紀元30年の春に、エルサレムで「イエス」というひとりの男が、ローマの総督ピラトのもとで、十字架刑に処された。しかし、イエスは三日目に復活して、彼の信奉者たちにその姿を現した。彼を「キリスト」と信じる者たちは、その後、連綿と続いている――。これは1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフス(37年-100年頃)も書き記していることである(『ユダヤ古代誌』ⅩⅧ・ⅲ・3参照)。
イエスをキリストと信じる者たちの集団、すなわち「教会」がエルサレムで誕生した時にメンバーであった者たちは、ほとんどがユダヤ人であった。ただし彼らは、パレスチナで生まれ育って、アラム語とヘブル語を主に使用する「ヘブライスト」と、異邦で生まれ育って、ギリシア語を主に使用する「ヘレニスト」に、大きく二分される(使徒行伝6章)。アウグストゥス帝(在位 前27年-後14年)治下にローマ帝国に居住していたユダヤ人の総数は450万人であり、そのうちパレスチナに居住していたのは50~75万人と推定される(E.ローゼ『新約聖書の周辺世界』148頁参照)。後1世紀にはユダヤ人の人口は、パレスチナよりも異邦の方がはるかに多かったのである。この離散民をギリシア語で「ディアスポラ」という。
ユダヤ人は母国を非常に重んじており、ディアスポラもエルサレムにしばしば上京していた。ユダヤに帰還して定住する者もいた。キリスト教がローマ帝国の各地に急速に伝わったのは、ディアスポラ・ユダヤ人の働きによるところが大である。
初期キリスト教において、ヘブライストは、割礼や安息日、祭儀、食物、清め等、律法の遵守を重視していた。そのため彼らは、これらを行うことのできない異邦人を教会のメンバーとして受け入れることに、否定的あるいは消極的であった。彼らの中にはこの新しい集団を、ユダヤ教の内部にとどまるもの、ユダヤ教「ナザレ派」くらいに理解している者が少なくなかったのである(使徒行伝24:5参照)。
そうだとすると、異邦人は、改宗してユダヤ人にならなければ、キリスト信徒になれないこととなる。それでは、この集団は民族宗教の小さな枠を越えられない。
ところが、ディアスポラ信者のリーダーであったステファノは、ユダヤの人々に驚くべきことを語った。イエスは、神殿にも律法にも依拠することのない救いの道を開いた――というのである。神殿や律法の権威に依拠するユダヤ教の指導者たちは、この問題の重大性に気づいて、ステファノを捕らえ、「石打ち」の刑に処した(使徒行伝7章)。
「聖ステファノの殉教」レンブラント・ファン・レイン
彼らはさらに、エルサレムのキリスト教会を激しく攻撃した。そのため、ディアスポラ・ユダヤ人の信者たちは、ユダヤ、サマリア、さらに異邦の地へと散らされていった。彼らは、行く先々で、イエス・キリストの福音を人々に告げ知らせた(使徒行伝8章)。これによって、「エルサレム、ユダヤ、サマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となる」というイエスの言葉が実現されることとなった(使徒行伝1:8)。キリスト教は世界宗教への道を踏み出したのである。
ただし、使徒たちをはじめヘブライストの信者たちは、迫害されることなくエルサレムに残った。彼らは、ユダヤ教の指導者たちから、内側のものと見なされていたからである。
2.70人訳聖書と神を畏れる人たち
さて、散らされていった人々の中に、フィリポという勝れた人物がいた。エルサレム教会で、ステファノと共に、ディアスポラ信者のリーダーとして選ばれた男である。 フィリポはサマリア、ガザ、カイザリアなどで伝道して、大きな収穫を得た。
使徒行伝8章に興味深い話がある。フィリポが、ガザに下っていく道すがら、エチオピアの女王に仕える宦官に伝道したというのである。 その時、宦官が馬車に乗って、イザヤ書53章7-8節 のテキストを読んでいたので、フィリポはその箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせた。そして、フィリポは宦官に洗礼を授けた。宦官は、これを喜んで、エチオピアに帰っていった。
では、この時、二人は何語で話をしたのか。宦官が読んでいた聖書は、何語で書かれていたのか――。答はギリシア語である。当時、地中海世界の共通語はギリシア語であった。そもそも「フィリポ」はギリシア名である。また、エチオピアの高官ならば当然ギリシア語を使いこなす。宦官は、ヘブル語聖書(旧約聖書)をギリシア語に翻訳した『70人訳聖書』(Septuaginta, LXX)を読んでいたのであろう。
ギリシア語とギリシアの文化が遠く東方に広がったのは、マケドニアのアレクサンドロス大王(在位前336年-前323年)が小アジア、シリア、エジプト、ペルシア、さらにインドまで遠征を行ったためである。彼の死後、帝国は部下たちによって分割されて、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトとなった。
その後、共和政ローマが東方へ進出したことによって、これらの国々は次々と滅ぼされ、前30年にプトレマイオス朝エジプトがローマに併合されて、消滅した。しかし、その後も地中海世界では、文化的にはヘレニズムが支配的であり、ギリシア語が共通語であった。
ただし、ユダヤでは、宗教的な理由からヘレニズムに対する反発が強く、前2世紀に独立運動が強力となり、前140年にユダヤ人の独立国「ハスモン王朝」を樹立した。 この王朝は前37年まで存続した。前2世紀から後1世紀にかけてパレスチナでは動乱が続いたため、多くのユダヤ人が難民、傭兵、捕虜となって四散し、各地にディアスポラ共同体を形成した。
アレクサンドロス大王がナイルの河口に建設した都市アレクサンドリアは、プトレマイオス朝エジプトの首都となり、ヘレニズム文化が大きく花開いた。ローマは、北アフリカの大穀倉地帯から出荷した穀物を、アレクサンドリアの港に集めて、船で運搬した。そうした商業・貿易が栄えて、この都市は人口が100万人を超えるほどに成長した。アレクサンドリア図書館には、世界中のあらゆる分野の書物が集められ、70万冊の蔵書を誇った。世界の各地から学者や文化人がアレクサンドリアに集まった。
古代キリスト教に決定的な影響を与えた 『70人訳聖書』(Septuaginta, LXX)は、この国際文化都市アレクサンドリアで生まれた。その成立については諸説あるが、前3世紀から前1世紀にかけて徐々に翻訳・改訂されたものが集成されたようである。 ヘレニズム文化が広がり、浸透するにつれて、ディアスポラ・ユダヤ人の中にヘブル語を読めない者が増えた。そのため、ヘブル語聖書をギリシア語に翻訳したのである。
ヘブル語聖書が地中海世界の共通語であるギリシア語に翻訳されたことは、「異邦人」と「キリスト教」に重大な影響を与えることとなった。
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アレクサンドリアのディアスポラ・ユダヤ人共同体は、1世紀には世界で最大規模のものであった 。彼らの巨大な会堂(シナゴーグ)は、エルサレム神殿に次ぐ、ユダヤ教のセンターとなっていた。
このアレクサンドリアでユダヤ人思想家フィロン(前25/20年-後40/45年)が活躍した。フィロンはユダヤ思想とギリシア哲学を総合しようとした。彼は、モーセ五書の比喩的解釈によって、プラトンやストア派の思想をモーセに結びつけた。ギリシア哲学の「ロゴス」や「イデア」の概念をユダヤ教の思想に取り込んだ。フィロンの思想は、古代キリスト教に大きな影響を与えた。
ユダヤ人とユダヤ教は、異邦人とどのように向き合っていくべきか。両者は一体となれるのだろうか――。これは異邦の地に暮らすディアスポラ・ユダヤ人にとって、切実な課題であった。 パレスチナ・ユダヤ人は異邦人に対して閉鎖的であったが、ディアスポラ・ユダヤ人は、異邦人に対して開放的で、柔軟な考えと態度を持っていた。しかし、それでも越えがたき高き壁が立ちはだかっていたのである。
ディアスポラ・ユダヤ人共同体で行われる礼拝は、多くの異邦人から注目された。彼らは律法の教えを聴こうとして、シナゴーグの周辺に集まってきた。その中には、ベーシックな戒律である安息日規定と食事規定と道徳律を守り、唯一神に対する信仰を告白して、「神を畏れる者」と認められ、礼拝に加わった者たちもいた。
しかし、割礼や浸礼を受けて、祭儀規定等すべての戒律を遵守する「改宗者」になること、すなわち「異邦人」から「ユダヤ人」に変わることは、高すぎるハードルであった。
ところが、ステファノやフィリポなど、ディアスポラ・ユダヤ人である、イエスの弟子たちが、「イエスは、神殿にも律法にも依拠することのない救いの道を開いた」と教えたので、大変な反響が巻き起こった。この一事がその後、世界を大きく変えていくのである。
「使徒行伝」によれば、エルサレムでキリスト教会が誕生した時のメンバーは、120名ほどであった(1:15)。この小さな群れから始まったキリスト教が、30年後にはローマ帝国東部のほとんどの地域に広がり、さらに、帝国の西部にも拡大していった。その宣教の拡大には多くのキリスト者が関係しているが、「異邦人の使徒」パウロとその弟子たちが果たした役割は、特に重要である。
ステファノが殉教した時に、パウロ は彼の殺害に賛成しており、石を投げる者たちの衣服を預かる務めをしていた。そして、その処刑後ただちに、パウロはエルサレムにいるイエスの信奉者たちを襲って、男女を問わず捕縛し、投獄した。
ところが、この男が、ダマスコの城外で、復活したイエスの顕現に接し、イエスの声を聴いた。それからパウロはイエスに対する態度を180度変えた。パウロは主から「異邦人の使徒」として任命され、その務めに自らのすべてを注ぎ込むこととなったのである。パウロが伝えた福音のメッセージは、ステファノの思想を踏襲するものであった。
パウロの宣教師としての資質について、注目すべきポイントを以下、列挙する。
・小アジア・キリキア州の都タルソで生まれ育った。ここは学問が盛んであった。
・イスラエル初代の王サウルを輩出した、ベニヤミン族の出身である。
・父親もディアスポラであり、パウロは出生時からローマ市民権を持っていた。
・若い時にエルサレムに上京して、律法学者ガマリエルから教育訓練を受けた。
・ファリサイ派に属しており、伝道者として宣教に従事した経験があった。
« Saint Paul » par Etienne Parrocel (v. 1740)
パウロは、宣教旅行においてまず、ユダヤ教のシナゴーグを訪れて、そこで福音を告げ知らせていた。ファリサイ派の律法学者であったパウロにとって、そこは「異国」ではなかった。そこに集う「神を畏れる」異邦人たちにとって、割礼や律法の遵守を条件としないイエス・キリストの救いは、まさに福音であった。
ユダヤ教の保守派は、パウロを危険分子と見なして、攻撃した。キリスト教会内部でも、パウロに反対する者たちが多数いた。しかし、パウロは聖書的神学的な確信を堅持して、それを説明した。「ガラテヤ人への手紙」は、その様子を伝えている。49年に開催されたエルサレム会議で、パウロの主張は公式に認められた(使徒行伝15章)。
ちょうどこの時代には、こうしたパウロの勝れた資質が存分に生かされる環境が整っていた。ローマ帝国による統一的支配によって、「パクス・ローマーナ」(ローマの平和)として知られる安定した世界秩序が保持されていたのである。「すべての道はローマに通じる」と言われるように、地中海世界では街道が整備されて、交通・物流の大動脈となっていた。また、地中海沿岸の主要都市では港湾が整備されて、海上交通も盛んであった。パウロは、こうした交通網を利用して、たびたび宣教旅行を行った。
パウロはシリアのアンティオキアにある教会を母港としていたが、彼の活動範囲は60年までに、シリア、キプロス、小アジア、マケドニア、ギリシア、クレタ、ローマにまで及んだ。パウロは弟子を育てて、各地に派遣したので、何十倍、何百倍もの実を結ぶことができた。エフェソを拠点としたアジア宣教は、その典型的な実例である。パウロは幽閉の身となっても、手紙を書き送ったり、弟子を遣わしたりして、各地の教会を指導した。
パウロは「ガラテヤ人への手紙」に次の一文を記している(4:4)。
時の満ちるに及んで、
神は御子を女から生まれさせ、
律法の下に生まれさせて、
お遣わしになった。
「使徒行伝」では、パウロは次のように語っている(13:46-47)。
さあ、私たちはこれから方向を変えて、異邦人の方に行こう。
主は私たちに、こう命じておられる。
『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。
あなたが地の果てまで救いをもたらすためである』
神は、御子イエス・キリストによってまかれた福音の種が、順調に育って、増え広がるように、宣教の時を計り、宣教者を備え、宣教の環境をも整えておられたのである。
出典:『ユニバーサル新世界史資料』 (帝国書院)
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