2018年2月18日 受難節第1主日 礼拝説教
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【聖書朗読】マタイの福音書16章21〜28節
【説教題】「自分の十字架を負って」金井 望 牧師
【中心聖句】
だれでも わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。(マタイ16:24)
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【説教要旨】
弟子たちはついに、イエスを「神の御子キリスト」と信じて告白した。それを受けて主イエスは彼らに、これから起こる主の受難と復活について最初の予告をなさった。主イエスは神の計画に従って、これから<エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない>。<長老、祭司長、律法学者>は、サンヘドリン(最高議会)を構成する権力者たちである。
復活の予告は弟子たちには理解できなかったらしく、彼らはただ受難の予告に驚き、恐れるばかりであった。<ペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません>。これは「神があわれんで、そんなひどい目にあわせないように」という意味である。彼は善意から言ったのである。
しかし、主イエスは彼に「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言って、厳しくお叱りになった。まさにキリストの受難こそ、全人類を救うためにどうしても果たさなければならない要件であった。
ペテロはつい先ほど「天にいます父」に示されたとおり「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白して、主から教会の建設を託されたばかりである。それなのに、今度は「サタン」と言われるとは!
この世のレベルで、人間の理解力の範囲内でキリストを理解しようとするなら、それはとんでもない誤りとなる。ペテロは、神の御心に従うのではなく、人間的な感情に従って動いてしまったのである
イエスは弟子たちに言われた、
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい」。
十字架はローマ帝国における極刑である。縦木が刑場に立てられて、犯罪者が横木を背負って、刑場に向かう。その如くイエスの弟子になろうとする者は、命がけで主に従う決心をしなければならない。
キリストの再臨・裁きの日が迫っている。