KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

御言葉は地の果てまで(ローマ10:16-21)

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【聖書朗読】ローマ人への手紙10章16~21節

【説  教】「御言葉は地の果てまで」金井望牧師
【今週の聖句】            
 その声は全地に響き渡り、
 そのことばは地の果てまで届いた。
 わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、
 わたしをたずねない者に自分を現した。
            (ローマ10:18、20)
【説教要旨】

  1.クリスマスの意義

 私たちがキリストの降誕を記念して、クリスマスを祝うことには、二つの大きな意義がある。
 一つは、キリストがあらゆる国の、あらゆる民族の人々を救うために来られたことを喜び、その福音を宣教することである。
 もう一つは、キリストが再び来られることを覚えて、それに備えることである。
 ローマ人への手紙から神の歴史的な計画=経綸(エコノミー)について学びたい。

  2.選民イスラエルの時代から異邦人教会の時代へ

 ローマ人への手紙9章から11章までは直接的には、旧約時代の選民=イスラエル民族・ユダヤ人の問題を扱っている。
 キリストは初臨において、ユダヤ人としてこの世に生まれた。それによって世界の歴史は、イスラエルを中心とした古い契約の時代から、異邦人の教会を中心とした新しい契約の時代へと、大きく変わった。
 その移行期においてパウロは、<異邦人の使徒>(11:13)となるために召されたが、同胞であるユダヤ人に対する神の取り扱いを注視し、彼らの救いを切望していた(9:1-5, 10:1)。

  3.ユダヤ人はキリストを認めなかった

 パウロはここで、旧約聖書の預言を引用して、イスラエル民族・ユダヤ人の問題を論じる。
 <主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか>。
 イエス・キリストの初臨の時に、ヘロデ王をはじめエルサレムの人々は、預言されたメシア(神が任職し遣わす救い主、キリスト)がベツレヘムに降誕したことを聞いた(マタイ2:1-6)。しかし、彼らは祝いに行かなかった。それどころか、ヘロデ王はメシアを亡き者とするために、ベツレヘムに生まれた幼子をことごとく殺した(マタイ2:16-18)。
 そして、ユダヤ人は、イエスがメシア(キリスト)であることを認めず、イエスを「十字架につけろ」と要求し、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と言ってしまったのである(マタイ27:22,23,25)。

  4.御言葉は地の果てまで

 その血の責任によって、紀元後70年にエルサレムの神殿と都はローマ軍によって破壊され、ユダヤの人々は世界を流浪することとなった。ユダヤ人は何が悪かったのだろうか。
 <信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストのみことばによる>。
 <はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか>。
 <はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか>。
 いや、彼らがイエス・キリストを知らなかったはずはない。<キリスト>は、ガリラヤとユダヤで直接、<みことば>をユダヤ人に語ったのである。
 人となった神=イエス・キリストの存在そのものが、見えざる神を明瞭に啓示する究極の<ことば>(ロゴス)であった(ヨハネ1:14,18)。
 <その声は全地に響き渡り、
 そのことば(レーマ)は地の果てまで届いた>。
 <ロゴス>は論理的な思想の言葉であり、<レーマ>は人が語る生きた言葉である。イエス時代には、ユダヤとガリラヤに住むユダヤ人よりも、異邦の地に住むユダヤ人の方が多かった。その世界各地にいるディアスポラ(離散民)に、パウロをはじめとする伝道者たちが、聖書の<ことば>によってイエス・キリストの福音を語ったのである。
 書き記された聖書の<ことば>を説き明かす説教において、イエス・キリストは静かな細き<声>をもって、私たちの心に語っておられる。私たちは何よりも、主の<ことば>を「聴く」ことを、大切にしたい。

  5.イスラエルのリバイバル

 <わたしは、民でない者のことで、
 あなたがたのねたみを起こさせ、
 無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる
 <わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、
 わたしをたずねない者に自分を現した
 <不従順で反抗する民に対して、
 わたしは一日中、手を差し伸べた
 ユダヤ人の<不従順>、<反抗>ゆえに、福音の恵みは、<民でない者>、<無知な国民>、<わたしを求めない者>、<わたしをたずねない者>であった異邦人のものとなった。私たち異邦人のキリスト者=教会は、新約時代の<イスラエル>とされたのである(ガラテヤ6:16)。
 しかし、主はイスラエル民族・ユダヤ人を捨てたのではない。神は今も彼らに手を差し伸べておられる。
 国土・国家を持たなかったにもかかわらず、1800年以上にわたってユダヤ人は、神の選民=聖書の民としてアイデンティティーを保ち続けた。そして、1948年にイスラエル国を約束の地に再建したのである。
 <その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです>(11:25-26)。
 やがてキリストは再臨して、イスラエル民族・ユダヤ人を再び神の民として回復させる。旧約の民=イスラエルと新約の民=キリスト教会が<一つ>になって、神の国は完成される(エペソ2:14-18, 3:6)。グローバリゼーションが進行する今日、その<時>はもう間近となっている。


 主イエスはこう仰せになった。

 <人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか>(ルカ18:8)

 私たちもパウロのごとく、愛する同胞の救いと信仰のリバイバルを求めて祈り、宣教のわざに努めていこう。

「お言葉どおりに」ルカ1:26~38

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説教 「お言葉どおりに」金井 望

 

6か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。

御使がマリヤのところにきて言った、

「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。

この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。

すると御使が言った、

「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。

そこでマリヤは御使に言った、

「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。

御使が答えて言った、

聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや6か月になっています。神には、なんでもできないことはありません」。

そこでマリヤが言った、

「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。

そして御使は彼女から離れて行った。

(口語訳聖書 ルカによる福音書1章26~38節)

 

 神はこの世において御業を進めるために、人を選んでお用いになる。独り子を人間として遣わすという歴史上最大の事業のために、神はひとりの女性をお選びになった。その名はマリヤである。この特別な恵みにあずかったマリヤの信仰に学びたい。

 

   ●恵まれた女よ、おめでとう

 

 天使ガブリエルは祭司ザカリヤに現れて後、6か月目にマリヤに現れた。マリヤの親類エリサベツはアロン家の出身であり(5)、マリヤのいいなづけヨセフはダビデ王家の血筋であったが(27)、彼女自身は社会的に何ら特別な人ではない。マリヤは自らを<主のはしため>(38)、<卑しい女>(48)と言っている。彼女は謙遜な人であり、神を恐れる敬虔な人であった。当時ユダヤでは、男性は18~20歳、女性は12~14歳ぐらいで結婚した。この時点ではまだ婚約中の身なので、彼女は年齢的には実に若い。未熟とも言えよう。だが、神はあえてこのおとめを選ばれたのである。

 天使は告げる、

 

  「恵まれた女よ、おめでとう」(28)

  「マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです」(30)

 

 これから起こることは難しい問題を含んでいるのだが、ともかく神の御子を胎内に宿し、出産し、育てるということは、空前絶後の恵みである。<神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる>(ヤコブ4:6)。マリヤは「主の母」と呼ばれている(1:43)。

 世の立場を逆転する神の恵みの不思議を、マリヤはこの後に歌っている。

 

  「主はみ腕をもって力をふるい、

  心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、

  権力ある者を王座から引きおろし、

  卑しい者を引き上げ、

  飢えている者を良いもので飽かせ、

  富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」(51~53)

 

   ●神には、なんでもできないことはない

 

 さて、天使はマリヤに告げる、

 

  「主があなたと共におられます」(28)

 

 <この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた>(29)。マリヤは思慮深いおとめであったが、天使の告げることは、とても理解しがたい内容であった。

 

  「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。

  その子をイエスと名づけなさい」(31)

 

 マリヤは非常に驚いて、問うた、

 

  「どうして、そんな事があり得ましょうか。

  わたしにはまだ夫がありませんのに」(34)

 

 彼女は婚約をしていたものの、まだ処女なのだから、こう言うのは当然である。しかし、これから起こる事態は人間の常識を超える。そもそも永遠無限の創造主である神が有限な人間になるということ自体、ユダヤ人には受け入れがたいことである。しかし、そこまでしなければ、人類は神を認めることができず、救われることができない。それゆえ、天の父なる神は、御子を真の人としてマリヤの胎内に送られたのである。

 天使はマリヤに説明する、

 

  「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。

  それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、

  神の子と、となえられるでしょう。

  あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。

  不妊の女といわれていたのに、はや6か月になっています。

  神には、なんでもできないことはありません」(35~37)

 

 神は天地を創造し、動物や人間に命を吹き込まれた全能者である。テクニカルなことは問題ではない。論より証拠、老女エリサベツも妊娠した。マリヤにはさらに特別な聖霊臨在の恵み、インマヌエルの恵みが与えられたのである。

 

   お言葉どおりに成りますように

 

 当時のユダヤ社会では、花嫁が処女であることが、結婚の絶対条件であった。石打ちの刑とまでいかなくても、マリヤは離縁され、世間から冷遇されるのが当然である(申命記22・23~24)。しかし、そのような事態を予想しつつも、マリヤはこう言って無条件で神に従った。

 

  「わたしは主のはしためです。

  お言葉どおりこの身に成りますように」 (38)

 

 このマリヤこそ、ゲッセマネからゴルゴタへと向かわれた主イエスの母にふさわしい女性である(ルカ22・42)。

 天使は壮大な神の計画を告げる、

 

  「彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。

  そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、

  彼はとこしえにヤコブの家を支配し、

  その支配は限りなく続くでしょう」(32~33)。

 

 マリヤはこれをどこまで理解したか。それはともかく、彼女の従順によって、神のみ業は大きく進展したのである。

 

 マリヤは聖母ではなく、私たちと同じ普通の人である。しかし、彼女は年若くして従順な信仰を持ち、神に用いられた。我々キリスト者は、神を信じるだけでは十分ではない。神に信任され、用いられる者となりたい。神の御言葉を信じて、従い続け、神の大いなる救いの御業に仕えていこう。

福音派は社会的責任を果たしていなかったのか?

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映画「石井のおとうさんありがとう」公式サイト

 

日本のプロテスタントを「福音派」「聖霊」「リベラル派」「教会派」「社会派」といったカテゴリーで分類することについて、違和感を訴える方々がおられます。それも重要な意見だと思いますし、筆者も共感する部分があります。

ただし、時代の流れや社会情勢の変化を見極めて、生産的な議論を進めるためには、分析のための尺度が必要です。そして実際に、似通った思想的・実践的傾向を持つ人たちが集団を形成し、あるいは組織化へと進んでいくのは、自然なことです。 

それでも、我々キリスト者=教会は、世界の歴史を貫いてあらゆる国民・あらゆる民族に広がる「単一なるキリストの体」、「聖なる公同の教会」に属しているはずです。それは、我々の神が一つであり、聖書が一つであり、根本的な信仰が一つであるからです(エペソ4:4-6)。

この30年余り日本の福音派は、「伝道と社会的責任」というテーマを特に意識して、活動をしてきたように思います。筆者も大学時代にジョン・ストットカール・ヴィスロフロナルド・サイダーなどから良い感化を受けました。筆者が大学時代に師事した森山諭牧師は、日韓の親善友好に多大な貢献をされました。森山師は、カルト問題や難民救済、高齢者福祉など、様々な社会活動において大きな働きを成されました。

kanai.hatenablog.jp

カール・ヴィスロフ著『キリスト教倫理

「伝道」と「社会的責任」という二つの大きなテーマが、時には分離して、対立するように見える時があります。しかし、日本のプロテスタント宣教の歴史において、教会は常に両方に関与してきたはずです。意識的であれ、無意識的であれ。福音派と呼ばれる我々の先輩たちは、ごく自然に、当然のこととして、困窮する人たちを救い出して、支え、導いていました。


福音派は社会的な活動を「すべきだ」とか「すべきではない」とか言った議論そのものが、そもそも、どれほどの意味があるでしょうか。筆者は、「牧師がその公的立場を利用して反体制的な政治運動を行う」ことには、強く反対します。それが、宣教と牧会と教会の一致に、有害であるからです。

kanai.hatenablog.jp

しかし、福島や東京、沖縄だけが、社会的責任=社会運動の場ではありません。真実のキリスト者・教会ならばすべて、それぞれが置かれた地で、隣人を愛し、助け、地域の人々に仕えているはずです。


明治・大正・昭和時代の日本のキリスト者・教会や宣教師・宣教団、キリスト教系諸団体が行ってきた社会的な奉仕のわざも、忘れないでいたいものです。以下、そのうちのいくつかを例示します。

■筆者の出身教会である明石人丸教会は、ウェブスター=スミス宣教師が始めた孤児院「日ノ出女児園」のバイブルクラスから生まれました。ウェブスター=スミス先生はキリスト者学生会(KGK)の生みの親であり、「戦犯」として巣鴨拘置所に収監された人たちに伝道したことでも知られます。

kanai.hatenablog.jp

バークレー・バックストン宣教師は、石井十次が営んだ岡山の孤児院を強力に支援していましたし、山室軍平救世軍に送り出したのもバックストンです。

石井十次 - Wikipedia

山室軍平 - Wikipedia

ちなみに、バックストン師の祖父、トーマス・バクストンは、英国の国会議員として、ウィルバーフォースと共に奴隷解放に尽力したことで有名な人物です。

kotobank.jpスマイルズ著『自助論』にトーマス・バクストンの話が何度も出てきます。

スマイルズの世界的名著 自助論 知的生きかた文庫

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 ■日本伝道隊のバイオレット・マグラス宣教師大屋マサ師は、身売りされた少女たちを救済する「ジャパン・レスキュー・ミッション」の活動をしておられました。

主の恵みを数えて

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友だち家族「ベウラの園」―新しい老後の暮らし方

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 ■賀川豊彦の社会事業は、今日に至るまで巨大な影響を残しています。

賀川豊彦 - Wikipedia

core100.net

近江八幡を中心としたウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の社会事業も驚異的なものです。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ - Wikipedia

W.M.ヴォーリズライブラリ|ヴォーリズの歩みとその業績を年代に追って紹介し、各分野における活動をご紹介します。


■多くの宣教師や牧師が刑務所・拘置所教誨師を長年務めてきました。

教誨 - Wikipedia

 

■ミッションスクール病院福祉施設難民支援などで、陰に日向に良い社会的奉仕を続けてきたクリスチャンの団体・個人が、日本に大勢あります。

キリスト教学校教育同盟公式ホームページ

日本キリスト教社会福祉学会

www.worldvision.jp

ハンガーゼロ | 1分間に17人飢餓で亡くなっている現実を知ろう。

 

従来の日本の福音派の社会活動が最近の活動と異なるのは、困窮する人々の救済に焦点が合わせられていて、社会体制の変革・反覆をめざしてはいなかったということです。筆者は、日本の歴史を根本的に否定する東京裁判史観=自虐史観とそれを基礎とした反体制運動には、賛成できません。

http://www.lec-jp.com/h-bunka/item/v260/38~43.pdf

近年、日本では、「戦争法案反対」と大書したポスターを、会堂前の掲示板に貼る教会が一部にあります。筆者の個人的な考えを申しますと、教会が団体として直接的に政治的運動を行うのは、宗教的な問題人道的な問題に限定すべきだ、と思います。教会が教会として歩む上で本質的な問題に限られる、ということです。それ以外は、牧師も信徒も、個人的に私人として活動するのがよろしいでしょう。


なぜなら、それ以外の政治的問題については、教会員の中にも多様な立場・意見があって当然であり、信仰の本質に関わること以外で教会が偏った立場に立てば、それに賛同できない信徒を切り離すことになりかねないからです。


これは実際にここ数年、日本の教会が政治的に左傾化した過程において、起こったことです。「牧師と教会が反体制的な運動をするので、私は教会にいられなくなりました」という方々の声を、筆者は数件、お聴きしました。大変残念なことです。

 

そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである」。

そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか」。

すると、王は答えて言うであろう、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」。(マタイ25:34-40)

 

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