KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

誰でもできる簡単で効果的な超伝道法

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三浦光世・綾子

 5月3日(日)~6日(水) 
🍀金井塾オンラインGWスペシャル🍀を開講します。
今回のテーマは
「誰でもできる簡単で効果的な超伝道法」です。

しゃべり場のような楽しい読書会です。言いたい放題で、ステイホームのストレスを発散しましょう!
 
新型コロナショックとステイホームによって、会社人間だった人たちが、自分の生き方や死に方について再考するようになった、と思います。現役世代だけでなく、引退した高齢者には、なおさら切実ですね。


そのような方々にぜひ読んでいただきたいのが、
三浦綾子著『光あるうちに』(新潮文庫です。 

 
これは、とても考えさせられる平易で深い人生論です。聖書やキリスト教とあまり馴染みが無い方々には、クリスチャンが読書会を開いて、これを共に学ぶと、よくわかって豊かな収穫が得られます。

今回、金井塾オンラインでは、その読書会の持ち方・導き方について伝授したく思います。
 
🔶LINE トーク「グループ通話」Facebook Messengerの「グループビデオ通話」

を使う予定です。

www.appbank.net

about.fb.com


🔶参加申し込み・お問い合わせは、LINEトーク または Facebook Messenger で金井までお願いします。

LINE ID:nozomu191

https://www.facebook.com/nozomu.kanai


🔶全12回、1時間ずつ。スケジュールは以下のとおりです。部分参加も可能です。


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【第1課序 章
5月3日(日)15時30分から16時30分まで
【第2課】罪とは何か
5月3日(日)17時00分から18時00分まで
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【第3課】人間この弱き者
5月4日(月) 9時00分から10時00分まで
【第4課】自由の意義
5月4日(月)10時30分から11時30分まで
【第5課】愛のさまざま
5月4日(月)14時00分から15時00分まで
【第6課】虚無というもの
5月4日(月)15時30分から16時30分まで
ーーーーーーーーーーー
【第7課】神ならぬ神と、真の神
5月5日(火) 9時00分から10時00分まで
【第8課】神とキリストと人間の関係
5月5日(火)10時30分から11時30分まで
【第9課】キリストの復活と聖書
5月5日(火)14時00分から15時00分まで
【第10課】キリストの教会
5月5日(火)15時30分から16時30分まで
ーーーーーーーーーーー
【第11課】いかに祈るべきか
5月6日(水) 9時00分から10時00分まで
【第12課】終 章
5月6日(水)10時30分から11時30分まで
ーーーーーーーーーーー
 
🔶受講料は自由献金とさせていただきます。お志のある方は、受講後に銀行振込等で献金をお願いいたします。
 
ご一緒に楽しく新コロショックを吹き飛ばしましょう!
 
金井塾 塾長 金井 望
 

kanai.hatenablog.jp

 

 【追記】

 

 「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(使徒8:31)


私が牧師となってから19年ほど行ってきた伝道活動の中で、三浦綾子さんの『光あるうちに』は効果的でした。その読書会で初めて教会に参加して信仰を持った方も数人おられますし、求道していても福音が理解できなかった人がこの読書会で目が開かれて受洗したというケースもあります。 


三浦綾子さんのご経験とお考えは、我々に人間と社会の現実や、キリストによる救いの必要性を、明確に教えてくれます。三浦綾子さんの功績は大きなものです。その三浦綾子さんが明確に「信仰入門」と銘打って出されたのが、この『光あるうちに』です。時代的には少々古くなりましたが、今でも有効な伝道ツールだと思います。

 

ただし、三浦綾子さんは聖書と神学に関しては専門家ではあられませんので、私どものような牧師や教師が補うべきことも少なくありません。

 

私は、この『光あるうちに』に続いて、同じ著者の『旧約聖書入門』と『新約聖書入門』を用いて、信仰入門クラスを行いました。この二つは残念ながら、あまりお薦めできる内容ではありませんでした。三浦綾子さんは聖書学の専門家ではあられませんので、それは仕方がないことです。

 

旧約聖書入門―光と愛を求めて (光文社文庫)
 

 

様々なツールと様々な立場のキリスト者の協業によって、伝道は進んでいくものだと思います。

 

復活の福音(第一コリント15:1-22)

日本バプテスト同盟 西岡本キリスト教
2020年4月26日 復活節第3主日礼拝


2020年4月26日「復活の福音」第一コリント15:1-22


■聖書朗読
  コリントの信徒への手紙 一 15章1~22節(新共同訳) 


 1
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。

すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。

9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。


 12
キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。


 20
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

 

■説教  「復活の福音」 金井 望

 

  1.この福音によって救われる


 この「コリントの信徒への手紙 一」は、紀元55年の初め頃に、使徒パウロが第3回宣教旅行(53-57年)の途中、エフェソ(エペソ)で書いたものです(使徒19章)。パウロは第2回宣教旅行(49-52年)において、50年の秋から52年の春までコリントに滞在して伝道しました(使徒18章)。パウロが自らの意思で一つの場所にこれほど長く滞在するのは、珍しいことでした。パウロは、地中海世界全体に宣教を拡大していくために、コリント(Korinthos)の町が重要だと思っていたのです。

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パウロの宣教旅行

 コリントはギリシア本土とペロポネソス半島を結ぶ地峡に位置しており、エーゲ海アドリア海を結ぶ東西貿易の中継地として栄えた国際商業都市でした。2万人を収容する大劇場など優れた建築物がたくさんありました。コリントの名が広く知られていたのには、もう一つ理由がありました。この町の西南にそびえるアクロ・コリント山(標高575m)の頂上に女神アフロディトの神殿があり、神殿売春婦である巫女が1000人もいたのです。「コリント」は道徳的な退廃の代名詞でした。


ja.wikipedia.org

Laudate | 聖書を読もう!コリントの信徒への手紙

アクロコリントス - Wikipedia

アプロディーテー - Wikipedia


 パウロは、コリントの教会の問題を人づてに聞いていました(1:11)。教会の中に分裂が生じ、信徒の中には道徳的に堕落する者があり、裁判沙汰が起こっていました。偶像崇拝は信徒たちにとって身近な問題でした。コリント教会の信徒たちには霊的な賜物が豊かに与えられていましたが、教会の秩序が崩れて、混乱が生じていました。.
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 パウロは、この「コリントの信徒への手紙 一」の1章から14章まで、こうした諸問題について指導してきましたが、15章ではコリントの信徒たちの根本的な、最も重要な問題にメスを入れました。それは、パウロがほんの数年前に伝えた「福音」の根本的・中心的・最重要な「キリスト」の真理を、彼らが正しく理解して、しっかりと保持しているのか、怪しいという問題でした。倫理的な問題が生じた場合、その背景に教理・世界観の歪みや誤謬、無理解が存在するケースが、多いのです。1節から3節の前半まで読んでみましょう。

1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。

 使徒パウロは歴史上最大の影響力を持った神学者・宣教者です。けれども彼が人々に告げて回った「福音」は彼が考えだしたものではありません。それは「わたしも受けたものです」とパウロは正直に告白します。この最初期キリスト教の宣教の使信を「ケーリュグマ」と言います。それを正確に伝えて、保持することが、死活問題でした。何しろこの地方は古くから偶像崇拝が盛んであり、さらに世界中から様々な宗教が流入していたため、キリスト教も混淆宗教となり、異端となる者が少なくなかったのです。

 聖書・キリスト教の根本的な教理は、神とキリストから直接的に与えられた真理ですから、これに足すことも引くことも、他のものを掛け合わすことも、してはなりません。キリストの福音を正しく理解して信じ、その真理に堅く立ち続けることが大切です。「この福音によって救われる」からです。

  2.イエス・キリストの死と復活は事実である


 では、私たちを救う「福音」の内容は何でしょうか。3節から11節までを読んでみましょう。

(1) キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと
(2) 葬られたこと
(3) 聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと
(4) ケファに現れ、その後十二人に現れたこと
(5) 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。
(6) 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
(7) そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 

 ここで第一に重要な事実は、紀元30年の春にエルサレム城外で、神の御子イエス・キリストが十字架で処刑されて死んだこと。それが私たちの身代わりであって、私たちの罪――神の律法に違反したために、神に対して負っている負債――を、キリストが贖って――完済して――くださったことです。これは旧約聖書に預言されていたとおりであって、神の御計画によって成された一方的な恵みです。

 

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イエス・キリストの十字架刑

 第二に重要な事実は、イエス・キリストが死後三日目に復活したことです。「葬られた」というのは、仮死状態で蘇生したのではなくて、完全に死んだ状態であったイエスが陰府(よみ、ハデス)からよみがえったことを意味しています。イエスは脇腹に槍を刺されて、水と血が流れ出たため、蘇生は不可能でした(ヨハネ19:34)。

 

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イエス・キリストの復活

  第三に重要な事実は、復活したイエス・キリストが40日間、使徒たちや他の弟子たち、多くの民衆に、その姿を現わされたことです。ケファ(ペトロ)と主イエスの兄弟ヤコブキリスト教会全体のリーダーとして、特別にここに名が記されています。主イエスの肉の弟たちや妹たち(マルコ6:3)は、復活以前には兄イエスをキリストだとは信じていませんでした(ヨハネ7:5)。ところが、イエスが復活し、昇天した後は、彼らも弟子に加わりました(使徒1:14)。

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キリストの昇天

 第四に重要な事実は、復活されたイエスがその肉体をもって最後に、パウロに現れてくださったことです。大勢いた弟子たちの中でも、イエスの宣教にずっと従ってきた「12弟子」が特別に「使徒」と認められていました。パウロはそうではないばかりか、イエスの弟子たちを捕縛・投獄して死に追いやっていた男です。パウロ使徒としての資格を疑う人たちに対して、パウロはここで弁明している次第です。パウロを最後としてその後は、イエスを直接見た証人として「使徒」と呼ばれる人は絶えました。今日「使徒」を名乗る人たちは偽者です。

 

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The Conversion Of St Paul

  3.キリスト者はキリストと同様に復活する

 イエス・キリストの復活が歴史上の事実であるという真理こそ、私たちキリスト者にとって救いの確かな保証となっています。復活によって、イエスが天から降って来た神の御子キリストであることが、証明されました。イエスが罪の力=死の力を打ち破ったから、私たちは、罪が贖われ、永遠の命が与えられていることを、確信できるのです。

20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

 イエスの復活は「初穂」です。イエスは「第二のアダム」「新しいアダム」となりました。イエスは、彼をキリストと信じる者たちに、新しい永遠の命を与えて、霊的に新生させます。イエスも私たちも霊的に「新人類」なのです。

 多くのギリシア人は肉体を悪、霊魂を善と見て、「肉体は霊魂を閉じ込める牢獄だ。死によって霊魂がそこから解放されることが救いだ」と考えました(霊肉二元論)。しかし聖書は、肉体も神が創造した善いものだ、と教えます。私たちは死んでも、キリストが再臨される時に、肉体が復活して、キリストと同様に永遠の栄光の体に変えられます。天国は、食べたり飲んだり歌ったり踊ったりできる楽しい世界です。

 

 この世にあっては、誰もが多くの問題にぶつかり、悩みが絶えません。けれどもイエス・キリストは今も生きておられ、どこまでも私たちと共にいてくださいます。この揺れ動く世界にあって、変わることがない確かな福音の真理に堅く立ち続けましょう。 

 

 

ごあいさつ |西岡本キリスト教

  

エゴー・エイミ(ヨハネ18:1-11)

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<聖書朗読>
 ヨハネによる福音書18:1~11(新共同訳)

1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。18:7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」 

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オリーブ山

<説教要旨>

主イエスは弟子たちとの最後の晩餐を終えてから、エルサレムの東門を出て、キドロンの谷を渡り、オリーブ山(標高800mほど)の麓にあるゲツセマネ(油搾り)の園に行かれた。弟子たちも一緒であった。そこでイエスは一時間余り、天の父に祈っておられた。

そこにイスカリオテのユダが、イエスを捕らえて殺そうと図る勢力を連れて、やってきた。この場所は、イエスがよく訪れた祈りの園であった。ユダが晩餐の席を離れてから2時間ほどあったのだから、イエスは逃れることもできた。しかし、〈エスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ〉、進み出た。どのようなお気持ちだったろうか。
父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。
エスはすでに、天の父の御心に従って、十字架で死に、御父から断絶されて陰府(よみ)に落ちていく覚悟を、決めておられたのである(ルカ22:42)。

エスを捕らえに来たのは、祭司長たち、ファリサイ派の人たち、律法学者たち、長老たちであったが、彼らは神殿の守衛隊だけでなく、ローマ軍の一部隊まで引き連れていた(ルカ22:52、ヨハネ18:3)。

エスは「だれを捜しているのか」とお尋ねになった。彼らが「ナザレのイエス」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。すると、ユダも彼らも〈後ずさりして、地に倒れた〉。

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ΚΑΤΑ ΙΩΑΝΝΗΝ 18 Westcott and Hort _ NA27 variants

John 18:5 Interlinear: they answered him, 'Jesus the Nazarene;' Jesus saith to them, 'I am he;' -- and Judas who delivered him up was standing with them; --

 

この「わたしである」という表現は、ギリシア語原文で「エゴ―・エイミ」である。これは、へブライ語聖書(旧約聖書原典)でモーセに現れた神が使った「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」(出エジプト3:14)のギリシア語訳である(70人訳聖書SEPTUAGINTA)。その意味はわたしは『わたしはある』という者だI am who I am)である。この表現は、唯一の真の神である「」以外には使用が厳禁とされていた。

モーセに現れた神が教示された御自身の名は「YHWH」であった(出エジプト3:15)。これは3:14の「エヒイェ・アシェル・エヒイェ」を意味する名前であり、神聖四文字テトラグラマトン)という。

新共同訳

3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるがわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名 これこそ、世々にわたしの呼び名。

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Exodus 3:13-15 BHS

Exodus 3:14 Interlinear: And God saith unto Moses, 'I AM THAT WHICH I AM;' He saith also, 'Thus dost thou say to the sons of Israel, I AM hath sent me unto you.'

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Exodus 3:13-15 Swete's Septuagint

Exodus 3 Swete's Septuagint

 

あなたの神、YHWHの名をみだりに口にしてはならない」(出エジプト20:7)という戒めがあるため、古代イスラエル民族はヘブライ語聖書にこの名が出てくると、「アドナイ」(主人の意)と読み替えていた。

本来ヘブライ語聖書の表記には母音が無くて、子音しか無かった。そのため「YHWH」の本来の発音は、わからなくなってしまった。文語訳聖書では「ヱホバ」となっていたが、今日の聖書学者の間では、「ヤハウェ」が本来の発音に近いとされている。

ヘブライ語聖書のギリシア語訳である「70人訳聖書」では「YHWH」を「キュリオス」(主人の意)と訳した。そのため、我々が今日使用している和訳聖書でも神の御名を「」と表記しているが、これは普通名詞ではなくて固有名詞だ、ということを覚えたい。


エスは主です」という信仰告白は、「イエスは、モーセに現れて、律法を与え、イスラエルを永年導いた神 YHWHヤハウェ)です」という意味である。使徒ヨハネは1章18節でこう説いている。

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

父なる神は、人間が見ることのできないお方である(第一テモテ6:16)。その見えざる神の見ゆる現れが、子なる神イエスである。

この夜、イエスの神としての権威が現されたので、ユダもイエスに敵対する人々も、地に倒れたのであった。罪ある人は、聖なる神の御前で立つことが、できない。

 

まことに「主を恐れることは知識の初め」である(箴言1:7)。主を侮ってはならない。ユダにはなるまじ!