KANAISM ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

プロの覚悟

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NHK連続テレビ小説「エール」より

NHK連続テレビ小説「エール」を観ていて、とても印象的なフレーズがありました。

プロっていうのはね、
たとえ子どもが死にそうになっていても、
舞台に立つ人間のことを言うの。
あなた当然、その覚悟は あるのよね?

www.nhk.or.jp

法律によって未成年の子どもの監護義務が親に義務付けられていますので、この発言は極論であり、精神論でしょう。このドラマでも、音は舞台よりも出産を選んでいます。

子どもはともかく、社会には実際、自衛隊員、警察官、消防隊員などーー医療従事者もーー、命がけで仕事をしている方々がおられます。それなりの覚悟が必要ですし、使命感が無ければできないことです。家族にも有形無形の負担がかかるでしょう。社会がそれを理解して、十分な支援と保障を備えなければなりません。

では、日本のキリスト教会はどうでしょうか。教団の命令一つで派遣して、命がけで家族に犠牲を強いて働かせておきながら、伝道者・牧師を簡単に切り捨て、使い捨てにしている現実が、あるのではないでしょうか。

今いずこの神学校・神学部も若い神学生=牧師志願者が非常に少なくなっています。若い人が「献身して牧師になりたい」と言うと、まず信徒である親が反対するのです、「おまえは現実を知らないから、そんな夢みたいなことを言うのだ」と。


その一方で、「就職が上手くいかないから、職業として牧師になる道を選んで、神学部に入りました」という学生が、いないわけではありません。今は若い神学生が貴重ですから、大事にしてもらえるのでしょう。卒業後も、過疎地の小さな教会ではなく、大都市圏の安定した教会に遣わされます。「地方消滅」の危機は、日本のキリスト教においても例外ではありません。

しかし、むしろこのような逆境にある教会でこそ、真のキリスト教信仰が育つのであり、神はそこに大どんでん返しを起こされるでしょう。


今日の比較的に平和で豊かな日本の地に暮らすキリスト者は、現代人の価値観によって、イエスのラディカルな教えを薄めたり割り引いたりしているのではないでしょうか。修辞法、特に誇張法の理解やコンテクスチャアリゼーションは大切ですが、イエスの言葉をまずはありのままに受けとめることも必要ではないでしょうか。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。( Matthew 10:34-39)

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。……自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。(Luke 14:26-27,33)

 

はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。(Luke 18:29-30)


聖書は家族の愛を、人間社会の根本として重視しています。
全人類の源はアダムとエバの結婚にあります。
主イエスはこう仰せになりました。


創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。……それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。(マタイ19:4-6)


「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20:12)。これは律法の根本である十戒において、人間関係に関する戒めの第一とされます。


エスは公生涯に立たれるまで大工として働いて、母と6人以上の弟妹を養っておられました。十字架上でイエスは、母マリアの世話を弟子に委ねました。

エスの筆頭弟子ペトロは、自分の家を宣教拠点として開放しており、しゅうとめが高熱を出した時には、主イエスが彼女を癒しました。ペトロや他の使徒たち、主イエスの弟たちは、宣教旅行に夫人を同伴しました(第一コリント9:5)。

エスの十字架と復活の後、ペトロをはじめとする使徒たちは、ガリラヤ湖で再び漁をしています。漁船を捨ててはいなかったのです。パウロはテントメーカー・皮革職人として働きながら宣教活動をしていた時期があります。

こうして見ると、実際にはイエスの弟子たちは通常、家族や自宅、職業を捨ててはいません。では、主イエスが教えた「捨てる」とは、どういう意味でしょうか。それは、「自分が所有するもの」を「神がお用いになるもの」とすべく「聖別」してささげることを、意味するのではないでしょうか。そして、何よりも主に従うことを最優先とすべきである、ということでしょう。

そのために非常時においては、主に従うために家族と対立したり、別れたり、宣教地で子どもを失ったりすることも有るかもしれません。覚悟が求められる場面も、無きにしもあらずでしょう。

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:11)

わたしの羊の世話をしなさい。(ヨハネ21:16)

 

アドニラム・ジャドソン(Adoniram Judson 1788~1850) 
http://jp.mahanaim.org/NBoard/DB/text/Upload/106188967956fcab9607bf3.pdf

binryu.at.webry.info


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牧師の仕事

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  • 作者:鈴木 崇巨
  • 発売日: 2010/09/01
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