キリスト者の聖潔について(ジャン・カルヴァンの著作より)
キリストとの神秘的結合について語られるのを聞くとき。聖潔がそれに至る道であることをわれわれは思いおこすべきである。
聖潔は、われわれがそれによって、神との交わりを獲得する功績ではなく、われわれをキリストに結合させ、彼に従うことができるようにするキリストの賜物である。
神が、どんな不義や不浄とも関わりをもたれないことが、神御自身の栄光である。したがってわれわれが神の招きを大切にするなら、この事を心にとめておかなければならない。
われわれが、全生涯、なおこの世の不義と腐敗の泥沼のなかで溺れていたいのなら、なぜそこから救い出されたか、考えなければならない。
われわれが神の民となることを望むなら、聖なる都エルサレムに住まなければならないことを神のきよさは教える。
エルサレムは聖別された所であるから、不純な住民によって汚されてはならない。詩篇は、直く歩み義を行う者が、主の幕屋にやどる者である、と言っている。
聖なる方の聖所は、潔く保たれなければならない。(中略)
聖書は、ただ聖潔という原理を示すだけでなく、キリストがそれに至る道であることを示している。
父はわれわれを、キリストにあって御自身と和解させてくださったため、われわれの模範としてのキリストと一つになることを命じられる。(中略)
キリストは、その血によるバプテスマによって、われわれを潔めてくださるのであるから、われわれは新たな汚れによって汚されるべきではない。
キリストは、われわれを肢体として、御自身の体に結び合わせてくださったからには、われわれはどんな汚点によっても、彼の名誉を汚さぬように留意すべきである。
われわれの魂も身体も、朽ちることも、色あせることもない冠を受けつぐように定められているのであるから、自分の魂も身体も、主の日まで潔く汚されることのないように保つべきである。