罪が赦される喜び(第一ヨハネ1:1-10)
説教「罪が赦される喜び」
聖書:ヨハネの手紙一 1章1-10節
ヨハネの手紙第一は、紀元80年代の後半か90年代の初め頃に、使徒ヨハネがエフェソで執筆して、小アジアの諸教会に送ったものと思われます。ヨハネは12使徒の最後の一人として、老齢になっても牧会の活動を続けていたようです。
この時代には〈偽預言者〉(4:1)がたくさん現れて、教会を混乱させていました。特に問題となっていたのは、霊魂を善とし肉体を悪とするグノーシス主義です。聖なる神の御子が悪しき肉体を持つはずがないと考えるのです。例えば次のような教えです。
「イエスは処女から生まれたのではなく、ヨセフとマリアから普通に生まれた人間だった。イエスがバプテスマを受けた後に、キリストの霊が鳩の形で彼に降り、宣教を行った。イエスが苦しめられて死ぬ前に、キリストの霊は彼から離れ去っていた」
ヨハネがこの手紙を書いた目的の一つは、このような異端の誤りをただして、信徒を正しい健全な信仰に導くことでした。
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。
神の御子イエス・キリストは、肉体を持つ一人の人間として30数年の人生を歩まれました。ヨハネはイエスと3年ほど共に宣教活動をして、直接このお方を体験しました。
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
聖書が伝えるイエスをキリスト(救い主)と信じる人は誰でも、父なる神と御子イエスを礼拝する交わりに加わることができます。キリスト教の本質は、神との人格的な交わりです。教会が宣教を行うのは、人々をこの交わりに招くためです。
筆者は高校1年の夏に参加したバイブル・キャンプで、このヨハネの手紙第一1章5節から10節までを読んで、真剣な悔い改めに導かれました。すでにバプテスマを受けていましたが、
神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
この御言葉を読んだ時に、これはまさに自分のことだ、と思いました。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
この約束を信じて、私は犯してきた罪を告白しました。そして、
御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
という御言葉を信じました。
その時から私の心は解放されて、喜びがあふれてきました。
〈清められます〉と訳されているギリシア語は現在形になっています。英語で言うと現在進行形です。〈御子イエスの血〉は今も、いつまでも私たちを清め続けているのです。
https://biblehub.com/interlinear/1_john/1-7.htm
イエス・キリストは今も天にあって大祭司として、私たちのために父なる神にとりなしていてくださいます。私たちは日々悔い改めて、罪を赦していただき、清めていただきましょう。
教会を建て上げる幸い(マタイ16:13-20)
■聖書朗読 マタイによる福音書16:13~20
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
■説教 「教会を建て上げる幸い」
先日、私は同盟総会に出席させていただき、全国から集まってこられた牧師・信徒の兄弟姉妹と良き交わりを持たせていただきました。今年のテーマは「小さな群れよ、恐れるな」(ルカ12:32)でした。少子高齢化によって人口が減少し、「地方消滅」と言われる時代にあって、我々の同盟もまた厳しい状況にあることは否めません。けれども、人口の少ない地方圏でたくさんの教会を生み出して、存続してきたこの群れは、今も素晴らしい可能性を持っています。「教会」とは何でしょうか。その存在意義や目標は何でしょうか。主の教えに耳を傾けたく思います。
1.教会の土台は正しい信仰告白である
時は紀元29年の秋頃と思われます。主イエスの宣教の旅が終わりに近づいていました。主は弟子たちを連れて、現在のイスラエル最北の地、当時<フィリポ・カイサリア>と呼ばれた地方に、行かれました。北を望めば、標高2816メートルを誇り、一年中、山頂に雪を抱いているヘルモン山がそびえています。
ここは、ヘルモン山の南麓にある、岩の多い高台です。山に染み込んだ水が、ここで豊かな泉となって、湧き出ています。これがヨルダン川の水源地の一つであり、川は40キロほど下って、ガリラヤ湖の北岸に注いでいます。
詩編42編の舞台はこの地です。
わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。
ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて
深淵は深淵に呼ばわり
砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。
旧約聖書の時代には、この地はバアル・ガド(ヨシュア11:17)やバアル・ヘルモン(士師3:3)と呼ばれ、異教の神を祀る場所でした。ここは、ヘレニズム時代からギリシア神話のパーン神を礼拝する聖所となり、パニヤスと呼ばれるようになりました。パーンは下半身が山羊で、上半身は人間、頭に2本の角があります。
パーン:下半身は山羊で、頭に2本の角がある
紀元前20年にヘロデ大王は皇帝アウグストゥスからこの町を与えられたため、その記念に皇帝の像を安置した神殿を建設しました。大王の息子であるヘロデ・フィリポは、この町を拡張し、白い大理石で壮麗な神殿を建てて、皇帝(カイサル)を祀りました。日本で言えば、徳川家康を祀った日光東照宮や明治天皇を祀った明治神宮のようなものでしょうか。
この偶像崇拝の盛んな地で、主イエスは弟子たちに尋ねました。
「人々は人の子を何者だと言っているか」
<人の子>はメシアの称号です(ダニエル7:13)。
弟子たちは答えました。
「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」
ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、「イエスは、私が殺したバプテスマのヨハネのよみがえりではないか」と恐れていました(14:1-2)。<エリヤ>は紀元前9世紀後半に北王国イスラエルで活動した預言者であり、<エレミヤ>は南王国ユダの末期からバビロン捕囚時代にかけて活動した預言者です。両者とも「メシアの先駆けとして再来する」と人々は信じていました(マラキ4:5、Ⅱマカベア2:1-12、ラテン語エズラ記2:18)。
イエスは彼らに尋ねました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」
これにペトロが答えました。
「あなたはメシア、生ける神の子です」
正解です。命無き偶像とは違い、イエスは生きている救い主です。ローマ皇帝は人間に過ぎませんが、イエスは天から降って来た<神の子>です。
ペトロの信仰告白を聞いて、イエスは彼に言いました。
「ヨハネの子シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父である」
漁師であるシモンは「無学な普通の人」(使徒4:13)です。使徒パウロのように律法の専門教育を受けた学者ではありません。けれども、神が啓示によって、彼にこの真理を悟らせたのです。
続いてイエスは彼にこう言いました。
「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」
<ペトロ>(石)と<岩>(ペトラ)は掛け言葉です。ペトロは12使徒の代表として信仰を告白しました。教会は、使徒直伝の正しい信仰告白を土台として、その上に建て上げられる霊的な神の家です。
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エフェソ2:19-22)
2.キリストがキリストの教会を建て上げている
主イエスは、明確な目標をもって宣教を進め、弟子を訓練しました。
「わたしは……わたしの教会を建てる」
これがその目標です。<教会>の原語「エクレーシア」は「召し集められた者たち」という意味の言葉です。これは、70人訳ギリシア語聖書(SEPTUAGINTA)でヘブライ語聖書の「カーハール」(神の選民イスラエルの集会)の訳語として使用された語です。すなわち主イエスは、新しい神の選民を形成しているのです(ガラテヤ6:16参照)。四つの福音書において「エクレーシア」という語が用いられているのは、マタイ福音書の16章と18章だけです。このテキストは、主イエスご自身が直接語った教会論を伝えており、非常に重要です。
「教会」というのは本来、建物のことでも組織や宗教法人のことでもありません。「教会」は神に選ばれた者たちの集まりです。私たちが教会なのです。教会堂や組織も重要ですが、何よりも大事なのは人です。
主イエスは「わたしが教会を建てる」と言っておられます。私たちが教会に集うようになった事情は、「親がクリスチャンだから」、「友だちに誘われて」、「学校がミッションスクールだったから」などいろいろでしょう。けれども、実は主イエスが私たちひとりひとりを選んで、教会に導いてくださったのです。
主イエスはこう言っています。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)
教会は、主イエスがご自身の命を犠牲として贖ったものです。使徒パウロは次のように教えています。
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(エフェソ5:25)
ですから、主イエスは教会をとても愛しておられます。教会は誰のものでしょうか。もちろん会員である皆さんのものですが、それ以上に、教会はイエス・キリストのものです。イエス・キリストご自身が教会を建て上げているのです。
3.教会に天国の鍵が与えられている
続いて主イエスはペトロにこう言いました。
「陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」
主イエスはペトロに天国の鍵を授けました。「鍵」は複数形です。カトリック教会では、「バチカンにいるローマ教皇がペトロの後継者であり、天国の鍵を持っている」と主張します。しかし、マタイによる福音書18章18節で、主イエスはこう言っています。
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」
天国の鍵は<教会>に授けられたものであり、「ペトロの後継者」だけが所有するものではありません。私たちキリスト者は皆、天国の鍵を使うことができます。それが万人祭司です。
では、天国の鍵はどのように用いるものでしょうか。これは、悪魔・悪霊によって陰府(よみ)に引き摺り込まれようとする人々を解放して、天国に入れるために用いるものです。
聖書の霊的な世界観は、天と地と地下(陰府)という三層構造になっています(エフェソ2:10参照)。人は死んだら、どこに行くのでしょうか。聖書によれば、肉体が土に帰っても、霊魂は生きていて、自意識を持っています。「イエスをキリストと信じる人は天国に行って、信じない人は地獄に行く」と言う人がいますが、それは大きな誤解です。「イエスをキリストと信じる人は天国に行く」というのは正しいのですが、それ以外の人が行くのは陰府です。新約聖書の原語、ギリシア語では「ハデース」と言います。そこは、最後の審判が行われるまでの中間状態です。最後の審判によって新天新地=完成した神の国に入る人と、永遠の火の池すなわち「ゲヘナ」=地獄に入る人が、分けられます(マルコ9:43-49、黙示録20:12-15)。陰府にも炎の中で苦しむ人がいますけれど、静穏な場所にいる人もいるようです(ルカ16:23-24参照)。
陰府は悪魔・悪霊が本拠地としている城砦のようなところで、死者の霊魂はその中に囚われています。マタイ16:18で「力」と訳されている原語の正確な意味は「門」です。それは複数形です。岩波訳はこれを「軍門」と訳していますが、悪霊=堕天使の軍団を指しています。主イエスは十字架上で死んでから、霊において陰府に降って、そこを征服しました(第一ペトロ3:18-22、黙示録1:17-18参照)。そして主イエスは悪霊たちの武装を解除し、彼らを捕虜として引き連れて、天に昇っていきました。ですから、陰府の諸々の軍団も、教会には対抗できません。
キリストはすべての支配や権威の頭です。
神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
(コロサイ2:10,13-15)
教会は地上において天国を代表する公的機関です。たとえるなら、教会は天国の大使館のようなものです。C国のPという首都に日本の大使館があるとします。そこにNK国の人が「助けてほしい。米国に行きたい」と言って、駆け込んできたとします。その人が政治的な理由や宗教的な理由でNK国の政府から迫害されていた場合、日本大使館はどのように対応するでしょうか。NK国の政府がその人の引き渡しを求めても、この場合、日本大使館はそれを拒み、その人を米国に行かせてあげなければなりません。それが国際的なルールです。C国にあっても、日本大使館の敷地内はC国の法律ではなくて、日本の法律が適用されます。治外法権が認められているのです。そのごとく教会は天国の大使館なのです。
私たち教会は<天国の鍵>を用いて、<陰府の軍門>に囚われていく人々を解放し、天国に移し入れなければなりません。宣教とは霊的な救出戦に他ならないのです(使徒26:18、エフェソ6:10-20参照)。
私たちも主の助けにより大胆に信仰を告白して、堅固な教会を建て上げ、救霊戦を続けましょう。
苦しみを共に担う教会(フィリピ4:10-20)
2019年6月30日「苦しみを共に担う教会」フィリピ4:10-20
◼聖書朗読 フィリピの信徒への手紙4:10-20
(10) さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。 (11) 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。(12) 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。(13) わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(14) それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
(15) フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。(16) また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。(17) 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。(18) わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。(19) わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(20) わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
■説教
「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)
これこそ、人間の最大にして最後の難問である死を越えていく、究極の希望です。この確信ほど素晴らしいものはありません。けれども、私たちは肉体をもって地上で生活していますから、実際、様々な物を必要としており、不足・欠乏に悩まされるものです。教会の営みにおいては、経済の問題をどのように考えたら良いのでしょうか。
1.貧困も欠乏も乗り越えて
「フィリピの信徒への手紙」は紀元後61年か62年頃に、使徒パウロがローマの獄中からマケドニア州のフィリピにある教会に宛てて書いた書簡である、と伝統的に考えられています(諸説あり)。
この時、間もなく判決が下って監禁が終わる、とパウロは思っていました。彼は死刑になることも覚悟していましたが、無罪となって解放される可能性もありました(1:20-26,2:17,23-24,3:10-11,20)。獄中にあってパウロは、60年ほどの生涯を振り返りました。数えきれない試練を乗り越えてきた生涯でした。
キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。(第二コリント11:23-30)。
わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:11b-13)
パウロは少年時代にエルサレムに上京して、律法学者ガマリエルの門下で学びました。そして、ファリサイ派のラビ(教師)となりました。
古代ユダヤ教では、神殿で仕える祭司は神殿税や十分の一税等によって収入が保障されていました。--ユダヤの民衆には当時、一人頭2デナリオン(二日分の賃金に相当)の神殿税が課せられており、収穫物の十分の一を献げる「十分の一税」も課せられていました--。
しかし、ファリサイ派のラビは会堂や学校で教えたり、手工業に従事したりして、生計を立てなければなりませんでした。そのためパウロはテントメーカーあるいは革職人としての技術を習得していました。
「福音宣教者は福音によって生活の資を得るべきである」という主イエスの教えを、パウロも知っていました(第一コリント9:14,ルカ10:7-9)。けれども、どこからもサポートが得られない時には、パウロはテントメーカーあるいは革職人として働いて、自給伝道をしていたのです。
その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。(使徒18:1-5)
主が私たちを強くしてくださるので、私たちはあらゆる試練を乗り越えていけます。
2.苦しみを共に担う教会
第2回宣教旅行で50年の春頃に、パウロがフィリピで伝道して、教会が生まれました(使徒16:11-40)。パウロは第3回宣教旅行で、56年の夏頃(使徒20:2)と57年の春頃(使徒20:6)にフィリピ教会を訪問しています。この教会は誕生した時からずっと、パウロの宣教活動を経済的に支援していました。パウロは手紙を送ったり、使者を遣わしたりして、フィリピの信徒たちを霊的にサポートしていました(2:19,25-30)。
わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。(4:15-16)
フィリピ教会からパウロに送られる経済的な支援は、しばらく途絶えていました。それが再開されたことをパウロは喜び、彼らに感謝を伝えました。
さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。(4:10)
そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。(4:18b)
それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。(4:14)
この世にあって各個教会はそれぞれの地域で歩みを続けています。けれども、「キリストの体」なる教会はあらゆる違いを超えて、霊的に一体です。喜びも苦しみも共有して助け合い、共に成長するために、私たちは神に召されて教会の一部分とされたのです。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(第一コリント12:26-27)
3.神と共に喜ぶ
私たちの奉仕や献金はすべて神へのささげものです。
それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(4:18-19)
主の栄光がこの地に輝きわたりますように!