KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

「霊交互助」「財布は一つ 骨は拾う」

*ここに書く文章は、あくまで私案・試案・思案です(夢想でないことを祈ります)

「霊交互助」「財布は一つ 骨は拾う」


これは、私たち日本イエス・キリスト教団が創立(1951年)以来、モットーとしてきた標語です。

 

私たちの教団の牧師・教師は皆、神戸・塩屋にある関西聖書神学校で同じ釜の飯を食った仲間です。この神学校とわが教団の母体となったミッション(宣教団)は、日本伝道隊(JEB : Japan Evangelistic Band)です。終戦後の貧しい時代に、助け合って、共に諸教会を復興し、日本全国に、さらに世界に福音を満たすために、立ち上げた教団です。

 

2013年12月末の時点で、所属している教会数は131北海道から沖縄まで全国各地に広がっており、9つの教区と一つの地区があります。教団は包括宗教法人であり、地域教会には独自に法人格を持っているところと教団直属のところとがあります。

わが教団の人事制度は、任命制招聘制を兼ね合わせたものとなっています。教団の規約と規則においては、各地域教会の招聘に基いて、教団委員会が牧師・教師を任命し、各地域教会に派遣する形になっています。実際には、教団委員会教会役員会牧師・教師、三者の協議・調整によって人事が決まります。


わが教団では、各地域教会から礼拝献金と月定献金の10分の1を教団に送金しています。そして、財政的に困難な状態にある教会は、教団委員会謝儀額不足分援助を申請し、それが認められた場合、教団から援助金が支給される制度を持っています。

 

実際には、各地域教会は毎月、教師謝儀分の金額を教団の口座に振り込み、教団から牧師・教師の口座に謝儀が支給されています。牧師・教師の大多数は、教団の社会保険(健康保険、年金)に加入しています。雇用保険はありません。

教団は教師謝儀基準を定めていますが、原資が限られているため、実際のところ、教師謝儀に大きな格差が生じており、教団が定めた謝儀基準額に達していない牧師・教師が少なからずいます

今、日本の各地方では、農山漁村も都市も少子高齢化過疎化=人口減少が進行しています。地方の教会では、常駐する牧師がいなくなりつつあり教会のともし火が一つ一つ消えていこうとしています牧師志願の献身者が少ないことも大問題ですが、牧師を迎えられる環境に無い地方教会もあります。


このような時代だからこそ、我々は、

「霊交互助」 「財布は一つ 骨は拾う」

という大方針を、文字通り実行すべき時ではないでしょうか!

その具体策をいくつか考えてみました。

(1)信徒の皆さんは、できるだけ自分が住んでいる地方、町、地域の教会に行きましょう。あまりに遠い教会では、物理的な負担が大きくて、教会で十分な活動をする時間を持てず、家族や友人・知人を教会に招くのも難しいでしょう。

(2)自分の出身地や関係のある土地の教会が経済的に困難な状態であるならば、「ふるさと感謝献金」、「ふるさと月定献金」、「ふるさとクリスマス献金」などをその教会に送りましょう。

(3)都会の教会から地方の教会へ伝道応援に行きましょう。

(4)未信者の家族・親族・友人・知人に近くの地域教会を紹介しましょう。

(5)地区単位で、あるいは県単位で、教区単位で、地域教会が合同して、それぞれ一つの宗教法人となり、会計を一つにまとめましょう。まとまることで大きな経済力が生まれます。

(6)地域教会が、教団の規定通りの牧師謝儀を支給しましょう。それがどうしても困難な地域教会に対しては、教団が補助金を支給しましょう。

(7)経済面だけでなく、伝道・牧会においても、それぞれのグループで助け合い、共同で宣教を推進しましょう。これまでの教区の枠組みは不要となるかもしれません。それぞれの地方の実情に合った法人組織・グループを作れば良いのです。

以下は、関係する聖書の言葉です。

兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
(ローマ人への手紙12章10、15節)

目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。
そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。
麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。
神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。
あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
(コリント人への第一の手紙12章21~27節)

キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。
(エペソ人への手紙4章16節)

それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。
いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。
ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。
また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。
わたしは、人間の考えでこう言うのではない。
律法もまた、そのように言っているではないか。
すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。
神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。
それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。
もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。
すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。
もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。
もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。
しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。
あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。
それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。
(コリント人への第一の手紙9章6~14節)

聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。
一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。
わたしが到着したら、あなたがたが選んだ人々に手紙をつけ、あなたがたの贈り物を持たせて、エルサレムに送り出すことにしよう。
(コリント人への第一の手紙16章1~3節)

わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。
すなわち、自ら進んで、聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。
そこで、この募金をテトスがあなたがたの所で、すでに始めた以上、またそれを完成するようにと、わたしたちは彼に勧めたのである
さて、あなたがたがあらゆる事がらについて富んでいるように、すなわち、信仰にも言葉にも知識にも、あらゆる熱情にも、また、あなたがたに対するわたしたちの愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富んでほしい。
それは、ほかの人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようとするのではなく、持ち物を等しくするためである。
すなわち、今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである。
それは「多く得た者も余ることがなく、少ししか得なかった者も足りないことはなかった」と書いてあるとおりである。
(コリント人への第二の手紙8章3~7、13~15節)

わたしは他の諸教会をかすめたと言われながら得た金で、あなたがたに奉仕し、あなたがたの所にいて貧乏をした時にも、だれにも負担をかけたことはなかった。
わたしの欠乏は、マケドニヤからきた兄弟たちが、補ってくれた。
こうして、わたしはすべての事につき、あなたがたに重荷を負わせまいと努めてきたし、今後も努めよう。
(コリント人への第二の手紙11章7~10節)

ピリピの人たちよ。
あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。
またテサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。
わたしは、贈り物を求めているのではない。
わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。
わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。
エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。
それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である。
わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。
(ピリピ4章15~19節)

<日本イエス・キリスト教団公式サイト> http://jccj.info/localchurch.php

<関西聖書神学校公式サイト> http://kbc-bw.sakura.ne.jp/Kansai_Bible_College/Welcome.html

<日本伝道隊公式サイト> http://jebnet.jimdo.com

<Japan Christian Link 公式サイト> http://www.jclglobal.org/japanese/