◆カルトとは
【カルトの定義】
カルトとは反社会的な思想集団である。
これは筆者が35年ほどいわゆるカルト問題に関わって、出したところの個人的な「カルト」の定義です。カルトに関する情報は巷にあふれていますが、定義はまちまちで、曖昧だったりします。
キリスト教系の宗教集団の場合、教義が正統的ならば「異端」とは言えません。しかし、その集団が本質として反社会的な思想や活動、行為を保持しているならば、「カルト」と判断できます。
反社会性の一般的な基準は違法性です。ただし遍く人はあやまちを犯すものですから、一つ二つの事件でその集団全部をカルトと呼ぶべきかどうか、そこは難しいところでしょう。その集団の本質が反社会的であることが、重要な問題だと思います。
「カルト」(cult)は〈「崇拝」、「礼拝」を意味するラテン語 cultusから派生した言葉である〉ようです(Wikipedia)。けれども今日、実際には宗教以外の思想集団も「カルト」として扱われることがあります。
日本では宗教以外のカルトの事例として、ヤマギシ会(ヤマギシズム)や一部の自己改造セミナーがあります。カルトに共通して見られるのは、マインドコントロールです。
マインドコントロールとは、他人の心理状態を支配して、意思決定を特定の方向に誘導するテクニックです。これを使うカルト=反社会的な思想家・思想集団に気をつけましょう。
◆カルト的なマインドコントロールの方法
(1) 感情のコントロール
①セルフイメージの低い人に「暖かい」人間関係を与えて、自己肯定感を高めさせる。
②恐怖や不安を感じさせてから、解決法を提示して、安心感を与え、依存させる。
(2) 思想のコントロール
「唯一」の絶対的な「真理」を体系的に教え込み、「ミッション」を与える。
(3) 情報のコントロール
人間関係や情報源を制限して、その集団や指導者に不利な情報の流入を遮る。その集団や指導者に対する批判を禁じる。
(4) 行動のコントロール
過剰なルールを課し、具体的に行動を指導・管理して、賞賛や罰を与える。
(5) 生活のコントロール
経済的・社会的な資源を放棄させて、元の生活に戻れない状態にする。
◆マインドコントロールを解く方法
(1) 分離
ある程度の期間、クライアントをカルト集団・指導者から引き離す。
(2) カウンセリング
クライアントに温かな関心を示し、まず話をよく聞いて、理解に努める。
(3) 質問
クライアントが自分で問題に気づくと、解決が早く進む。そのカルトの教えを事前に調べて、疑問を持ってもらえるような質問をする。
(4) 学習
聖書・キリスト教の正しい教理と倫理を教える。複眼的な思考を教える。
(5) 想起
カルト集団・指導者と関わる以前のことを語り合い、思い出させる。
(6) 受容
家族や親しい人たちが「私たちは今もあなたを大切に思っている。戻ってきてほしい」と伝える。
(7) フォローアップ
クライアントの傷ついた心が回復して、社会復帰ができるようにサポートを続ける。
◆キリスト教がカルトを生むのか?
統一教会や全能神教会など、聖書の言葉を引用して使うカルトが、たくさんあります。福音書にあるイエス・キリストの言葉も、使いようによっては、「世捨て人の勧め」のように聞こえます。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
二人はすぐに網を捨てて従った。
そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
(マタイ4:18-22)
ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは網や漁船、家族、自宅を捨てて、イエスに従ったのでしょうか? 福音書を注意深く読めば、彼らは網も漁船も家族も自宅も捨てていないことが、わかります。
イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
(マタイ8:14-15)
ペトロの自宅は、イエスと弟子たちの宣教活動において、重要な拠点となっていました。彼らはペトロやヤコブの舟でガリラヤ湖を渡って、各地で宣教を行っていたようです。
イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。
(マタイ8:18、8:23、9:1)
イエスが復活された後、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなど弟子たちはガリラヤに帰って、湖でまた漁をしています。
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれな かった。
(ヨハネ21:1-3)
歴史的・社会的な背景や文脈を考えないで、文字面だけを単純化して現代に適用するのは、問題があります。
行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。
町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
(マタイ10:7-11)
当時のユダヤ社会には、今日の東南アジア仏教社会に見られるような御布施の習慣がありました。一般の信徒たちは喜んで、巡回伝道者たちを家に泊めて、様々な支援をしていました。だから主イエスは弟子たちに、無一物で身軽に巡回伝道をするように、と指導をなさったのです。
イエスは十字架で処刑される前夜、敵に捕らわれる前に、弟子たちに具体的な忠告を与えておられます。
それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか」。彼らが、「いいえ、何も ありませんでした」と言うと、
イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。
言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」。
そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
(マタイ22:35-38)
イエスはここでは弟子たちに、護身用の剣を持つことを勧めておられます。「完全な非武装・非戦・非暴力・無抵抗がキリストの教えだ」という話をよく聞きますが、筆者はそうは思いません。キリストの教えは現実的なものです。
浮世離れしたカルト集団にご注意ください。