KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

神に渇く(ヨハネ4:1-26)


2020年10月11日「神に渇く」ヨハネ4:1-26

日本バプテスト同盟 西岡本キリスト教主日礼拝説教

 

■聖書朗読 ヨハネによる福音書 4章1~26節

 

 1 さて、イエスヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、 2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―― 3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。 4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。 5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

 19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

 25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 

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■説教 「神に渇く」  金井 望

 

  1.サマリアを通って

 時は、主イエスが宣教活動を始めて間もない紀元27年の夏頃と思われます。その年の春に過越祭のためにエルサレムに上京した後(2:13)、イエスと弟子たちはユダヤ地方で伝道活動を行って、人々にバプテスマを授けていました(3:22)。イエスがメシア――ユダヤの人々が待ち望んでいた、神の遣わす救世主――であると洗礼者ヨハネが、証ししたため、イエスの弟子は洗礼者ヨハネよりも多くなりました(4:1)。すると、ユダヤ教シナゴーグ(会衆、会堂)を指導していたファリサイ派の人々がイエスを警戒し、危険視するようになりました。そこで、イエスの一行は本拠地であるガリラヤ地方に帰ることとしました。

 彼らは、その帰郷するルートとして、最短コースであるサマリア経由の道を選びました。通常、ユダヤ人はサマリア地方を避けて、ヨルダン渓谷の道を通るのですが、この時は〈サマリアを通らねばならなかった〉のです。急いで逃げたかったという事情もありますが、神の御計画においては、サマリアの人々に福音――メシアの到来――を知らせるという重要な目的がありました。

 イエスの一行が〈シカルというサマリアの町〉に着いた時、時刻は正午の頃、暑い時間帯になっていました。彼らは疲れ、喉が渇いたため、〈ヤコブの井戸〉のそばに座りこみました。ヤコブアブラハムの孫であり、イサクの息子です。紀元前19世紀頃にヤコブの息子たちからイスラエル12部族が生まれました。

 

  2.サマリアとは

 さて、そこにひとりの〈サマリアの女が水をくみに〉来ました。通常この地方では涼しい朝か夕方に水汲みをします。これはなかなかの重労働だからです。ではなぜこの女性はこんな暑い時刻に水汲みをするのでしょうか。それは、彼女が人目を避けていたからです。

 この女性に主イエスが声をかけました。
「水を飲ませてください」
この時、〈弟子たちは食べ物を買うために町に行って〉、不在であり、主イエスは井戸から水を汲む道具を持っていませんでした。
 すると、サマリアの女性はこう応えました
ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」
ユダヤ人はサマリア人とは交際しないから〉です。

 〈サマリア〉はかつての北王国イスラエルの首都の名称であり、その周辺地域を含めてサマリアと呼ばれていました。紀元前722年に北王国イスラエルアッシリア軍によって滅ぼされ、国の主だった人々2万7000人余りは捕囚としてアッシリアに連行されました。そして、メソポタミアの5つの町の異邦人がサマリアに移住させられて、イスラエル人との混血が進み、サマリア人となったのです(列王下17:24-33)。

 サマリア人モーセ五書を改竄した「サマリア五書」を正典としており、前4世紀にエルサレム神殿に対抗する神殿をゲリジム山に築きました。サマリア人ユダヤ人は本家本元をめぐって対立し、激しく争ってきたのです。

 紀元前538年にバビロン捕囚から解かれてユダヤ人がエルサレムに帰還した後の時代には、サマリア人は彼らの神殿再建や城壁の修復作業を妨害しました。マカバイ戦争においてはサマリア人セレウコス朝シリアに味方して、ユダヤ人を攻撃し、彼らの独立を邪魔しました。それに対してユダヤ人は報復としてゲリジム山の神殿を焼き討ちにしました。世間では骨肉の争いと言いますが、これは最悪な関係です。

グッドモーニング, パレスチナ : ゲリジム山とサマリア人

世界の文字 サマリア文字

Samaritan Pentateuch - Wikipedia

Samaritanism - Wikipedia

ゲリジム山とは - コトバンク

Mount Gerizim - Wikipedia

 

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  3.生きた水

 イエスは彼女にこう言いました。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」
 〈生きた水〉とは流れている清い水のことであり、淀んで腐った水は「死んだ」水です。
 イエスが不思議なことを言うので、彼女は尋ねました。
「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」
 イエスは答えて言いました。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
 彼女は毎日の水汲みに疲れていたため、こう言いました。
「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」

 

  4.愛に渇く

 すると、イエスは思いがけないことを彼女に言いました。
「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」
 〈〉と聞いて、彼女はドキッとしたでしょう。それは一番触れられたくない話題でした。ドキドキしながら、この問題を避けようとして、不機嫌そうに彼女は答えました。
「わたしには夫はいません」
 すると、イエスは彼女の隠れた心の病巣にズバリと切り込みました、医者が患者の体に鋭いメスを入れるように。
「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」
 (ここまで正確に知っているとなると、逃げられない! この人、何者?)
 サマリアの女たちは、彼女の結婚歴と現在の同棲生活を、井戸端会議の格好の話題としていたでしょう。
「五人も夫を替えるなんて、信じられない!」
「今の男とは籍も入れていないのよ」
「なんてふしだらな…。あの人と関わると、こっちまでケガレちゃいそうだわ」
 しかし、主イエスは彼女を一切責めていません。
 あの姦淫の現場で捕えられて、石打ちの刑にされそうになっていた女性に対しても、主イエスは一言も責めませんでした。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」ヨハネ8:11)
 このサマリアの女性の心は愛に渇いていたのです。彼女は男性に期待しました。
(きっとこの人なら、私の渇いた心を潤して、満たしてくれるに違いない)
 しかし、その水は飲んでも飲んでも、渇きが癒えることはありませんでした。

 人間の心にはポッカリと空いた空洞があります。それは神しか満たすことができない空洞です。それを人に求めても、誰も満たしてはくれません。それを満たすことができるのは神の霊であり、神の愛です。

  5.神に渇く

 夫に求めても、私の渇きは癒されないーー。それで彼女はゲリジム山の宗教に期待して、何度も通ったのでしょう。けれど、それも駄目でした。彼女はイエスに質問しました。
「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」
 彼女は、サマリア人ユダヤ人が対立する問題の本質を、知っていたのです。
 イエスは彼女に答を与えました。
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」
 彼女は言いました。
「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」
 イエスは究極の答を彼女に与えました。
「それは、あなたと話をしているこのわたしである」
 この〈わたしである〉とは、ギリシア語原文で「エゴー・エイミ」、英語に訳すと「I am that I am」、「わたしは『わたしは有る』というものだ」。これはモーセに顕現された神「主」(YHWHヤハウェ)がご自分を指して言われたフレーズであり、唯一なる神以外、誰も使ってはならない聖なる言葉です(出エジプト3:14、20:7)。
 この真の神である【主】イエス・キリストに出会った時に、この女性の霊は初めて満足を得て、心の渇きが癒されたのです。

 あなたの心は愛に渇いていますか? あなたの霊は神に渇いていますか? その渇きを癒すことができるのは主イエス・キリストです。私たちも主イエスに近づかせていただきましょう。

 

kanai.hatenablog.jp

 

主の御言葉に従う(ルカ5:1-11)


2020年8月30日「主の御言葉に従う」ルカ5:1-11

日本バプテスト同盟 西岡本キリスト教会 主日礼拝

 

■聖書 ルカによる福音書5章1-11節 <新共同訳>


1 エスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
2 エスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。
11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 

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■説教 「主の御言葉に従う」

  1.主と出会う場所


 時は紀元後27年の年が明けて間もない早春と思われます。主イエスガリラヤ地方で宣教を始めて間もない頃です。〈イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて〉来ました。「イエスは特別な権威をもって聖書を説き明かし、悪霊を追い出し、病を癒して、人々を救っている」という評判は、ガリラヤ地方一帯に広まり、大勢の人がイエスの話を聴こうとして、集まってきたのです。

 ゲネサレト湖というのはガリラヤ湖の別名です。南北20キロメートル、東西12キロメートル、166平方キロメートルの広さです。琵琶湖の4分の1、霞ケ浦博多湾と同じくらいです。水深が44メートルの淡水湖で、40種類の魚が棲息しています。ここは南北に続く大地溝帯に位置しており、湖の水面は地中海の水面よりも210メートルほど低くなっています。肥沃な平原と丘陵に囲まれた美しい湖です。ここで獲れた魚は塩漬けや干物やピクルスにされて、輸出されていました。

 イエスは〈二そうの舟が岸にある〉のを御覧になりました。そこで漁師たちは、舟から上がって網を洗って〉いました。そこにいた漁師、シモン(ペトロ)とアンデレとヨハネはすでに、べタニアでイエスの弟子となっていました(ヨハネ1:35-42)。それ以前は、アンデレとヨハネバプテスマのヨハネの弟子となっていましたが、そのバプテスマのヨハネがイエスを「見よ、神の小羊だ」と証ししたので、彼らはイエスの弟子になったのです。シモンとアンデレはベトサイダ村出身の兄弟です。この兄弟と、ゼベダイの子ヤコブヨハネの兄弟は、いつも共に漁をする仲間でした。

 イエスは〈シモンの持ち舟に乗り〉、岸から少し漕ぎ出したところから、〈腰を下ろして〉群衆に福音を教えました。4章44節に記されているように、イエスユダヤ教のラビ(教師)として会堂(シナゴーグ)で説教をされることも多々ありましたが、このような湖畔でもどこでも人々に福音を説いておられました。

 コロナ禍で集まることが難しくなりましたが、私たちは教会ではもちろんのこと、それ以外の場所でも、日常生活の中でどこででも主と出会い、お交わりをすることができるのです。

 

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  2.主の御言葉に従う


 イエスは〈話し終わったとき、シモンに〉仰せになりました。
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」
 ペトロは答えました。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」
 彼らは夜通し漁をしたのに何も獲れず、心身ともに疲れていました。網を洗ってきれいにしたところであり、これからまた漁をするなんて面倒な話です。まして、イエスは大工であり、漁に関しては素人です。シモンは困惑しつつも、こう言いました。
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」

 〈漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうに〉なりました。そこで、〈もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように〉頼みました。〈彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった〉のです。

 私たちも、一生懸命に努力したのに成果があがらず、失望するときがあるでしょう。それでも、主の御言葉を信じて従うならば、主は私たちにも大きな祝福を与えてくださいます。

 

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  3.主に用いられる人


 〈これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して〉、言いました。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。
〈とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたから〉です。

 この出来事を通して、シモン・ペトロは、「イエスはただの人間ではない。神聖なお方である」と悟りました。そして、自らの罪深さを感じ、御前にひれ伏しました。

 人は、神と向き合う時に初めて、自らの真相を悟ります。自分は何と罪深く、聖なる神から遠く離れたものであることか、と。「私はクリスチャンになってから、さらに自分は罪深い人間だと思うようになりました」とおっしゃる方がいますけれど、それはクリスチャンとして健全な認識です。神の光に照らされているからです。私たちが神に近づけるのは、ただ神の一方的な恵みによって罪を赦され、きよめられたからです。

 ペトロはパウロのように専門教育を受けた学者ではありません。けれども主は彼をリーダーに選ばれました。神は高ぶる者を退けて、へりくだる者に恵みを与えてくださいます。

 イエスはシモンに言われました。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。
〈そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った〉のです。

 その後もペトロの家は宣教の拠点として用いられており、ペトロは夫人同伴で宣教旅行をしていたようです(第一コリント9:1)。主イエスの復活の後、弟子たちはガリラヤ湖で漁をしていますから、(ヨハネ21:3)舟も手放してはいなかったようです。おそらくペトロたちの舟は、主イエスガリラヤ湖周辺での宣教活動にも用いられていたでしょう。

 ここで「捨てる」というのは、主イエスに従うことを最優先にするということであり、そのために余計なことをできるだけ削減して、弟子の道に専念するということです。

 主が大切に見ておられるのは「人間」です。魚のことで頭がいっぱいだった彼らが、それからは人のたましいに目を向けるようになりました。

 私たちは何を大切にして、何を得ようとしているでしょうか。主の御言葉によって、私たちの進むべき道を照らしていただき、主に従ってまいりましょう。 

 

自分らしく生きるために(マタイ11:28-30)


2020年7月19日「自分らしく生きるために」マタイ11:28-30


■聖書 マタイによる福音書11章28-30節

<新共同訳>
28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 

<金井試訳>
28 疲れ果てているのに、
 ずっと(律法の)重荷を負わされている人は皆、

 私のところに来なさい。
 休ませてあげます。
29 私は優しく謙虚な心で生きていますから、
 私のくびきを(一緒に)かついで、私から学びなさい。
 そうすれば、あなたがたのたましいは休息を見出します。
30 なぜなら、私のくびきはピッタリと合っていて、
 私の(教えは)荷が軽いからです。

Matthew 11:28 Interlinear: 'Come unto me, all ye labouring and burdened ones, and I will give you rest,

 

■説教 「自分らしく生きるために」


 イエス・キリストは私たちにとって、どのようなお方でしょうか。もちろんイエス・キリストは、天地万物を創造した永遠におられる神であり、贖いのわざを成し遂げた私たちの救い主です。これ以上ない偉大なお方です。私たちはイエス・キリストを尊び、礼拝しています。

 けれども、イエスは天の最も高いところに君臨する王であるのみならず、霊的にはいつもこの世で私たちと共に歩んでくださる教師であると、聖書は教えています。それは具体的には、どういうことでしょうか。今日は、よく知られているマタイによる福音書11章28-30節の御言葉から、このことについて学びたく思います。ギリシア語の原文にできるだけ忠実な訳文を書きましたので、参考にしてください。
 このテキストには、主イエスが語られた三つの命令が記されています。
 第一は「私のところに来なさい」、
 第二は「私のくびきを一緒にかつぎなさい」、
 第三は「私から学びなさい」です。
 この三つに分解して、お話しします。

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ユダヤ教会堂シナゴーグ


  1.私のところに来なさい


 紀元1世紀にユダヤガリラヤの各地にあるユダヤ教会堂シナゴーグ)で指導者となっていたのは、ファリサイ派と呼ばれる人たちでした。「ファリサイ」という言葉は「分離した者」という意味だと思われます。穢れたものから自分たちを分離する、いわば清め派といったところでしょう。

 その中でも旧約聖書の律法を専門的に学んだ人たちは律法学者と呼ばれ、会堂の礼拝だけでなく、会堂に付設された学校でも律法を教えていました。そのルーツは、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還したユダヤ人が主の神殿を再建した(紀元前515年)後に、宗教改革を断行した偉大な祭司エズラである(紀元前458年以降)と考えられています。

 主イエスが地上で宣教をなさった紀元27年から30年頃には、律法学者やファリサイ派の人々は、民衆に膨大な数の戒律を課しました。口伝律法と言いますが、それは聖書に記された律法の何倍、何十倍にも増えていきました。そして彼らは、戒律を守らない人々=守れない人々を、「罪人」として社会から排除したのです

 これに対して主イエスは断固として反対して、彼らの律法主義を厳しく批判されました

あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。(マタイ15:6)

彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。(同15:14)

  たとえば、安息日にイエスの弟子たちが麦畑を通った時に、彼らはお腹が空いていたので、麦の穂を摘んで食べました。すると、ファリサイ派の人々は「あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしている」と言って、イエスを批判しました(マタイ12:1-2)。麦を摘んだことは「収穫」、麦の実を殻から取り出したのは「脱穀」、実を手で揉んだのは「調理」で、安息日に禁じられた労働だ、というわけです。
 律法学者やファリサイ派の人々は〈背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない〉のです。(マタイ23:4)。主イエスは、そのような律法の〈くびき使徒15:10)から人々を解放されました
 貧しい人や罪人、病人、障がい者、女性、子どもなど、ユダヤ教会で軽んじられた人々は、イエスのもとに集まりました。幼な子のように無心に主を求める彼らに福音が啓示されたのは、父なる神の御心にかなったことでした(マタイ11:25-26)。

 主イエスは今も招いておられます。

疲れ果てているのに、
ずっと律法の重荷を負わされている人は皆、
私のところに来なさい。
休ませてあげます。

 私たちも様々なルールや慣行によって「しなければならないこと」が山積しており、できないことを責められている、あるいは自分で自分を責めているのではないでしょうか
 疲れ切った時は、無理せず休むしかありません。〈安息日の主〉(マタイ12:8)であるイエスは、私たちの霊も心も体も理解しておられ、必要な休息を与えてくださいます。主イエスは、みもとに来る人を、だれでも受け入れてくださいます。私たちも主イエスのみもとに近づきましょう

 

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軛(くびき)

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  2.わたしのくびきを一緒にかつぎなさい


 続いて主イエスはこう言われました。

私は優しく謙虚な心で生きていますから、
私のくびきを一緒にかついで、私から学びなさい。
そうすれば、あなたがたのたましいは休息を見出します。
なぜなら、私のくびきはピッタリと合っていて、
私の教えは荷が軽いからです。

 くびき〉は二頭の雄牛の首にかけて、車や鋤(すき)を引かせる道具です。イエスは青年時代にナザレで大工をしておられました。当時の大工は、木工に関わる仕事は何でもしました。「私が作るくびきは、あなたにピッタリと合っていて楽だよ。私の大工の腕は一流だから」とイエスは言っておられるのです。

 くびき〉が体型に合っていないと、雄牛は首がくびきに擦れて痛み、疲れてどうしようもなくなります私たちは、自分に合わない仕事や生活のスタイルを続けて、無理をしていないでしょうか? 心や体が痛みを訴えていないでしょうか? あるいは解決していない罪のために、あなたの霊が痛んで、叫び声をあげていないでしょうか?

 私たちの霊と心と体を創造した主は、私たちの不具合を理解しておられ、必要な休息と治療を勧めてくださいます。疲れた時は静かに休んだら良いのです。痛んだら、サインが出ているのですから、ちゃんと治療をしましょう。

 元気が回復したら、また歩き出しましょう。自分にピッタリと合った新しい〈くびき〉を付けて!
   
  3.私から学びなさい


 この世で生きていく以上、人は誰でも、負わなければならない〈荷物〉があります。私たちがキリスト者になったからといって、〈荷物〉が無くなるわけではありません。私たちは自分の家庭や職場、地域社会、親族、教会、交友関係、社会的立場、役割から離れることが、容易にはできません。けれど、〈私の荷は軽い〉と主イエスは言われます。キリスト者旧約聖書の律法から自由にされました。キリストによって与えられた真理が、私たちを自由にしたのです

真理はあなたがたを自由にする。(ヨハネ8:32)。

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)

  そして、もう私たちは独りで荷物を負うことがありません。〈くびき〉は二頭で負うものです。主イエスがあなたのパートナーとなり、あなたの荷物を共に負って歩んでくださるのです。主イエスはこう言っておられます。

私は優しく謙虚な心で生きていますから、
私のくびきを一緒にかついで、私から学びなさい。

 主イエスは、私たちの人生の最高のコーチです。主はあなたのペースに合わせて一緒に歩きながら、良い手本を見せてくださいます。そして、いろいろな局面で一つ一つアドバイスを与えてくださいます。私たちが聴く耳を持っているなら、主イエスはいろいろな方法で私たちに語りかけてくださるのです。私たちキリスト者はキリストの弟子として、キリストを見習いながら、キリストに聴いて、成長していきます
 旧約聖書の律法は〈キリストの律法〉によって完成されます。

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、その自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤ5:13-14)

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。(ガラテヤ6:2)

 主イエスのごとく〈優しく謙虚な心で〉生きていく者となりたいですね。