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カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

福音主義における聖書釈義について(JETS研究会議 感想)

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日本福音主義神学会 第14回全国神学研究会議

テーマ:福音主義神学、その行くべき方向 - 聖書信仰と福音主義神学の未来 -」
     Evangelical Theology, Where Should We Be Going ?
日 時:2014年11月4日(火)〜11月6日(木)
会 場:関西聖書学院(奈良県生駒市門前町22-1) 

〈資料〉http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_all_and_sections.htm

f:id:nozomu-kanai:20141108000308j:plain

(この写真は古川 和男先生からいただきました)

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【1】瀧浦滋師(神戸神学館) 主題の趣旨説明 要約

 

  1.今回のテーマの意義と会議の構成について

日本福音主義神学会(JETS)は、1970年4月に、聖書の十全霊感を信じる福音主義キリスト教の立場に立つことを共通の教義とし、教会の健全な成長と発達のために奉仕することを目的として誕生した。
以来、43年にわたり、東部・中部・西部の部会に分かれて、研究会や講演会を行ってきた。
今回の全国研究会議では、福音主義神学」の定義の問題、「福音主義神学」というものが独立した神学としてありうるのか? という問いを正面から取り上げたい。

第二次大戦後のアメリカと日本の福音派の中で始まった、固有名詞としての福音主義神学」アイデンティティーは、「聖書信仰」から源を発していた。
米国福音主義神学会ETS、1949年創設)の起源は、聖書信仰の一致のためであった。
日本福音主義神学会規定には、教理的には「聖書信仰」についての記述しかない。
(米国ETSでは現在は三位一体の規定が加わっている)。
そのためこれまで、極めて広い神学的な多様性を包含するフォーラムが形成されてきた。
これは聖書信仰を核とする福音派エキュメニズムと言えよう。

今日、この広範な広がりを持つ福音派の運動の軸となる聖書信仰の揺れから、福音派アイデンティティーが問われることが多くなっている。
そこで、福音主義神学の「基盤」を今日の神学各分野を踏まえて確認し、各会員、各神学校、各教団の置かれている「状況」を知り、福音主義の未来の方向の多様性における一致を求めて「争点」をあげつつ話し合う機会として、今回の全国研究会議を構成した。

  2.福音主義神学について

(1)福音主義神学は、聖書にあるイエス・キリストの福音をそのまま信じて掲げる神学である。福音主義は福音そのものから出ている。
(2)福音主義神学は、聖書に書かれている通りに神の御子キリストの受肉・十字架の贖罪・復活と再臨の希望の「超自然的事実」を、信仰により受け入れる神学である。
(3)福音主義神学は、聖書の霊感と正典性を受け入れ、誤りのない神のことばである聖書によって神の啓示を学び、そこから神と福音の真理を汲み取って営む学びの場である

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【2】津村俊夫師(聖書宣教会)発題講演『福音主義神学の聖書釈義』要約


1970年代以降、通時論から共時論へのシフトが起こった。
著者よりも読者にフォーカスがあてられ、歴史的事実については不可知論に陥った
文化相対主義「ポスト・モダン」と言われる時代の中で、聖書の権威についての考え方が問われている。
「歴史的・文法的釈義」の再定義が必要だ。
共時性・通時性・歴史性ーーこの三者の関係を整理する必要がある。
「ドイツ歴史批評学のヘゲモニーの時代は終わった」Jan Joosten(国際旧約学会)2013年
19世紀末H.グンケルの「混沌説」以降、創世記1章2節の tohuwabohu に「混沌」を認める立場の者が増えた。しかし、70人訳の翻訳者は、これの訳語として chaos を用いなかった。私は「茫漠」と訳した。
テキストそのものから離れない。
原典を読む力を養い続ける。
正しい「批判能力」を培うことが必要だ。


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【3】山崎ランサム和彦師(リバイバル神学校)津村師への応答 要約


歴史的・文法的アプローチは果たして、唯一の有効な聖書解釈の方法論なのだろうか。
それを聖書自体に記録されている聖書解釈の実例と比較してみると、実際には、新約記者たちの旧約釈義は、それから大きく外れているように思える場合がある。
たとえば、新約聖書に引用されている旧約の聖句の意味が、マソラ本文(ヘブル語)と七十人訳(ギリシア語)で一致しない場合、著者によって「意図された意味」はどちらにあると考えるべきだろうか。
聖書各巻の著者は直接的には聖書記者であり、究極的には神である。
第二テモテ3:16でパウロが「聖書はすべて神の霊感によるものである」と書いた時、彼が念頭に置いていた「聖書」はヘブル語原典を指すのか、それともギリシア語訳を指すのだろうか?
パウロや他の新約記者たちは、旧約聖書のヘブル語原典は霊感されているが、ギリシア語訳はそうではないと考えていたのだろうか?

新約聖書において、旧約記者の意図した意味を正確に把握して旧約聖句の引用がなされているのかどうかが、しばしば問題となる。
その典型的な例は、マタイ2章15節におけるホセア11章1節の引用である。
ホセア11章1節は過去におけるイスラエル出エジプトの出来事について述べているのであって、未来に出現するメシアについて述べているのではない。
紀元1世紀のユダヤ的釈義法は今日の歴史的・文法的釈義とはかなり異なるものであった。字義的な解釈法は存在したが、字義的な意味を超えた意味を旧約テキストに読み取る試みがなされていた。
基本的に使徒たちの釈義方法は、当時のユダヤ的解釈法の範疇にあったと考えることができる。
ただし、彼らの旧約解釈には、決定的に異なる新しさがあった。
それはイエス・キリストという要素である。
使徒たちは十字架につけられて死んで復活したナザレのイエスがキリスト(メシア)であり、旧約聖書のすべてはこのイエスを指し示しているという確信に基いて旧約聖書を読んでいった
このような読み方は、「キリスト中心的 Christocentric」あるいは「キリスト論的 Christological」「キリスト目的的 Christotelic」解釈と呼ばれる。
弟子たちのような解釈は、旧約聖書の歴史的・文法的釈義だけからは導かれないのではないか。

ルカ24章25〜27節、44〜47節では、復活後のイエスが弟子たちに対して、旧約聖書の全体がご自分において成就すると語っている。
弟子たちは、歴史的・文法的釈義の結果ではなく、イエスの教えと出来事を通して旧約聖書を「正しく」解釈できるようになったのである。
これは、新約記者が見出した旧約テキストの「意味」には、旧約記者がオリジナルの歴史的文脈で意図した以上のもの、「より完全な意味 sensus plenior」が含まれるのか、という問題に帰着する。
歴史的・文法的方法の観点からすれば、それは恣意的な読み込みであり、受け入れられない解釈法である。
しかし、新約聖書記者たちの聖書解釈法は、現代福音主義の標準的釈義方法である歴史的・文法的方法の枠内に収まるものではなかったのである。

そのような解釈は、霊感を受けた聖書記者にのみ許された特権だろうか。
新約聖書は解釈学的方法論においても規範的であり、現代の我々も彼らの解釈学的態度に倣うことができるのではないだろうか。
もちろん、霊感を受けていない我々の解釈は誤る可能性が常にある。
しかし、使徒たちの釈義方法から学ぶことによって、我々は自らの解釈学を修正していくべきではないか。
これからの福音主義の釈義は、歴史的・文法的方法も包含しつつ、より自由で豊かな聖書の読み方を追及していく必要があると思われる。
新約聖書はまさに、そのような聖書解釈のモデルを提供しているのではないだろうか。


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【感想】福音主義における聖書釈義について 金井 望

  1.津村俊夫師の研究発表について

(1) 歴史的・文法的釈義の再定義が必要だという津村師のご意見は、大変重要だと思います。
私見によれば、それは、硬直化した「聖書の無誤性」の定義を生み出した近代の福音派の聖書論だけでは、ポスト・モダン的状況に対応することが困難になっている、という実際的な課題のゆえに提出されたものだと思います。すなわち、近代合理主義をベースにした自由主義神学に対抗して生まれた近代の福音主義運動は、やはり同様に人間理性への信頼に依拠した認識論をベースにして組み立てられてきたのです。

(2) 「創造科学」という矛盾にはまり込んだファンダメンタリズムと自らを区別する今日の福音主義者も、その聖書論はファンダメンタリズムと同根・同質であって、科学的な方法論に依拠するアカデミズムに邁進してきました。しかし、人間理性への信頼が崩れたポスト・モダンの時代になって、今や日本の福音派は、世の人々に福音を宣証する力を失ってしまいました。
聖書の真理と福音のリアリティーをダイナミックに宣証する聖書釈義と説教が、今、必要となっています。

(3) ただし、その答は必ずしも目新しいものではなく、正統主義や福音主義の歴史から再発見することができるのではないかと思います。
そもそも「福音主義」の原点である宗教改革において、新しい聖書解釈の原則を打ち立てたのは、マルティン・ルターです。アリストテレス主義の合理的な哲学を基盤とするスコラ神学の壁を打ち破ったルターの釈義原理はどうだったのか。それは、現代の福音主義者が言うところの「歴史的・文法的釈義」と同じか? あの宗教改革のダイナミズムを生み出した聖書釈義と説教について再考することは、決して後ろ向きな作業ではなく、前向きな創造的作業であると、私は思うのです。

  2.山崎ランサム和彦師の研究発表について

(1) 山崎ランサム和彦師の問題提起も、大変重要なものだと思います。
聖書記者たちに与えられた神の霊感(霊的導き)と現代の聖書読者に与えられる聖霊の照明には、連続性や同質性があるのか?

新約聖書記者たちの聖書解釈法を規範として、現代の我々も彼らの解釈学的態度に倣うべきなのか?

我々現代の聖書読者・聖書解釈者は、聖書テキストから歴史的・文法的方法によって得られる以上の意味を、聖霊によって与えられることが可能なのか?

(2) これもやはり先に述べた現代福音主義の閉塞状況を打破することを課題として提出された問題提起でしょう。これは、現代の福音主義者の啓示論や聖書論、聖書解釈法、説教論に対する聖霊派のプロテストとさえ言えるかもしれません。20世紀においてペンテコステ運動とカリスマ運動が強大な宣教のダイナミズムを持っていたことは、明らかな事実です。しかし、聖霊派の運動が啓示論に関して混乱をもたらしてきたことも否めません。

(3) ちなみに、山崎師が指摘しておられる「キリスト中心的 Christocentric」あるいは「キリスト論的 Christological」、「キリスト目的的 Christotelic」解釈と呼ばれる解釈原理は、まさにマルティン・ルターが主張した聖書解釈法の王道です。

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橋本昭夫師「ルター主義における釈義原理」要約

 

福音主義神学』第30号(1999年)に、橋本昭夫師(神戸ルーテル神学校教授)が書かれた「ルター主義における釈義原理」という論文が掲載されています。これらの問題について、この論文は光をあてるものだと思います。その要点を以下にメモさせていただきます。


  1.「聖書のみ」と釈義原理

(1) 宗教改革実質原理「恵みのみ」(sola gratia)形式原理「聖書のみ」(sola scriptura)と言われる。この二つの原理に「信仰のみ」(sola fide)が加えられ、宗教改革的信仰の旗幟となっていることは周知である。

(2) しかし、「聖書のみ」という原理が釈義においてどう理解されているか、それは必ずしもプロテスタント諸教派において同一ではない。「聖書のみ」の主張を掲げながらも、異なる福音理解を導き出す釈義が可能である。

(3) 「聖書のみ」という形式原理だけでは、宗教改革本来の福音理解に到達しうるとは限らない。実際に現代では、同じ主張のもと、さまざまなニュアンスを持つキリスト教理解が展開されている。

(4) 聖書はそれ自身においてもっとも確かであり、容易に理解でき、明瞭である。聖書は自らの解釈者である(WA7:97参照、聖書のテキストの意味の明晰性)。

(5) 聖書の解釈においては、文字通りの意味を優先すべきであり、不明なテキストは明確なテキスト箇所によって解釈されるべきである(ヨハン・ゲルハルト『神学綱要』参照)。

  2.ルターの「聖書のみ」の歴史的背景

(1) すでに述べたように、ルターにおける「聖書のみ」は、それだけが孤立した主張ではない

(2) ルターにおける「聖書のみ」は、その論争の相手の主張によって大きく振幅する動的な原理である

(3) ルターにおける「聖書のみ」は、聖書のメッセージを否定するような教会伝統に対しては、聖書の優位性を主張するものである。

(4) ルターにおける「聖書のみ」は、教会伝統を否定し福音およびその前提となっている基本教理を否定する立場ーーたとえば幼児洗礼の拒否!ーーに対しては、聖書と教会伝統の一致した証言の意義を全面に出すものである。ルターは、聖書に対立しない限り、またそれと矛盾しない限り、伝統は積極的に継承すべきものとした。

(5) 「聖書のみ」とは「恩恵のみ」の主張であり、究極的には「キリストのみ」の主張である。

(6) ルターの釈義原理は、キリストこそ聖書の内容であるという意味で、キリスト論的である。「キリストへ追いやるもの」が聖書の内容である(WAD7:384参照)。ルターにとって聖書は「キリストを寝かせている飼い葉桶」であった。

(7) ルターに先立ち、唯名論者は、教皇の至上権に対し公会議の優位性を主張していた。その公会議主義者の中から、教皇の権威も含め教会の権威は聖書の権威からの派生で、それらすべて権威は聖書の権威に従属するとの論点が起こっていた。宗教改革は、大きく見て、このような公会議主義の主張を継承したと言える。

(8) ルターが、聖書の中に「太陽のように」明白で一義的な福音を再発見し、それが聖書の「事柄」であると確信したときはじめて、それと異なる教えの拠り所とされた「伝承」の権威を否定することが可能になったと理解できる。

  3.ルターにおける釈義原理ーーその実際

(1) 聖書テキストに文字的な意味霊的な意味があるということ、またテキストが「四重の意味」(Quadriga)範疇で解釈されるというのは、中世には一般的であった。ルターもその釈義活動の初期には、それを踏襲し、文字的、寓喩的、転義的・道徳的、天的という四重の意味で聖書を解釈していた。

(2) しかし、第一回詩篇講義(1513〜1515年)においてすでに、ルターの新しい釈義方法が見られる。

(3) ルターは、ローマ書1章に出てくる「神の義」という言葉に耐えることができなかった(「福音のうちには神の義が啓示されていて」ローマ1:17)。神がそれを基準にして罪人を審判する義である、と理解していたからである。

(4) この不思議な「神の義」という言葉にとらえられ、彼の思いは夜も昼もそれへと流れていった。そして、「『神の義』とは、神の賜物のことで、それを媒介にして義人は信仰によって生きるということを、神の恵みによって理解し始めた」のである(ラテン語版著作集の序文)。それをもって人間を義なる者として立たせ、救わせる義であるということを、彼は自分のものとするに至った。これが「福音の再発見」であり、解釈学的なコペルニクス的転回だったのである。

(5) ルターは、聖書のメッセージの圧倒的な力によって、伝統的な釈義論を換骨奪胎し、新しい聖書釈義の方法に転じた釈義方法がテキストの理解を決定するのではなくテキストの内実が釈義の手続きを、その内実にふさわしく変えるのである。

(6) 「文字と霊」(litera et spiritus)の区別は、アウグスティヌスに遡る。ルターとほぼ同世代のフランスの神学者・人文学者であったルフェーブルは、それを「聖書は secreta(秘密)とmysteria(神秘)に満ちている形而上学的文書である」プラトン主義的に応用した。テキストの字義の本来性を認めず、字義の背後にある奥義をさぐり出そうとしたのである。

(7) それに対してルターは、「文字と霊」を分離するのではなく、「文字」によって具体的に指示された「事実」をとおして「霊」が与えられる、とした。「霊が与えられる」というのは、テキストにおいて与えられている「事柄」、すなわち「キリストとその福音」を深く「理解」することにほかならない。

(8) 神は、テキストの字義通りの意味、つまり「外的な言葉」を用いてのみ、ご自身の御心を人間に示される。それは、人となられた神が歴史的事実であり、このお方をとおして神の御心が示さるという事実と類比的である。

(9) 「文字」をとらえただけでは、聖書のテキストを解釈したことにはならない。釈義においては、メッセージが「霊的」に理解されることが必要である。他の文献の解釈学とは異なり、聖霊なる神の働きかけなしには、そのような「理解」はない。

(10) 霊の賦与は神の主権に属する。したがって、聖書のテキストの釈義は、神の顧みなしには、そしてそれを待つ信仰なしには不可能である。

(11) ルターは、文字的意味の的確な理解を土台に聖霊により霊的意味に達するという形で、字的意義と霊的理解を統合した。それによってルターは、「文字の外に秘義的な意味がある」とした従来の聖書解釈に終止符を打った。ただし、ルターは、「四重の意味」的解釈法を放棄したと言うより、新しい解釈学的パラダイムに鋳造しなおしたと言う方が妥当であろう。

(12) 「この聖書はわたしについて証しする」というヨハネ福音書(5:39)の言葉は、新約・旧約ともにキリストについて記し、両者の「事柄」はキリストであるということを指示している。そのことからも、聖書のキリスト論的釈義は、ルターの時代にはすでに顕著な釈義的伝統となっていた

(13) ルターは、伝統的「四重の意味」的解釈方法を旧約聖書、とりわけ詩篇のキリスト論的解釈において自由に用いている。たとえば、詩篇23篇の「牧者である主」は預言されたキリストであり、キリストこそがその「文字どおりの意味」であるとした。

(14) ルターが「四重の意味」全体を統合するものとして重視し、その釈義においてよく用いたのは「転義的・道徳的意味」であった。それは、テキストにおいて語られる神の言葉が、この私の「いま・ここ」に何を語っているのかを洞察し聞いていくものとされる。み言葉の「転義的・道徳的意味」は、人間が何をするかではなくて神が何をなしたもうかということを明らかにする。

(15) 神のみわざの焦点は、私たち人間である。御言葉を通し、個人のうちに救済がもたらされるとき、みわざはその本来の的に達する。聖書釈義はそのことを現実のものとする(WA3:335参照)。

(16) ルターは、「寓喩的意味」をテキストの教会論的展開に、また「天的意味」を終末論的希望の敷衍に用いている。

  4.ルターにおける聖書論の基本線

(1) ルターが「ヤコブ書の序文」で記している以下の観点は有名である。
「キリストを教えないものは使徒的ではない、それがたとえペテロやパウロによって教えられていてもである。逆に、キリストを告知するものは使徒的である、たとえそれがユダや、アンナスや、ピラトや、あるいはヘロデによってなされたとしてもである」。
ここでルターが言っているのは、聖書の使信が重要なのであって、それが誰によって担われているかは二の次だということである。

(2) 「創世記がモーセによって書かれたのではないと多くの学者が言っている」という卓上での弟子の言及に、ルターは「それがどうしたと言うのだ」と答えている。そして、「たとえモーセによって書かれたのではないとしても、創世記は世界がどう創造されたかを最善に記しているので尊いのだ」とつけ加えている。
ルターは聖書の形式面よりも、内実面を第一に考えているのである。

(3) 聖書の歴史的記述の不完全性や矛盾と見えることがらについて、ルターは、不完全さを補い、矛盾を調和させようとする努力を一切していない。

(4) ルターは聖書の使信の真実であることを疑わなかった。その使信というのは、ただ一つであって、それは「賜物としてのキリスト」を証言することである。しかもその証言は、端的に一義的であり、さまざまに解釈可能なものとは理解されていなかったのである。
聖書において、罪人である人間に語られる神の唯一のメッセージは、「十字架につけられたキリスト」であって、これ以上に明白なことはないと彼は考えた。

(5) 。聖書が、神の言葉であり、神の無限の恩恵に呼応しているがゆえに、人間はその一部始終を理解し把握しえない。したがって、聖書については、部分的理解をもって満足しなければならない、というのが彼の助言である。

(6) 福音から聖書を考えるルターの観点は、キリストは聖書の主でもあられるということを意味する。
「キリストは主であって、僕ではない。キリストは万軍の主、律法の主、あらゆるものの主である。聖書は、キリストに反する証しをたてることが許されず、キリストのために、またキリストとともに読まれるべきであり、解釈されるべきである。聖書は人をキリストとの関係に入れることができなければならない。そうでなければ、それはまことの聖書と考えられない」(WA39:47)

(7) 聖書によって伝えられ、聖霊によって証しされ、生ける救い主として現臨されるキリストこそ究極であり、聖書は「キリストの生の声(viva vox Christi)の聖なる道具」である。

(8) ルターの聖書論は、その内実によって規定されている。
現代のプロテスタント正統主義はどうか。
聖書が神の言葉であることの証明を、霊感説に置いた。
「逐語的」あるいは「事柄的」な霊感説へと展開した。
聖書記者がどのような状態で聖霊の書記であったかを考究した。
聖書の不可謬性・無謬性へと発展させて論じ、その上に聖書の権威を確立しようとした。
これらの手続きを形式的聖書論と形容することができるとするならば、ルターの聖書論は内実論的であると特徴づけることができよう。つまり、キリスト論的に聖書の権威を論じたのである。

(9) 「聖書は書かれた神の言葉であって、いわゆる『文字の中に入れられた』ものであり、それはキリストがその人間性という衣に受肉した神の永遠のことばであるのと同じである。
またキリストがながめられ、扱われたようなことがこの世においてキリストに起こるのと同じく、神の書かれたことばにもこのようなことがある。聖書は他の書物に比べると、書物ではなく虫である」(WA48:31)

(10) 経験的な事実の支援によって聖書の信憑性を確保しようとするのではなく、むしろ聖書の外見のみすぼらしさこそ、この世の賢者を愚かにし、そして信じる者には神の力としてその実力を現わすものである、とルターは理解している。

(11) 「聖書は外見的な栄光をもたず、注目を引かず、美と飾りとをみな欠いている。だれがこのような神のことばに信仰を密着させようとするのか。あなたはほとんど想像することはできない。というのは、聖書は栄光もあるいは魅力ももたないからである。しかも信仰は、この神のことばから、どのような外的な美しさもない聖書の内的な力を媒介にしてくるのである。神のことばにわれわれの信頼を置くようにさせるのは、聖霊の内的な活動だけである。これは形の美しさもない。……聖書は粘土や瀝青といったようなものをもって継ぎあわされた簡単なかごにすぎなくその中には、美しい生きた男の子モーセが入っており……」(WA16:82)
聖書について様々に論議される、その不完全なたたずまいに拘泥するよりも、神の不思議な言葉に人間の言葉の形態をまとわせられた、神の知恵をあがめるべきなのである。

  5.ルター教会信仰告白書にみる聖書観と釈義方向

(1) プロテスタント信仰告白のほとんどが、そのうちに聖書とその権威の条項を設けているのに、アウグスブルク信仰告白(1530年)においては聖書についての独立した条項が見られない。
序文において、「この告白における教理は、聖書と純粋な神の言葉に由来する」と述べられているだけである。

(2) 和協信条(1580年)でも聖書の権威については、第一部の「諸条項の梗概」および第二部の「根本宣言」で、ごく短く表明されているに過ぎない。
「第一に、旧新約聖書の預言者的また使徒的文書が、イスラエルの純粋なまた明らかな源泉として、またそれのみによってすべての教師たちと教説とが導かれ、判断されるべき唯一のまことの規範であることを告白する」

(3) 正典の範囲については何一つ述べられていない。
総じて言えることは、ルター主義教会の信仰告白書においては、聖書の枢要性はくり返して強調されるが、聖書自体の教理の形成には、あまり関心を示していないということである。

(4) ルター主義教会信仰告白で中心的な関心となっているのは、聖書のメッセージの中心である。それは「律法と福音」である。
「すべての聖書は、これら二つの主要教理に分けられる、すなわち律法と約束である」(弁証論)。
一つは罪を暴露する律法であり、もう一つはキリストによって与えられる赦し、つまり福音である。この二つは、神が人間においてなされるみ業である。律法によって罪人を恐れと絶望の淵に連れ行き、福音によってその罪人をいのちへと呼び返される。
究極的には福音こそが聖書の唯一のメッセージであり、それは「賜物としてのキリスト」にほかならない。

(5) 「福音が聖書における規定であり、聖書が規定であるのは福音ゆえである」シュリンク)。
それを聖書釈義の方向に関連して言うならば、福音こそーーつまり罪の赦しとしての福音こそーー釈義学的キーとなるのである。

(6) ルター主義教会の信仰告白書においては、ルターと同様、信仰義認を内容とする宗教改革的福音を釈義原理とする方向がきわめて優勢である。それはいわば福音そのものが、聖書についての詳細な神学的判断に先立って、聖書が神の言葉であり、それゆえに信仰の教理の最終的な権威であることを、そのリアリティのもつ圧倒的な力によって納得せしめるという確信の表明をしているのである。

  6.ルター主義的釈義の現代的アクチュアリティ

(1) ルターによる宗教改革の運動の源は「神の義」の意味の再発見であり、それは彼の日夜うむことのなかった聖書釈義の労苦の結果以外のなにものでもなかった。聖書の言葉自体が、その福音的実質をルターに開示し、彼を圧倒した。

(2) これは、今日の聖書釈義の実際において、聖書論の形式的側面への関りからではなく、ストレートな内実的側面へのアプローチを促していると言えるのではないか。ルターの釈義が世界史的、そして世界形成的意義をもつに至ったのは、実はこのような、「事柄」へ直進する釈義学的アプローチであったと判断しうるからである。

(3) 近代に生じた神学各科の分化過程の中、聖書学はおりからの歴史的批評的釈義方法により、歴史主義的アポリアにおびやかされつつ専門化し、かつ孤立していったと言えよう。

(4) ルターにおいては、聖書釈義は同時に組織神学的であり、教会史的であり、また実践神学的でもあった。

(5) こと聖書学について言えば、学問的聖書学と実践的聖書解釈という二元論的アプローチがあるかのような観点は全く見られない。むしろ聖書本来の意味は「いま・ここで」のアクチュアルな意味であり、聖書はそのような形の神の言葉として与えられていると理解されているのである。彼にとって、聖書釈義は日々救いを渇望し、日々新たに神の言葉の養いを受けて生きる信仰者の信仰的営為なのである

(6) ルターは「祈祷と瞑想と試練こそ神学者をつくる」と言った。そこでの「神学者」とは、基本的に「聖書を真正に釈義する者」という意味にほかならない。ルターの釈義原理は、聖書釈義における冷徹な研究と現実における信仰的実存の有機的関連の統合を回復する必要を語っているのではないか。

(7) ルターの聖書釈義の基本的トーンは、そのキリストへの集中のゆえに、喜びと自由である。聖書は福音の無尽蔵の泉であり、どこからも神ご自身にある恵みの、愛の、知恵の、力の、そして望みの言葉がわきあがる。ルターの福音発見以後の聖書との取り組みは、まさに彼を神の「パラダイス」へと導くいとなみであった。

(8) キリストへの集中により、ルターの聖書へのアプローチは、時には大胆に過ぎると思われるほど自由であった。ルターにとって聖書は、人間の理解の枡目の正しさに納まらない神の現実を反映するものであり、理論的つじつまには頓着しなかった。
神が人間の思いを超えておられるように、聖書も人間の思いを超えている。それゆえにルターは、聖書のつまづきを、近代の批評学的聖書学がしたように安易に否定したり無視したりはしなかった。むしろ、そのようなつまづきにこそ、神の深いメッセージが秘められていることを経験していた。
「わたしが殻を割ることのできない堅いクルミのような本文を見つけるたびに、わたしはすぐさまそれを岩(キリスト)に向かって投げつけ、そこでクルミの甘い実を見つけるのである」(WA3:12)

(9) ルターにとっては、聖書釈義は一般的な文書解釈学と同一次元にあるものではない。み言葉を用いて神が「いま・ここで」働かれる場にほかならないのである。
その意味で、聖書をたんに一般解釈学に解消してしまうならば、ルター的意味における聖書釈義の可能性の否定ということになる。

(10) ルターの釈義的原理は、現代神学においてどのように反映しているであろうか。
ルドルフ・ブルトマンカール・バルトは、私たちの意味での福音主義神学の埒外に位置づけられる神学者であるが、この二人の釈義方向にルターの釈義学が反映されていることを観察するのは、示唆に富んでいる。
(11) ブルトマンが非神話的聖書解釈を展開した動機は、聖書の実存的意味の回復であった。彼は、「わざによらず恵みによって」という義認論を釈義の方法論の領域で生かそうとしている。

(12) 他方、バルトは、そのキリスト論的集中に呼応して、聖書におけるキリストの中心性を軸として聖書釈義をしている。それは、キリストを聖書の中心とするルターの聖書観にきわめて近いところに立つものである。
またバルトは、キリストの受肉に見る「まことに神・まことに人」という二重性と聖書の神言性・人言性の二重性に類比を見い出している。それゆえに聖書の歴史的意味を重視しなければならないと主張するが、それはまさにルターの観点である。

(13) その成果がどのように判断されるにせよ、この二人はともに聖書のメッセージの現代的展開を、この困難な世紀に求めた神学者である。ルターの釈義原理が現代的なインパクトを持っている証左と言えないであろうか。

 

http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/030-3_in_printable.pdf