カナイノゾム研究室

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心の貧しい人は幸いか

マタイの福音書5章3節の和訳について

 

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ルドルフ・イェーリン「シュヴァルツバルトの山上の説教」
 

  【比較研究】

 

<金井試訳> 
恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから。

<Greek>
Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.

<KJV, RSV, ASV, NIV, ESV> 
Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

<明治訳>
心の貧しき者は福(さいはひ)なり 天國は即ち其(その)人の有(もの)なれば也

<大正改訳>
幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。
天國はその人のものなり。

<口語訳>
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

<新改訳>
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

<新共同訳>
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

<前田訳>
さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。

<塚本訳>
ああ幸いだ、神に寄りすがる「貧しい人たち」
天の国はその人たちのものとなるのだから。

<岩波訳>
幸いだ、心の貧しい者たち、天の王国は、その彼らのものである。

フランシスコ会訳>
自分の貧しさを知る人は幸いである。
天の国はその人たちのものである。

 

  ★ポイント

 

(1) 主要な英訳、大正改訳、金井試訳は、ギリシャ語テクストの始めにある「Μακάριοι」の訳語を始めに置いている。詩文の始めに倒置法で「Μακάριος」を置く用法は、70人訳聖書の詩篇でたびたび見られる(詩篇1:1, 32:1, 112:1, 119:1, 128:1)。大正改訳がせっかく詩文調にして語順を工夫したのに、口語訳は散文調に戻してしまった。前田訳や塚本訳、岩波訳は「幸い」を文頭に置く工夫を凝らしている。
 

(2) 「Μακάριοι」はここでは、神の「祝福を受ける」という意味である。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。

 

(3) 和訳聖書では明治訳から新改訳、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。原文で問題とされているのは「霊」、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。そもそもこれを「心」と訳したのは、モリソンの漢訳聖書であり、それを日本では現代までひきずってしまった。前田訳や塚本訳、フランシスコ会訳は「心」としない工夫を凝らしている。

 

(4) 福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。「ἡ βασιλεία」(へー バシレイア)は「王国」が正確な訳であり、その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。岩波訳はこれに配慮している。

 


 【釈義】


「天の王国」とは何か。「霊において貧しい人たち」とは何か。これを、マタイの福音書のコンテクストと、紀元1世紀前半のユダヤ社会というコンテクストから考察した私見を、以下に述べる。

  1.神の王国の福音

 主イエスは、ヨルダン川で洗礼をお受けになった(3:13-17)。その時、<天から>御声が聞こえた。
「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」
これは、イエスの存在とわざと言葉が、神に由来することを証しする、公的な宣言である。この<神の子>イエスが、霊の戦いである宣教と十字架の死を経て、復活し、完全な勝利者となる。イエスは、<天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている>王となる(28:18)。

 「ἡ βασιλεία」は「王国」が正確な訳であり、その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。

 さて、洗礼の後、<神の子>イエスは<荒野>で<40日40夜>、<悪魔の試み>を受けて、それに打ち勝たれた(4:1-11)。この場所と期間の設定は、シナイの荒野を旅して、シナイの<山>で<40日40夜>を過ごし、神から<律法>を授かったモーセと、イエスを関係付ける役割を担っている(出エジプト24:18)。

 その後イエスは、ガリラヤ湖畔の町カペナウムを拠点として、宣教を開始された(4:12-17)。その使信は次のものであった。
「悔い改めなさい。天の王国が近づいたから」(4:17)。
福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。

  2.律法と福音

 漁師であったペテロ等を、イエスは<弟子>となさった(4:18-22)。

 そしてイエスは、ガリラヤ全土を巡って、人々に神の<王国の福音>を伝え、<あらゆる病気>をいやされた(4:23)。そのうわさがシリヤ全体に広まって、人々は<さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者など>をイエスのみもとに連れてきた。イエスは彼らを癒された(4:24)。

 この病の癒しと悪霊からの解放は、神の恵みに満ちた直接的な<支配>が、すでに現実的に始まっていることを、証しする(12:28)。古代ユダヤ教では<律法>の規定に従って、病人や障がい者、悪霊に憑かれた人は「穢れ」を持つものとして、神殿やシナゴーグから排除されていた。ここで重要であるのは、彼らが宗教的・霊的に回復されたということである。それはまた、宗教と社会が一体化した古代ユダヤにおいては、社会的交わりへの復帰でもあった。

 イエスの驚くべきみわざのうわさは、ガリラヤ、ユダヤ、その他の地方に広まり、大勢の群衆が集まってきた(4:25)。

 この群衆を見て、イエスは湖畔の小高い<山>に登って、<弟子たち>に教えを説かれた(5:1-2)。1300年(後期説)あるいは1500年(前期説)ほど前に、<主>はシナイの<山>でモーセを通してイスラエルの民に<律法>=<契約の書>をお与えになった(出エジプト24:1-8)。この「山上の説教」は、<主>が、その<律法>を<成就する><福音>を説き明かされたものである(5:17-18)。

  3.霊において貧しい人たち

 イエスは、この「山上の説教」の冒頭で、八つの<幸い>について語っている
 その第一(5:3)。
<心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから>(新改訳)。
<恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから>(金井試訳) 

 和訳聖書では明治訳から新改訳、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。原文で問題とされているのは、「霊において τῷ πνεύματι」(トー プニューマティ)、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。「あなたは心が貧しいわね」と言われて、喜ぶ人がいるだろうか。日本語では「心が貧しい」と言う場合、十中八九、悪い意味ではないか。逆説的な教えだとしても、それが「幸いです」となるだろうか。

 「幸いです」と訳された「Μακάριοι」は、ここでは、神から「恵みを受ける」「祝福される」という宗教的な意味を持っている(参照 6:26,32-33, 7:11)。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。「恵まれている」が適切な訳ではないか、と筆者は考える。

 自らが神の御前に立つにふさわしくない<罪人>であり、霊的に<貧しい者>であることを認めて、へりくだる者に対して、神は憐れみ深くあられる。

 

  4.神の王国に入るのは誰か

 マタイの福音書に登場するユダヤの王、祭司長、学者など権力・財力・知力を持つ者たちは、イエス・キリストを受け入れなかった。エルサレムの神殿を拠点として活動した貴族=「サドカイ派」や、各地のシナゴーグ(会堂・会衆)で民衆を指導した「パリサイ派」も、イエスを神の子キリストとして認めない。

 ところが、彼らがユダヤ教から排除した<罪人>たちは、イエスのもとに来て、救いを求め、それを得るのである。
 イエスは<祭司長、民の長老たち>に向かって、こう言い放つ。
「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです」(21:31)。

 このような<罪人>たちこそ、
<霊において貧しい人たち>(5:3)
<嘆き悲しむ人たち>(5:4)
<柔和な人たち>(5:5)
<義に飢え渇いている人たち>(5:6)
<憐れみ深い人たち>(5:7)
<心の純粋な人たち>(5:8)
<平和を造る人たち>(5:9)
<義のために迫害されてきた人たち>(5:10)
である。
神の子イエスの宣教、すなわち神の王国の到来は、「大逆転」を引き起こすのである。

  5.心の純粋な人たち

 従来「心のきよい者」(5:8)と訳されてきた部分を、筆者は、
<心の純粋な人たち>に変えた。この「きよい καθαρὸς」(カサロス)という語には次のような意味がある。
①器などが汚れていない清潔な状態 
②律法の清浄規程に従って、死者や異邦人、病人、血などに触れて穢れていない状態(参照:レビ記11〜15章)
③倫理的に心が汚されていない純粋な状態

 ①はこの語の原義であり、②は古代ユダヤ教の最も重要な価値観である。これを背景として、主イエスは③の意味で「きよい」者は幸いだ、と言われた。

 当時、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で指導していたパリサイ派の人たちは、②の「穢れ」を避けることに執心していた。「パリサイ」には「分離する」という意味がある。そのためユダヤ人でも、病人、障がい者、売春婦、取税人、行商人、羊飼い、牧畜人、皮革業者、ホームレス、女性、子どもなどは、ユダヤ教の礼拝に参加できなかった。それはエルサレムの神殿でも同様である。

 ところが主イエスは、会堂の礼拝で聖書の解説をする教師(ラビ)でありながら、この山上の説教の後、ガリラヤの町々で、病人に手を触れて癒し、異邦人と交流し、悪霊に憑かれた人を解放し、取税人を弟子とした(8〜9章)。

 イエス・キリストが触れたものは皆、<きよい>ものに変えられる。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」からである(8:17)。

 5:8において「きよい」(καθαρὸς)とは、完全無欠な律法遵守という外面的な行いではなくて、イエス・キリストに触れられた者が持つ<心>の<純粋な>状態を指している。

<恵まれている、心の純粋な人たちは。彼らは神を見るから>(5:8)

  6.憐れみ深い人たち

 主イエスは、このような清浄規定に反する<罪人>たちを迎えて、共に食事をした。それを見て、パリサイ派の人たちはイエスを非難した(9:11)。

 イエスはお答えになった。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(9:12-13)。

 この<罪人>に対する<純粋な>愛こそ、神の御心である。

<恵まれている、憐れみ深い人たちは。彼らは憐れみを受けるから>(5:7)