KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

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二王国論は間違いか?

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Michelangelo "Viimne kohtupäev", Sixtuse kabeli lagi, 1536–1541

  1.二王国論とキリスト王権論

近年、日本で盛んになった福音派の社会運動に関して、問題の焦点がどこにあるのか、最近いくらか見えてきたように思う。なぜキリスト者・教会・超(協)教派団体が政治的な運動を行うのか、その神学的な根拠について問うことも、重要な問題である。

改革派のある牧師が、次のごとき思想を説いた。

神がこの世において霊的な支配と政治的な支配を分けて行っているという「二王国論」が宗教改革の頃からありました。しかし、それは霊と肉を分離する間違った考え方です。キリストの王権は、霊的な領域だけでなく、政治においても実現すべきものです。

「キリストの三職=王・祭司・預言者の役割を、キリストの体である教会が果たす」という教理は、聖書に根拠のある正統的なものである。

あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを闇の中からご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためです。(第一ペテロ2:9)
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方です。(黙示録1:5-6)

基本的な問題は、この教理における「王」とは何か、である。イエス・キリストは「わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18:36)と仰せられた。それゆえ、「神は為政者を用いて世俗の領域を治めておられ、同時に教会を用いて霊的な領域を治めておられる」とルター派では理解している。これを「二王国論」と言う。

カルヴァン派にも二王国論を支持する人たちがいるが、今、日本の福音派で政治運動をしている人たちの中には「キリストの王権」という教理を支持する人もいる。これは「霊的な王国(教会)も世俗の国(国家)も、キリスト者が聖書の教えに従って統治すべきだ」という教理である。これは帝国主義を生んだ思想と近似したものであり、現代では政治的な原理主義につながる思想である。果たして、これは聖書が教えていることだろうか。
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キリストの王権 - Wikipedia

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日本宣教と天皇
https://www.wlpm.or.jp/pub/?sh_cd=1587


  2.聖書の世界観

「王」の解釈に決定的な影響を与えるのは、聖書の世界観をどのように理解するか、という問題である。神は、人間が営む地上の歴史・国々の興亡をすべて支配しておられ、国々の支配者も神の御心に従って立てられ、倒される、と聖書は教えている。

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。(使徒17:26)
神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。(ダニエル2:21)
ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。(ダニエル5:21)

聖書の霊的世界観は、天と地上(この世)と地下(ハデス、よみ)という三層構造になっている。ハデスは堕落した天使たち、すなわち悪魔(サタン)悪霊の牙城となっている(マタイ16:18)。「この世」は御子イエスによって造られた(ヨハネ1:10)。ところが、人類が神に背いて悪魔の声に従ったために、悪魔・悪霊が「この世」を支配している(エペソ2:1-2、6:12)。それでもなお、神は独り子を賜ったほどに「この世」を愛してくださった。それは御子によって「この世」が救われるためである(ヨハネ3:16-17)。

御子イエス・キリストは十字架の死によって人類の罪を贖い、ハデスの勢力を征服した(マタイ16:18, エペソ4:8-10, コロサイ3:12-13, Ⅰペテロ3:18-19,22)。キリストによってもたらされた「神の王国」は、「この世」のすべてを悪魔の支配から取り返して、神のもとに集める霊的な勢力である(ダニエル7:13-14, マタイ12:28-29, エペソ1:10, コロサイ1:13,20, ロマ8:21)。ただし、それが完成するのは、イエス・キリストが再臨される時である(第一コリント15:24)。

  3.ルターの教説

マルティン・ルターは二王国論に関して次のように説いている。

■『この世の権威について、人はどの程度までこれに対し服従の義務があるのか』1523 年
ここで私たちはアダムの子ら、すなわちすべての人間を二つの部分に分かたねばならない。第一は神の国に属する者、第二はこの世の国に属する者である。神の国に属する者はキリストのうちにあり、キリストのもとにある真の信仰者すべてである。なぜなら、キリストは神の国における王、また主でいたもうからである。ちょうど詩篇二篇[六節]と全聖書が語っているとおりである。( 『ルター著作集第 1 集 第 5 巻』146 頁)
この世の国、あるいは律法のもとには、キリスト者でないすべての者が属している。(上掲書148 頁)
それゆえ神は二つの統治を定めたもうた。キリストのもとで聖霊によってキリスト者、すなわち信仰深い人々を作る霊的統治と、キリスト者でない者や悪人を抑制して、欲しようが欲しまいが外的に平和を保ち、平穏であるようにするこの世の統治とである。(上掲書148-149 頁)
それゆえ、この二つの統治を熱心に区別して、両者とも存続させなければならない。一つは義たらしめるものであり、一つは外的に平和をつくりだし、悪事を阻止するものであって、この世ではどちらを欠いても十分ではないのである。(上掲書150 頁)

■『奴隷的意志について』1525 年
(私は言うが)、彼らは互いにきわめて激しく戦っている二つの国が世にあることを知っている。その一方はサタンが支配しており、そしてこの支配のゆえに、彼はキリストにより「この世の君」[ヨハネ12:31]と言われ、パウロにより「この世の神」[第二コリント4:4]と言われている。(中略)また一方の国はキリストが支配しておられる。そして、この国は絶え間なくサタンの国に抵抗し戦っている。(『第 7 巻』479-480 頁)
相互に、絶え間なく、争いの状態にある神の国とサタンの国の中間には国はない。(上掲書391-392 頁)

■『農民に対するきびしい小著についての書簡』1525 年
二つの国がある。一つは神の国であり、他の一つはこの世の国である。(中略)神の国は、怒りや罰の国ではなく、恵みとあわれみとの国であり、そこにはゆるし、いたわり、愛、奉仕、善行、平和、喜びといったことのみが存在する。しかし、この世の国は怒りと厳格さとの国であり、そこに存在するのは、罰、抑圧、さばきと判決、すなわち、悪しき者への強制と、信仰あつき者への保護といったことのみである。(『第 6 巻』386 頁)

■『軍人もまた救われるか』1526 年
神は、二種の統治を人間の間に設けられた。一つは剣によらないで、言による霊的なものであり、これによって人は信仰を得て義なる者となり、その義とともに、とこしえの命を得るのである。(中略)もう一つの統治は、剣による現世の統治で、言によって信仰を得て義となり、とこしえの命に至ろうと望まない人も、現世に対しては温順で正しいものであるように、この現世の統治によって強制されるためなのである。(『第 7 巻』386 頁)

聖書の世界観では、イエス・キリストを信じないこの世の人々を支配するサタンでさえも、神の支配下にある(ヨブ2:1-6)。そのサタンの支配下にある人々を、御子イエス・キリストの贖いによって解放し、神の王国に移すことが伝道・救霊である(使徒26:18)。これは神学的には「特別恩恵」と呼ばれるが、この恩恵にあずかっていない人々に対しても、神は恵み深くあられる(マタイ5:45、使徒14:17)。これは「一般恩恵」と呼ばれる領域である。地上のレベルでは善と悪の二元的な戦場があるように見えても、宇宙的なレベルで見れば、すべてが神の一元的な支配の下にある。

  4.宗教改革者の諸相

その牧師が説いた「キリストの王権」はカルヴィニズムの思想の一種である。日本の「福音派」の人たちはプロテスタントの信仰や実践について歴史的に論じるときにしばしば、ルターをすっ飛ばしてジャン・カルヴァンから始めてしまう。下手をするとカルヴァンさえすっ飛ばして、カルヴィニズムからあるいは敬虔主義から始めてしまう。
(a)宗教改革第一世代であるルター
(b)宗教改革第二世代であるカルヴァン
(c)テオドール・ド・ベーズ以降のカルヴィニズム
この三者の思想の違いを理解することが重要である。

まず、宗教改革において西欧で生まれた「キリスト者の抵抗権」という思想が、すでにキリスト教化された世界の内部で起きた現象であることに、注意しなければならない。これをすっ飛ばして、「キリスト者の抵抗権」に関する諸説を直接、異教国・日本に適用するのは、無理がある。

丸山忠孝「抵抗権ーー宗教改革史上の一考察」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/005-2_in_printable.pdf

マルティン・ルターをはじめ宗教改革者たちがプロテストした相手は、俗権(皇帝、王、領主)に対する優位を主張するローマ教皇・ヴァチカンである。

(1)急進改革派は、「キリストをかしらとするキリストの国」と「悪魔をかしらとするこの世の国」が存在しており、人間はどちらか一つにしか属しえない、と考えた。善悪二元論的な世界観である。実践においてこれは二つに分かれる。一方でチューリッヒの再洗礼派やメノー派はこの世の権力を蔑視して、政教分離や絶対平和主義を唱えた。もう一方ではトーマス・ミュンツァーのように直接世直しの戦闘に走る過激派がいた。

(2)ルターは、「神の右手の国」(霊的支配)と「神の左手の国」(世俗的支配)は区別されるべきだが、どちらも「神の良い国」であって、キリスト者は教会と国家、二つの国の市民であらねばならない、と教えた。いわゆる二王国論(二統治説)である。ルターにとってこの世は、神の秩序に属する領域である。それゆえルターは、キリスト者は自分のためでなく隣人のために、この世の務めは果し、この世の秩序の維持に努めるべきだ、と説いた。ルターは、信徒が信仰のゆえに皇帝に対して武力抵抗する権利を認めている。それは皇帝が教皇の兵士に過ぎず、皇帝の戦争が実は教皇の戦争だからである。

(3)カルヴァンはルターの思想を継承しつつ、神の言葉が教権と俗権の両方に持つ主権性を主張した。そして暴君に対する合法的抵抗を認めた。

  5.この世の王権

聖書は全体的に王政について肯定的な見方を示している。創造主なる神「主」は秩序を愛し、法を重んじるお方であり、アナーキー(無政府)な状態を最も嫌っておられる。そこでは神の正義が軽んじられて、強者によって弱者が虐げられるからである。

神は無秩序の神ではなく、平和の神である。(第一コリント14:33)

王の即位から年を数える「元号」は古代オリエントにもあり、旧約聖書ではイスラエル王国ユダ王国でも使用されている。

ダニエルはメド・ペルシャの王にこう言った、

「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように」(ダニエル6:21)。

君が代は千代に八千代に」と同じではないか。
ネヘミヤもこう言っている。

王よ。いつまでも生きられますように。(ネヘミヤ2:3)

また、聖書は次のように教えている。


すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。(ローマ13:1)
あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果たしなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。(ローマ13:7)
すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。(第一テモテ2:1)
あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従いなさい。(テトス3:1)
王を尊びなさい。(第一ペテロ2:17)

kanai.hatenablog.jp

私たちキリスト者は、天皇であれ誰であれ人間を神として礼拝することはできない。けれども、聖書と良心に照らして「罪」とされることでなければ、できる限り私たちは王を敬い、為政者に従い、国民としての務めを誠実に果たすべきだろう。

  6.プロテスタントの社会倫理

次に、プロテスタントの信条から社会倫理に関する代表的な二つのテクストを引用する。

アウグスブルク信仰告白
第十六条 公民生活について
公民生活について、われらの諸教会は、かく教える。
正当な公民規定は神の善き御業である。すなわちキリスト者が、公職につき、裁判に列し、現行の国法や他の律法によって諸事件を決定し、正しい刑罰を定め、正しい戦争に従事し、兵士として行動し、法定取引や契約をし、財産を所有し、裁判官の要求の際宣誓をし、妻をめとり、或は子女を婚姻させることは正当である。
われらの諸教会は、アナバプテスト派を排撃する、彼らはキリスト者に、以上の公職を禁じる。われらの諸教会はまた、福音的完成をば、神の畏れと信仰とにおかないで、公職を放棄することにおくひとびとを排撃する。なぜなら福音は、心の永遠の正しさを教えるからである。
同時に、福音は国家或は家族の秩序と管理とを破壊しないで神の秩序としてそれを保持し、また、このような制度の中で、愛を実践することを特に要求する。それゆえ、キリスト者は、その為政者や、法律に従わねばならない。
ただし、彼らが、罪を犯すことを命令する時は、この限りではない。なぜなら、その時はキリスト者は、人に従うより神に従わねばならないからである(使徒5:29)。

アウグスブルグ信仰告白

ウェストミンスター信仰告白
第23章 国家的為政者について
1 全世界の至上の主また王である神は、ご自身の栄光と公共の益のため、神の支配のもと、民の上にあるように、国家的為政者を任命された。そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行なう者を擁護奨励し、また悪を行なう者に罰を与えさせておられる(1)。
  1 ロマ13:1-4、Ⅰペテロ2:13,14
2 キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは、合法的であり(1)、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので(2)、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行なうこともありうる(3)。
  1 箴言8:15,16、ロマ13:1,2,4
  2 詩2:10-12、Ⅰテモテ2:2、詩82:3,4、サムエル下23:3、Ⅰペテロ2:13
  3 ルカ3:14、ロマ13:4、マタイ8:9,10、行伝10:1,2、黙示17:14,16

ウェストミンスター信仰基準

  7.現代日本社会への適用

このような信条を、我々が生きている現代の政治的・経済的・社会的・宗教的な文脈において、どのように適用していくか。その答えは一様ではなく多様であろう。

最初に紹介した牧師の二王国論を否定するその主張は、突き詰めていけば、立憲君主制天皇制の否定、共和制=大統領制の肯定、非キリスト教徒による政治の否定となるのではないか。ずいぶんラディカルな思想である。その牧師は「聖書がハッキリとそのように教えている」と主張した。私の聞き違いではないと思う。果たして、それは聖書や正統的なキリスト教の教義から出てきた思想だろうか。私には、そうは思えない。

キリスト者の平和論・戦争論 (21世紀ブックレット40) (21世紀ブックレット 40)

キリスト者の平和論・戦争論 (21世紀ブックレット40) (21世紀ブックレット 40)

その思想の根拠は、国家が持つ「」的性格らしい(黙示録13章)。戦前戦中の国家神道天皇崇拝を、これに関係付けて理解しているのだろう。それは、どこまで適用可能な聖書解釈だろうか。この世の終末期に「荒らす忌まわしいもの」(マタイ24:15)、「不法の者」(第二テサロニケ2:3-12)、「獣」(黙示録13章)が強大な王権を持ち、自らを神として、人々に礼拝を強要すると、聖書は教えている。しかし、安易にこれを今ある王に適用すべきではない。

やはり二王国論こそ聖書に忠実な教理であり、キリスト教社会倫理の現実的な基盤を成す教理である。

kanai.hatenablog.jp
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李良浩(越後屋朗訳)「ルター神学の構造」The Structure of Luther’s Theology
https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/4570/640207.pdf

江口再起「ドゥフロウのタイポロギーについて一 ルターの「二王国論」再考」
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110000192383.pdf?id=ART0000558304

丸山忠孝「教会史に見る『教会と国家』――序論的考察」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers10.html

倉沢正則「国家と諸権力、そして教会――聖書による一考察」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers19.html

橋本 龍三「福音宣教における天皇制の問題」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers21.html

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