預言・聖書・教会・神学
1.どうしたら、神のみ心を知ることができるか
私たちキリスト者は、神のみ心にかなった、正しい選択をしたい、あるいは、しなければならない、と思っています。では、何によって、どのようにしたら、神のみ心=ご意志を知ることができるのでしょうか。これは基本的で、大変重要な問題です。
「聖書」「教会」「神学」。これらは、この問題に関して、キリスト者に大きな影響を及ぼしています。これらの位置関係・力学は複雑です。教派や学派、それぞれの立場で違います。建前と本音・実態も違うかもしれませんが、これは考察すると、おもしろいことに(ヤバいことに?)なるでしょう。
さらに、この3つよりも、自分自身あるいは指導者の個人的・主観的な「直感」や「体験」(預言、幻視など)を重視する人たちがいます。建前としては「聖書が絶対だ」「私たちのやり方は聖書的だ」と言うかもしれませんが、実態は違います。
後者については、聖書の学問的な研究や、教会と神学の歴史的伝統を軽視あるいは無視して、「聖書的」と言うことができるのか、甚だ疑問を感じます。
2.聖書が「正典」であるとは、どういう意味か
イエス・キリストはこう言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。だれでもわたしによらなければ、父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)。
キリスト者を自認する人であるなら、「私たちが神に近づけるのは、イエス・キリストを通してのみである」という原則について異論は無いでしょう。問題は、それが具体的にどういう意味であり、どういう手続きを必要とするものであるか、ということです。
イエスご自身が直筆で書き残された文書は、残されていません。それゆえ、使徒パウロは、「あなたがたは、使徒と預言者という土台の上に建てられたものだ」(エペソ2:20)と教えました。すなわち、「正統的」なキリスト教会は、ユダヤ教が公式認定した旧約聖書と、使徒的正統性が認められる諸文書=新約聖書を「正典」=信仰と実践の絶対的な基準として、生活し、教会を建て上げて行くべきなのです。
3.聖書は完結している
初代教会には直接的に「肉」においてイエスを体験した人たちがいました。加えて、コリント教会の人々のように、「霊」においてイエスを体験し、異言や預言を啓示として語り、受け取る人々がいました。
その2者を含めた初代教会の人々のキリスト信仰が新約聖書の諸文書を生み出した。もちろん、そこに聖霊の完全で十分な守りと導きがあったと、新約正典を認めた人々は、信じていたわけです。
新約聖書の諸文書を生み出すまでに、イエスの弟子たち=キリスト者、とりわけ「使徒」とその側近の者たちが行った、預言的な宣教活動は、「正典」(信仰と実践の絶対的基準の書)を生み出すための、また、生み出すまでの特別なものであり、それ以降の預言的な活動とは質的に絶対的な相違がある。真理・信仰の絶対的基準となりうる「預言」はもはや有り得ない。それは、すでに閉じている。
「正統的」=「正典的」キリスト教会は、このように理解してきたはずです。
4.聖書のみ
ところが、ローマの教皇の権威とローマ・カトリック教会の伝統、加えて旧約外典の教え、それらに基づくサクラメントの魔術的神秘化によって、ローマ・カトリック教会は、この「正統的」=「正典的」キリスト教信仰を危うくしました。「贖宥状」(免罪符)は、その典型的な実例です。
それゆえに、ルターやツヴィングリ、カルヴァンなど宗教改革者はそれに対するプロテスト(抗議)運動を起こしたのです。「聖書のみ」「恵みのみ」「信仰のみ」。これがプロテスタントの主張です。
このような事情から考えますと、やはり我々「正統的」=「正典的」キリスト教信仰を標榜するプロテスタントは、現代の直接的・神秘主義的な預言運動を、そのまま認めるわけにはいかないでしょう。
カルヴァンは、『キリスト教綱要』の予定説を説き明かした部分で、「限界」の承認を読者に要求しています。越えてはならぬ、踏み入ってはならぬ「柵」があるわけです。
5.教会と聖書
さて、ここで、もう一つ大きな問題があります。
聖書が教会を生み出したのか?
それとも、
教会が聖書を生み出したのか?
とりあえず、新約聖書に限定すると、どうでしょうか?
カルヴィニズムでは、「会議は信仰と実践の規準とされてはならず、両者における助けとして用いられるべきである」(ウェストミンスター信仰告白)、すなわち、聖書が教会を生み出したのであって、聖書が教会の会議や信条、教義よりも上位にある、と考えるのがノーマルかと思います。
では、実際には、古代における事情はどうだったのでしょうか? マルキオン聖書に危機感を覚えたからこそ、古代教会は、それまであいまいだった正典目録をはっきりさせる方向に踏み出したわけです。だから、「正統」を確定した古代信条を重視し、教会が新約聖書を生んだと見ることもできるわけです。
今日、2000年の教会史をふまえた聖書の読み方を確立しているのは、西方教会では、カトリック、聖公会、ルーテル教会、改革派・長老教会などでしょう。要するに歴史的信条を重視する立場です。
アナバプティズム、敬虔主義、リバイバリズム、ホーリネス運動、ペンテコステ運動は、制度化された教会の枠組みから出て行く傾向がありました。
6.肉と霊
なお、使徒パウロは次のようなことも言っています。
私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。(コリント第一2:4)
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。(同2:13)
預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。(同14:39)
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(コリント第二3:6)
パウロは、手紙を書いて、相手を指導しようとしているのに、<文字は殺し、御霊は生かす>と言う。この矛盾!
しかし、神は霊ですから、キリスト教信仰に霊的・神秘的な性格があることは当然とも言えます。人間の知的な努力は必要ですが、本質的には、神が聖書を媒介にして、御霊によって、私たちに語りかけておられるのです。
風のごとき御霊の自由を認めつつ、公同的・教会的な共同のわざとして、礼拝説教における神の語りかけを、共に聴いてまいりましょう。