしょう。彼らはこの世ですでに天国を味わったのです。イエス・キリストは今も「インマヌエル」=我らと共におられる神です。間もなく迎える待降節とクリスマスのシーズンに、主イエス・キリストとの交わりがさらに豊かに与えられることを、信じて祈りましょう。

 

| Nishi-Okamoto Christ Church

神に渇く(ヨハネ4:1-26)


2020年10月11日「神に渇く」ヨハネ4:1-26

日本バプテスト同盟 西岡本キリスト教主日礼拝説教

 

■聖書朗読 ヨハネによる福音書 4章1~26節

 

 1 さて、イエスヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、 2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―― 3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。 4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。 5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

 19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

 25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 

f:id:nozomu-kanai:20201011203730p:plain

 

■説教 「神に渇く」  金井 望

 

  1.サマリアを通って

 時は、主イエスが宣教活動を始めて間もない紀元27年の夏頃と思われます。その年の春に過越祭のためにエルサレムに上京した後(2:13)、イエスと弟子たちはユダヤ地方で伝道活動を行って、人々にバプテスマを授けていました(3:22)。イエスがメシア――ユダヤの人々が待ち望んでいた、神の遣わす救世主――であると洗礼者ヨハネが、証ししたため、イエスの弟子は洗礼者ヨハネよりも多くなりました(4:1)。すると、ユダヤ教シナゴーグ(会衆、会堂)を指導していたファリサイ派の人々がイエスを警戒し、危険視するようになりました。そこで、イエスの一行は本拠地であるガリラヤ地方に帰ることとしました。

 彼らは、その帰郷するルートとして、最短コースであるサマリア経由の道を選びました。通常、ユダヤ人はサマリア地方を避けて、ヨルダン渓谷の道を通るのですが、この時は〈サマリアを通らねばならなかった〉のです。急いで逃げたかったという事情もありますが、神の御計画においては、サマリアの人々に福音――メシアの到来――を知らせるという重要な目的がありました。

 イエスの一行が〈シカルというサマリアの町〉に着いた時、時刻は正午の頃、暑い時間帯になっていました。彼らは疲れ、喉が渇いたため、〈ヤコブの井戸〉のそばに座りこみました。ヤコブアブラハムの孫であり、イサクの息子です。紀元前19世紀頃にヤコブの息子たちからイスラエル12部族が生まれました。

 

  2.サマリアとは

 さて、そこにひとりの〈サマリアの女が水をくみに〉来ました。通常この地方では涼しい朝か夕方に水汲みをします。これはなかなかの重労働だからです。ではなぜこの女性はこんな暑い時刻に水汲みをするのでしょうか。それは、彼女が人目を避けていたからです。

 この女性に主イエスが声をかけました。
「水を飲ませてください」
この時、〈弟子たちは食べ物を買うために町に行って〉、不在であり、主イエスは井戸から水を汲む道具を持っていませんでした。
 すると、サマリアの女性はこう応えました
ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」
ユダヤ人はサマリア人とは交際しないから〉です。

 〈サマリア〉はかつての北王国イスラエルの首都の名称であり、その周辺地域を含めてサマリアと呼ばれていました。紀元前722年に北王国イスラエルアッシリア軍によって滅ぼされ、国の主だった人々2万7000人余りは捕囚としてアッシリアに連行されました。そして、メソポタミアの5つの町の異邦人がサマリアに移住させられて、イスラエル人との混血が進み、サマリア人となったのです(列王下17:24-33)。

 サマリア人モーセ五書を改竄した「サマリア五書」を正典としており、前4世紀にエルサレム神殿に対抗する神殿をゲリジム山に築きました。サマリア人ユダヤ人は本家本元をめぐって対立し、激しく争ってきたのです。

 紀元前538年にバビロン捕囚から解かれてユダヤ人がエルサレムに帰還した後の時代には、サマリア人は彼らの神殿再建や城壁の修復作業を妨害しました。マカバイ戦争においてはサマリア人セレウコス朝シリアに味方して、ユダヤ人を攻撃し、彼らの独立を邪魔しました。それに対してユダヤ人は報復としてゲリジム山の神殿を焼き討ちにしました。世間では骨肉の争いと言いますが、これは最悪な関係です。

グッドモーニング, パレスチナ : ゲリジム山とサマリア人

世界の文字 サマリア文字

Samaritan Pentateuch - Wikipedia

Samaritanism - Wikipedia

ゲリジム山とは - コトバンク

Mount Gerizim - Wikipedia

 

f:id:nozomu-kanai:20170428192727j:plain

 

  3.生きた水

 イエスは彼女にこう言いました。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」
 〈生きた水〉とは流れている清い水のことであり、淀んで腐った水は「死んだ」水です。
 イエスが不思議なことを言うので、彼女は尋ねました。
「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」
 イエスは答えて言いました。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
 彼女は毎日の水汲みに疲れていたため、こう言いました。
「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」

 

  4.愛に渇く

 すると、イエスは思いがけないことを彼女に言いました。
「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」
 〈〉と聞いて、彼女はドキッとしたでしょう。それは一番触れられたくない話題でした。ドキドキしながら、この問題を避けようとして、不機嫌そうに彼女は答えました。
「わたしには夫はいません」
 すると、イエスは彼女の隠れた心の病巣にズバリと切り込みました、医者が患者の体に鋭いメスを入れるように。
「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」
 (ここまで正確に知っているとなると、逃げられない! この人、何者?)
 サマリアの女たちは、彼女の結婚歴と現在の同棲生活を、井戸端会議の格好の話題としていたでしょう。
「五人も夫を替えるなんて、信じられない!」
「今の男とは籍も入れていないのよ」
「なんてふしだらな…。あの人と関わると、こっちまでケガレちゃいそうだわ」
 しかし、主イエスは彼女を一切責めていません。
 あの姦淫の現場で捕えられて、石打ちの刑にされそうになっていた女性に対しても、主イエスは一言も責めませんでした。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」ヨハネ8:11)
 このサマリアの女性の心は愛に渇いていたのです。彼女は男性に期待しました。
(きっとこの人なら、私の渇いた心を潤して、満たしてくれるに違いない)
 しかし、その水は飲んでも飲んでも、渇きが癒えることはありませんでした。

 人間の心にはポッカリと空いた空洞があります。それは神しか満たすことができない空洞です。それを人に求めても、誰も満たしてはくれません。それを満たすことができるのは神の霊であり、神の愛です。

  5.神に渇く

 夫に求めても、私の渇きは癒されないーー。それで彼女はゲリジム山の宗教に期待して、何度も通ったのでしょう。けれど、それも駄目でした。彼女はイエスに質問しました。
「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」
 彼女は、サマリア人ユダヤ人が対立する問題の本質を、知っていたのです。
 イエスは彼女に答を与えました。
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」
 彼女は言いました。
「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」
 イエスは究極の答を彼女に与えました。
「それは、あなたと話をしているこのわたしである」
 この〈わたしである〉とは、ギリシア語原文で「エゴー・エイミ」、英語に訳すと「I am that I am」、「わたしは『わたしは有る』というものだ」。これはモーセに顕現された神「主」(YHWHヤハウェ)がご自分を指して言われたフレーズであり、唯一なる神以外、誰も使ってはならない聖なる言葉です(出エジプト3:14、20:7)。
 この真の神である【主】イエス・キリストに出会った時に、この女性の霊は初めて満足を得て、心の渇きが癒されたのです。

 あなたの心は愛に渇いていますか? あなたの霊は神に渇いていますか? その渇きを癒すことができるのは主イエス・キリストです。私たちも主イエスに近づかせていただきましょう。

 

kanai.hatenablog.jp