第4章 千年王国が意味するもの(1)
1 わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。2 この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、3 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。
4 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。5 その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。6 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
(ヨハネの黙示録第20章1~6節)
第4章 千年王国が意味するもの(1)
1 千年王国に関する論点
第4章では、聖書の終末論の基本的な構造をふまえて、次の4つの論点からヨハネの黙示録を読み解き、「千年王国」が意味するものを明らかにしたい。
(1) ヨハネの黙示録の展開は、時代の流れを意味するのか
(2) キリスト者は患難時代を最後まで経験するか
(3) 教会を千年王国と同一視できるか
(4) 千年王国は字義どおり千年間続くのか
2 ヨハネ黙示録解釈の諸類型
ヨハネの黙示録の解釈には次のような類型が見られる 。
①過去主義
これは、黙示録の内容は紀元1世紀当時にのみ関係するという立場である。17世紀に、イエズス会の修道士アルカザルによって体系的に提示された。彼は、4〜11章は初代教会とユダヤ教の闘争、12〜19章は初代教会と異教徒の争い、20‐22章は初代教会の勝利の姿と解した。この説はプロテスタントの自由主義神学にも受け継がれている。
しかし、ヨハネの黙示録に書かれているすべての内容を具体的な歴史的事件に合わせて説明することには無理がある。
②歴史主義
これは、黙示録の内容が初代教会から世の終わりに至るまでの教会の全過程を示すものとする立場である。この説は、9世紀のベレンゴードから始まり、広く宗教改革者たちにも支持を得た。宗教改革者たちは、「バビロン」はローマ教皇を頂点とするカトリック教会を指すとした。
③未来主義
これは、黙示録の第4章1節から最後までは教会の将来、特に終末に向けての出来事であり、患難期、千年王国、最後の審判、新天新地についての預言であると解する立場である。1〜3章の7つの教会を教会史の7つの段階と解釈する者もいる(M・R・デハーン『ヨハネ黙示録35講』)。しかし、それは当時のアジア州の教会に代表される教会の7つの様相と見る未来主義者もいる。
④理想主義
これは、黙示録をいつの時代にも起り得る教会と悪の勢力との戦いを象徴的なことばで書き記したものとする立場である。オリゲネスなどアレキサンドリアの教父たちの寓意的解釈にも見られる見解である。この見解には、黙示録の預言的、歴史的意味が失われてしまう欠点がある。
3 聖書の螺旋的歴史観
筆者は第3章において、聖書の螺旋的歴史観について明らかにした。
ヨハネの黙示録の構造は、らせん階段状に黙示が進展しているのを、側面から見ているようなものである。(W・ヘンドリクセン)
それゆえ、ヨハネの黙示録のそれぞれの場面について、
①紀元1世紀の歴史的状況を表している可能性
②教会史のある状況を表す可能性
③現代の教会の状況を表す可能性
④最終末期の世界の状況を表す可能性
これらが併存し得ることを考慮しつつ、全体としてはこの世の終わりと新天新地に向けて進行する神の歴史的計画を表している、と考えるべきであろう。
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4 ヨハネ黙示録解釈の5原則
筆者は、ヨハネの黙示録第20章1〜6節に記された「千年王国」の解釈にあたっては、次の5つの原則を用いるのが良い、と考えている。
①歴史的な解釈
執筆当時の歴史的社会的状況におけるテキストの意味を探究する
②文学的・文法的な解釈
著作の目的・文学形式・文体・構造・用語等からテキストの意味を探究する。
③正典的な解釈
聖書全体及び各書との関係においてテキストの意味を探究する。
④預言的な解釈
未来に属する出来事が救済史において持つ意味を探究する。
⑤実存的な解釈
現代を生きる我々に対してそのテキストが持つ意味を探究する。
5 キリスト者は患難時代を最後まで経験するか
マタイによる福音書第24章1~31節やテサロニケの信徒への手紙二第2章1~12節を見ると、キリスト者は地上で患難時代を経験すると考えるのが自然である(患難時代後再臨説)。患難時代には主として次のことが起こる。
偽メシアの出現
偽預言者の出現
戦争
民族間の対立
飢饉
キリスト者に対する迫害
不法行為の増大
人々の愛の冷却
天変地異等
6 教会を千年王国と同一視できるか
再臨の前に「黄金時代」が来るという思想は、イエス・キリストが弟子たちに語られた、終末期におけるキリスト者受難の預言(マタイ24:1~31)を無意味にしてしまうのではないだろうか。
最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(マタイ24:13)
ヨハネの黙示録では、終末時代は次の順序で書かれている。
(18章まで)(19章)(20章) (21章)
やはりこの大きな枠組みは、この世の終わりと新天新地の出現に向けて進行する時代の順に書かれていると見るのが良いのではないか(千年期前再臨説)。
ただし、「千年」を文字通りにとる必要はない。
主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。 (第二ペトロ3:8〜10)
第3章 聖書の歴史観と終末論
彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
(ヨハネの黙示録第20章4,6節)
第3章 聖書の歴史観と終末論
聖書の終末論を理解する鍵の一つは、「時」の概念である。聖書の時間感覚や歴史観についてここで考察したい。
1.「初め」から「終わり」へ
「終末」の前提には「始源」がある。「初め」が無ければ「終わり」は無い。
初めに、神は天と地を創造された。(創世記1:1)
創造主なる神は歴史の支配者として、人間の罪によって堕落した被造物の贖いを完成し、現世の歴史を完結して、「新しい天と新しい地」を来たらせる(ヨハネの黙示録21:1)。
創造→堕落→贖い→再創造(新創造)
このような基本構造を持つ聖書の歴史観は「救済史」と呼ばれる。聖書の最後にあるヨハネの黙示録の内容は、聖書の最初にある創世記の天地創造・人間創造・失楽園の説話に見事に対応している。
「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」(ヨハネの黙示録21:6)
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」のである(ローマ11:36)。
我々人間はこの歴史の内側にいるので、内側からしか歴史を理解することができない。我々が歴史の「初め」と「終わり」を知りうるのは、時空の創造者であり支配者である神の啓示による。歴史の外側に何があるのか、宇宙の外側に何があるのか、これは四時空の世界しか知らない我々人間の理解力を超えた問題である。
我々はただ神の言葉である聖書によって歴史の「初め」と「終わり」、さらに時空を超えた永遠の世界を知らされるのであるが、それは現世に存在する事物と言葉を用いた表現でしか有り得ない。その表現力は限定的である。それゆえ、聖書の終末論が象徴的な表現を多用する黙示文学によって構成されるのは、必然なのである。
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2 螺旋的な歴史観
我々現代人は世界史の全体図に示される「直線的」な歴史観を当たり前のように思っている。しかし、古代の東洋人はこれとは異なる「円環的」な時間感覚を持っていた。初め無く終わり無き「輪廻」が続く「無常」の世界である。聖書には「輪廻」の思想は無いが、「円環的」な時間感覚の叙述は旧約聖書「コヘレトの言葉」にも見られる。
なんという空しさ、すべては空しい。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。(コヘレトの言葉1:2、5~7、9~10)
ただし、「コヘレトの言葉」には「円環的」な時間感覚だけではなく、神による「直線的」な歴史支配も見られる。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
(コヘレトの言葉3:11)
聖書の歴史観は単純に「直線的」なのではなくて、「円環的」な動きも加わって「螺旋的」に進行するものと言えよう 。すなわち、過去に起こったことが「原型」となり、それに類似したことが現在起こり、将来にも起こる。それでも同じ位置にとどまることなく、歴史はゴールに向けて進行しているのである。
例えば、ネヘミヤ記第9章には螺旋的な歴史観の典型的な例が見られる。
苦難→神への叫び→救出→祝福→神への背反・悪行→苦難
イスラエルの歴史は、このようなパターンを繰り返しながら進行しているのである。
聖書の終末論は大別すれば、イスラエル民族を中心とした滅亡と回復・安息の預言と、新しい「神のイスラエル」(ガラテヤ6:16)であるキリスト教会を中心とした世界の滅亡と回復・安息の預言とに分けて見ることができる。
両者は重ね合わせて預言されている場合もある。エルサレムの滅亡(紀元70年)とこの世の終末についてのイエスの預言(マタイ24:1~28)は、その代表的な例である。
ヨハネの黙示録においては、「バビロン」(新バビロニア帝国)とローマ帝国と反キリストの王国の滅亡が、重ね合わせて預言されている(14:8, 17:5, 18:2,10,21)。
神ヤーウェは、イスラエル民族・ユダヤ人の始祖となったアブラハムに、次のように語られた。
地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。
(創世記22:18)
このヤーウェの約束には家族・氏族・部族・民族・国家の枠を超えたグローバルな普遍性が見られる 。これが紀元前2000年頃の預言であるとすれば、驚くべきことである。
基本的に旧約聖書の預言は、イスラエル民族・ユダヤ人を中心とした神の歴史的計画について語っている。けれども、大きな流れで見ると、聖書の預言は年代が下るに従って、地上のすべての民族・国民へと対象の範囲を拡大している(イザヤ2:2~4) 。
その壮大な世界の歴史において、イスラエル民族・ユダヤ人は最後まで、神が彼らに託された使命を果たすために用いられるのである(ローマ11章)。
このような下地はあるものの、ユダヤ教の「ナザレ派」 と見なされていたキリスト教が、ユダヤ教の民族宗教としての枠を取り払って世界宗教に普遍化していくのは、容易なことではなかった。
イエスは「罪人」と呼ばれる人や徴税人、娼婦、病人、障害者、子供、女性、異邦人等に積極的に関わりを持たれたが、それらは偶発的・例外的な出来事ではなくて、イエスの宣教の本質を表すものであった(マタイ9:11~13)。すなわち、イエスはその宣教活動によって、ユダヤ教が保持する「隔ての壁」 を打ち破ってしまわれたのである。
あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(中略)しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。
(ヨハネ4:21、23)
「新しいぶどう酒」を「古い革袋」に入れたら、革袋は破れてしまう(マタイ9:17)。イエスの宣教には古い革袋を破るラディカルな力があった。ユダヤの指導者たちは、ユダヤの支配体制が崩される危険性を察知したので、イエスと弟子たちを迫害したのである。使徒ヨハネはいつもイエスのそばにいて、イエスの言行を直接「見た」(ヨハネ1:14)。彼はイエスに、すべての人を愛して救いの手を伸べる神を見たのである(ヨハネ1:18)。
「古い革袋」である「律法」と「新しいぶどう酒」である「福音」はどのような関係にあるのか。この神学的な問題に決定的な答を出したのは、使徒パウロであった 。初代教会ではエルサレム会議(紀元49年頃)が開かれるまでは、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない」(使徒言行録15:1)という意見が有力だった。パウロは、そのユダヤ主義的・律法主義的なキリスト教に厳しく反対した 。
使徒ヨハネは、紀元30年のペンテコステ以来、エルサレム教会の指導者として、主にユダヤ人キリスト者を中心とした教会の牧会をしていた。だが、ヨハネは後に、パウロが開拓し 、その弟子テモテが牧会した エフェソ教会の監督になったようである。エフェソは東洋と西洋を結ぶ大動脈の要所に位置する国際都市である。宗教のるつぼでもあった。使徒ヨハネが著した文書に普遍性が見られるのは、このような背景も関係している。
4 「既に」到来し、「未だ」完成しない神の国
キリスト到来の先触れの役割を担った洗礼者ヨハネは、ユダの荒野で預言活動を行っった。
悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ3:2)
洗礼者ヨハネの宣教には、終末論的な危機意識が見られる。彼はユダヤ教の指導者たちに警告する。
蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。
彼はメシアが間もなく出現して、「麦」と「殻」とを分けるように人々に裁きを下し、殻を焼き払われる、と預言した。その後、イエス・キリストを十字架にかけて殺したために、ユダヤ人はその血の責任を負って 、亡国流散の憂き目にあった。紀元70年にエルサレムの都と神殿はローマの軍隊によって破壊され、焼き尽くされたのである。メシアの来臨は救いであると同時に裁きでもある。それはキリストの再臨においても同じである。
イエスの宣教の使信は要約すると、次のようになる。
時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)。
イエスの宣教の使信は洗礼者ヨハネのそれと連続性を持っている。ただし、イエスが宣教した「神の国」(天の国)はイエスの存在そのものによって証しされ、そこに実在するものであった。使徒ヨハネは洗礼者ヨハネの弟子であったが、師がイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言うので、彼はイエスに従い、イエスの弟子となったようである(ヨハネ1:35〜37)。「小羊」はヨハネの黙示録においてイエス・キリストを表すキーワードである(ヨハネの黙示録5:6、他)。
イエスの宣教の使信は「御国の福音」(gospel of the kingdom)と言われる(マタイ24:14)。「御国」の原語「バシレイア」は「王としての支配」を意味する。イエスは言われた、
わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(マタイ12:28)
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17:21)
これらは王なるメシアの来臨によって、「既に」神の国が地上にもたらされていることを示している。イエスは、神の国が成長し、拡大するものであることも、教えておられる。
天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。(マタイ13:31〜32)
御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。(マタイ24:14)
そして、イエスは、神の国が「未だ」完成しておらず、やがてキリストが再臨される時に完全に実現するものであることも、教えておられる。
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」。(マタイ25:31〜34)
21世紀を生きる我々にとって、神の国は「過去性」と「現在性」と「未来性」を併せ持つものと言える 。我々は、キリストの初臨において「既に」到来した神の国の支配下に移されて、キリストによる救いの恵みに与っており、成長し拡大する神の国の力を体験している。しかし同時に、罪と死の力が増大するこの世にあって、我々は「未だ」苦闘しながら、キリストの再臨において神の国が完成する時を待ち望んでいるのである。
5 神の支配 vs. 悪魔の支配
聖書は、「悪魔」とか「サタン」と呼ばれる人格的存在について教えている。聖書の初め、創世記第3章では、「蛇」が「女」に話しかけて、善悪の知識の木の実、すなわち禁断の木の実を食べるようにと誘惑している。聖書の最後、ヨハネの黙示録の第12章3節と第20章2節では、「悪魔」であり「サタン」である者が「古い蛇」と呼ばれている。「蛇」は悪魔の象徴的な表現なのである。
アダムとエバが悪魔の誘惑に負けて、神の戒めを破ったために、人間はすべて原罪を持つようになり、悪魔に支配されるものとなった。悪魔は「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者」、「不従順な者たちの内に今も働く霊」である(エフェソ2:1)。罪があるために、人間はみな聖なる神から隔てられ、神の祝福を受けられなくなった。
アダムとエバの破戒を知って、神は蛇に言われた、
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。(創世記3:15)
これはキリストが悪魔に完全に勝利することを表すものと思われる。人類の歴史は神の王国と悪魔の王国のせめぎ合いの歴史でもある。ただし、悪魔は神が許される範囲でしか活動できない(ヨブ1:12)。両者は決して対等ではない。
神の御子イエスは人々の罪を贖い、人々を悪魔の支配から解放するために、人間となって地上に来られた。イエスは宣教を始める前に、荒れ野で「悪魔」の誘惑を受けて、これに打ち勝たれた(マタイ4:1〜11)。イエスは「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るように、と弟子たちに教えておられた(マタイ6:13)。
弟子たちが宣教活動を行って帰って来た時に、イエスはこう言われた、
わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。(ルカ10:18〜19)
悪魔に対するキリストの勝利を決定的にしたのは、十字架の死であった。
神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものとなさいました。
(コロサイ2:14〜15)
聖書には、人間の「罪」を神に対する負債と考える思想がある。キリストがご自身の命を「代価」として差し出してくださったので、我々の借金証書は無効とされたのである。それゆえ、悪魔は私たちの罪を責めることができなくなった。
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ローマ8:34)
イエスが十字架に死なれたのは過越祭の時であった。かつてイスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを出る前に、「小羊」を屠って、その血を家の入り口の柱と鴨居に塗った。主はエジプト人を撃たれた時に、その血を見て、その家は過ぎ越された。過越祭はその出来事を記念するものである。洗礼者ヨハネはイエスを見て言った。
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)。
ヨハネの黙示録では、イエス・キリストは「小羊」と呼ばれている。天では「小羊」に讃美の歌がささげられている。
あなたは、巻物を受け取り、
その封印を開くのにふさわしい方です。
あなたは、屠られて、
あらゆる種族と言葉の違う民、
あらゆる民族と国民の中から、
御自分の血で、神のために人々を贖われ、
彼らをわたしたちの神に仕える王、
また、祭司となさったからです。
彼らは地上を統治します。(ヨハネの黙示録5:9〜10)
では、イエス・キリストが悪魔に打ち勝たれたのに、なぜ未だにこの世に罪悪が満ちているのだろうか。イエスはその答を教えておられる。マタイによる福音書第13章に書かれている「麦と毒麦」のたとえである。
天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。(マタイ13:24〜30)
良い種を蒔く人はキリスト、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子ら、毒麦を蒔いた敵は悪魔である。刈り入れは世の終わり、刈り取る者は天使たちである。世の終わりには神の厳格な審判が行われる。しかし今は、主は、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと」忍耐しておられるのである(第2ペトロ3:9)。
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6.ダニエル書の終末論
(1) 世界帝国の興亡の預言
旧約正典に含まれている黙示文学の代表格は「ダニエル書」である。ヨハネの黙示録にはダニエル書の影響が大きい。
ダニエル書の終末論的な預言には、ダイナミックな螺旋構造が見られる。
カルデア(新バビロニア帝国)の王ネブカドネツァル(在位紀元前605年~前562年)が夢で巨大な人物の像を見た。ユダ族出身のダニエルはその夢を解き明かして、金の頭、銀の胸と腕、青銅の腹と腿、鉄のすねと足、これらが4つの世界帝国を意味していることを王に告げた(第2章)。その後、ダニエルは4頭の大きな獣の幻を見た。獅子、熊、豹、10本の角を持つ獣である(第7章)。これらは王が見た幻にそれぞれ対応していると考えられ、カルデア(新バビロニア)、メド=ペルシア、ギリシア(アレクサンドロス王と4分割されたギリシア人の諸国家)、ローマの四帝国を指すものと思われる 。
(2) 反キリストの預言
なお、「10本の角」はヨハネの黙示録にも出てくる(12:3、13:1)。ダニエル書の「四世界帝国論」は、この世の最終末期に出現する反キリストの世界帝国の預言にも連動していると考えられ、今日に至るまでキリスト教の終末論に大きな影響を与えている。
ダニエルはさらに、二本の角が生えている雄羊、それを倒す雄山羊、4本の角、もう一つの小さな角の幻を見た(第8章)。これらはメド=ペルシア、アレクサンドロス王、4分割されたギリシア人の諸国家、セレウコス朝シリアの王アンティオコス・エピファネスを指すと思われる 。アンティオコス・エピファネスは紀元前167年にエルサレム神殿にゼウス神の祭壇を築いて、聖所を汚した。「荒廃をもたらすもの」(ダニエル9:27、11:31、12:11)はその預言であり、さらにその事件は終末における反キリストの予型である、と考えられる(マタイ24:15)。
(3) 「人の子」の預言
ダニエルが見た「人の子」の幻は王なるメシアの預言である。イエスは「人の子」の称号をご自身にお用いになった。そして、これはヨハネの黙示録第1章13節につながっている。
燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。(ヨハネの黙示録1:13)
第2章 千年王国的終末論の諸類型
彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
(ヨハネの黙示録第20章4,6節)
第2章 千年王国的終末論の諸類型
千年王国的終末論の諸類型について、以下に整理してみよう。
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1 千年期前再臨説(premillennialism)
これは千年王国に先立ってキリストの再臨があるとする教説である。「千年」を字義どおりに考えるこの解釈は、初代教会において有力であり、現代でも支持する人が多い。
ヨハネの黙示録では、終末時代は次の順序で書かれている。
(~18章)(19章)(20章) (20章) (21章)
現代の千年期前再臨説は以下の三種に分類される。
① 患難時代前携挙説(pretribulationism)
古典的ディスペンセーション主義の終末論を要約すると、以下のようになる。キリストは旧約聖書に預言されたとおりに「ダビデの子」、「ユダヤ人の王」としてこの世に来臨されたが、ユダヤ人はメシアとその王国を受け入れなかった。そのため、その王国の成就は延期され、その間に「異邦人の時」である教会時代が挿入された。やがてキリストは再臨して、ダビデの王国=イスラエルを回復される。この千年期にイスラエルは旧約聖書に預言されたとおりにパレスチナを相続し、エルサレムの神殿を復興し、異邦の民を支配する。
この立場では「患難時代には、キリスト者は既に天に引き上げられていて、難を逃れ、イスラエルは地上に残される」という。キリストの再臨は、空中再臨と地上再臨の2回にわたる。この教説の支持者はキリスト再臨のしるしを熱心に探し、終末についての聖書の預言を現在の世界情勢に当てはめて解釈する傾向がある 。
空中再臨→信者の携挙
→→→→→→→→→→→患難時代→地上再臨→千年王国→最後の審判→新天新地
エルサレムの平和を祈るとは - 月刊『つのぶえ』-ショファール-
② 患難時代後携挙説(posttribulationism)
これは「キリスト者は患難時代を耐え抜いた後に天に挙げられる」という教説である。患難時代後携挙説は初代教会から現代に至るまで、最も広く支持されている。
ヨハネの黙示録で「千年王国」について言及しているのは20章1~7節だけであるのに対して、3年半(11:2,3,12:6,14,13:5)と思われる「患難時代」については6章から18章まで詳細に述べられている。これは、患難時代がキリスト者にとって重大な意味を持つからであろう。
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③ 患難時代中携挙説(midtribulationism)
これは、キリスト者は患難時代の途中で天に引き上げられる、とする教説である。これを支持する者は少数である。
空中再臨→信者の携挙
患難時代→→→→→→→→→→→→地上再臨→千年王国→最後の審判→新天新地
2 千年期後再臨説(postmillennialism)
これは、教会の宣教によってキリスト者の霊的道徳的影響力が増して、地上に千年王国が実現し、その時代の後にキリストが再臨するという、楽観的・進歩主義的な教説である。
アウグスティヌス(354~430年)は、天地創造の六日間と神が安息された一日をこの世の七つの時代にあてはめて教えた 。
第一の時代 アダムからノアまで
第二の時代 ノアからアブラハムまで
第三の時代 アブラハムからダビデ王まで
第四の時代 ダビデからバビロン補囚まで
第五の時代 バビロン補囚からイエス・キリストの生誕まで
第六の時代 イエス・キリストの生誕から再臨まで(教会の時代)
第七の時代 イエス・キリストの再臨以降(安息)
第八の時代 主の永遠の第八日(永遠の王国)
聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か (講談社現代新書)
- 作者: 岡崎勝世
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このアウグスティヌスの歴史観は、「主のもとでは、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」(第二ペトロ 3:8)という聖書の言葉に由来するものである。
アウグスティヌスは、『神の国』(DE CIVITATE DEI)の第20巻第7章・第8章・第9章において、ヨハネの黙示録第20章の千年王国について彼の見解を述べている 。
ところで、一千年間、悪魔が拘禁されているのであるが、そのしばらくのあいだ、聖徒たちはキリストと共にこの一千年間を支配する。それは、同じ意味において、そして、同じ時――すなわちキリストの最初の到来によって現実にはじまった時――を示すものとして解されるべきである。(中略)そうでなければ、「教会」がいまもキリストの王国とよばれたり、天の王国とよばれたりすることはまったくありえないであろうからである。
- 作者: アウレリウスアウグスティヌス,服部英次郎,藤本雄三
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アウグスティヌスは「教会」と「神の国」、「千年王国」を同一視して、現在の契約期 the present Christian dispensation の中にこそ至福千年を求めるべきである、と説いた 。ただし、彼は「千年」を文字通りではなく、「時の充満があらわされる」 象徴的な数字と見ている。「『千年の期間が終わるまで』といわれているのは、第六日目――それは一千年から成り立っている――の残りのことであるか、それとも、つづいてこの世が通過されていくために存する年のすべてのことであろう」 と彼は述べている。アウグスティヌスの象徴的・神秘的解釈法は、中世全体を通じてローマ・カトリック教会の標準となった。
宗教改革時代の神学者は、ルター派もカルヴァン派も英国国教会もみな、ヨハネの黙示録第20章をアウグスティヌスの線に沿って解釈した。急進派がヨハネの黙示録を重視したのに対し、ルターは福音書とパウロ書簡を重視して終末論を考えた。ルター派と改革派は急進派の終末論と運動を厳しく批判した。
「アウグスブルク信仰告白」(1530年)にはこう記されている。
われわれの諸教会は、罪を宣告された人々と悪魔に対する刑罪にも終わりがあるであろうと考える再洗礼派を、異端と宣告する。また、現在ユダヤ的な見解を流布して、死人の復活に先立って、敬虔な人々がこの世の国を支配し、不敬虔な者たちはあらゆる所で制圧されるであろうと説いている人々をも、異端と宣告する。(第17条)
近代においては啓蒙思想と進化論の影響によって、楽観的・進歩主義的な歴史観がより強固になった。しかし人類が、二つの世界大戦、核戦争の危機、地球環境問題、難民問題、テロリズムといったグローバルな難問を経験した20世紀には、このような楽観的な見方をとることは難しくなった。
千年王国(→患難時代)→再臨→信者の携挙→最後の審判→新天新地
3 無千年王国説(amillennialism)
これは、千年期は無い、キリストの地上支配は無い、という教説である。キリストの再臨に続いてすぐに最後の審判が行われ、新天新地に移行する、という見解である。「千」は数値ではなくて、完全の象徴と考える。
千年期後再臨説と無千年王国説は近代に至るまで区別されなかったようである。両者の違いは、キリストの地上支配の有無にある。第一次世界大戦以降、千年期後再臨説を主張することが難しくなったため、無千年期説がこれに取って代わるようになった、というのが実情らしい 。
無千年期説を支持する者は、ヨハネの黙示録の展開を、時間の経過と見るのではなく、同じ時、すなわち教会史全体についての異なった視点からの叙述と見る。
患難時代→再臨→信者の携挙→最後の審判→新天新地
4 解釈の問題
これまで見てきたように、千年王国についての理解は、それぞれの時代の歴史的社会的条件に大きく影響されている。ヨハネの黙示録は象徴的な表現が多いため意味を特定しづらく、解釈の幅が広がってしまい、解釈者はヨハネの黙示録のテキストに自分自身の状況を読み込んでしまいがちなのである。そこで「千年王国とは何か」という問題を解くためには、ヨハネの黙示録という黙示文学をどのように解釈するか、まず解釈の方法論を確立する必要がある、ということになる。
中世のローマ・カトリック教会の聖書解釈は、通常、一つの本文に四つの意味がある、という前提に立っていた。すなわち、文字的解釈、比喩的解釈、道徳的解釈、寓喩的解釈である。「文字は事実を語り、比喩は信じるべきことを、道徳は為すべきことを、霊的なものは希望を教える」と言われる。
マルティン・ルターはこれに反対して、聖書の意味は四つではなく、ただ一つであり、歴史的文法的な意味だけである、と主張した。ジャン・カルヴァンも同じ立場に立った。ルターの解釈原理は、今日に至るまで正統的なプロテスタントの解釈原理として認められてきた、と言ってよいだろう。しかし、この解釈原理はヨハネの黙示録の解釈にあたっても十分な方法論と言えるだろうか。カルヴァンは見事な新約聖書の註解を残しているが、ヨハネの黙示録の註解だけは書かなかった。ルターもヨハネの黙示録の研究には消極的であった。
聖書66巻には様々な著作の状況があり、それぞれに固有の目的があり、文学類型も多種多様である。我々はそれぞれの時代状況と目的と文学類型を理解して、それに適合した方法を用いて解釈をすべきだろう。そうでなければ、的外れな解釈になりかねない。
筆者は、ヨハネの黙示録第20章1〜6節に記された「千年王国」の解釈にあたっては、次の5つの方法を用いるのが良い、と考えている。
(1) 歴史的な解釈(執筆当時の歴史的社会的状況におけるテキストの意味を探究する)
(2) 文学的な解釈(著作の目的・文学形式・文体・構造からテキストの意味を探究する)
(3) 正典的な解釈(聖書全体及び各書との関係においてテキストの意味を探究する)
(4) 預言的な解釈(未来に属する出来事が救済史において持つ意味を探究する)
(5) 実存的な解釈(現代を生きる我々に対してそのテキストが持つ意味を探究する)
第3章では、ヨハネの黙示録の思想的前提となっている聖書の歴史観と終末論について考察したい。続いて第4章では、聖書の終末論の基本的な構造をふまえて、以下の4つの視点からヨハネの黙示録を読み解きたい。
(1) ヨハネの黙示録の展開は時代の流れを意味するのか
(2) キリスト者は患難時代を最後まで経験するか
(3) 教会を千年王国と同一視できるか
(4) 千年王国は字義どおり千年間続くのか
そして、第5章でキリストの地上支配の有無を論じ、「千年王国」が意味することを明らかにしたい。