現代において使徒を称することが、なぜ問題なのか
近年、「使徒」を称するリーダーと教会の運動が世界的に広がり、日本にもその波が押し寄せています。フラー神学校の教授、教会成長運動の研究者、聖霊の第三の波(力の伝道)の指導者として著名なピーター・ワグナー氏は1994年に、その著書『使徒的教会の到来』の中で、NAR (New Apostolic Reformation: 新しい使徒的宗教改革)という呼称を提唱しました。彼はその定義を次のように述べています。
「新しい使徒的宗教改革とは、21世紀の始まりに向けて、世界中のプロテスタント教会に少なからぬ変化をもたらしている神の働きである。過去500年ほど、教会は何らかの形で教団教派という枠組みの中に属しながら成長してきた。兆しは1900年代の初頭から現れ、特に1990年代に明確になってきたが、地域教会の牧会、教会間の関係、経済管理、伝道、宣教、祈り、指導、訓練、超自然的な力の現われ、礼拝などの重要な分野において、新しい形態と方法が現れてきたのだ。それらの教会のいくつかは伝統的な教団に属し、他の大部分はより緩やかな使徒的ネットワークに属している。世界のほぼ全域において、新しい使徒的教会は最も急速に成長している」(20ページ)。
この運動については、ウィリアム・ウッド氏が詳しく解説し、警告を発しています。
日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント –NARに関する警鐘を鳴らす– | 真理のみことば伝道協会
ウッド氏が主だった自称使徒として挙げているのは
ピーター・ワグナー氏(2016年死去)
ベテル教会のビル・ジョンソン氏
ハーベスト・インターナショナル・ミニストリーのチェ・アン氏
モーニング・スター・ミニストリーズのリック・ジョイナー氏
キャッチ・ザ・ファイヤー・トロントのジョン・アーノット氏
です。
ウッド師の主張に対する重要な反論もありますので、ご注意ください。
1999年から毎年、 “Apostolic Council of Prophetic Elders” (預言者的長老たちの使徒的協議会)が開かれています。この運動の根本的な問題の一つは、「使徒」「預言者」が「新しい啓示」を行っていることです。
現代において「使徒」を称することが、なぜ問題なのか。ここで筆者は、その運動の根本的な問題について啓示論・正典論のコンテクストにおいて簡単に論じたく思います。
2.使徒とは何か
そもそも「使徒」とは何でしょうか。「使徒」の原語 ἀπόστολος(希:アポストロス)は「遣わされた者」という意味です。まず、主イエスご自身が、父なる神からこの世に遣わされた「使徒」でした(ヘブル3:1)。そして、主イエスがこの世に遣わす弟子たちが、「使徒」と呼ばれました。
第一に、主イエスと共に宣教活動を行って、主イエスによって直接選ばれ、遣わされた12人の弟子を「12使徒」と言います。
さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せたので、彼らはみもとに来た。イエスは十二人を任命して、使徒と呼ばれた。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。こうして、イエスは十二人を任命された。シモンにはペテロという名をつけ、ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、イスカリオテのユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。(マルコ3:13-19)
「12人」というのは、イスラエルの12部族に対応した数です。12使徒は、「新しいイスラエル」である教会を築く礎石となった特別な人たちです。
まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、私に従ってきたあなたがたも12の座に就いて、イスラエルの12の部族を治めます。(マタイ19:28)
12使徒のひとりイスカリオテのユダが欠けたため、使徒たちはその欠員を補う人物を選びました。その選出の条件とされたのは次の三つです。
(1) 人間となられた主イエスと共に生活したこと
(2) 主イエスや12使徒たちといつも共に宣教活動を行っていたこと
(3) 復活された主イエスを直接、体験的に知っていること
「ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動を共にした人たちの中から、誰か一人が、私たちと共にイエスの復活の証人とならなければなりません」(中略)そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が11人の使徒たちの仲間に加えられた。(使徒1:21-22,26)
第二に、最初期のキリスト教会において、神から特別に召しをいただいて、立てられた指導者を「使徒」と言います。すなわち主の弟ヤコブとバルナバとパウロです。
それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに15日間、滞在しました。しかし私は、主の弟ヤコブは別として、他の使徒たちには誰とも会いませんでした。(ガラテヤ1:18-19)
1世紀中葉には、ペテロとヨハネと主の弟ヤコブが、エルサレムを中心とするヘブライスト・ユダヤ人教会の指導者でした。それと並んで、バルナバとパウロは、アンテオケを中心とする、ヘレニスト・ユダヤ人と異邦人の教会の指導者でした。
第三に、1世紀中葉には「使徒」と呼ばれた無名の人物が、他にも数人いたようです。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケファに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。私は使徒たちの中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。(第一コリント15:3-9)
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。(エペソ4:11 )
ルカ10:1-20には、主イエスが70人の弟子たちを遣わしたことが、記されています。このような無名の使徒たちには、12使徒や主の弟ヤコブ、バルナバ、パウロのような卓抜した権威は無かったようですが、彼らも復活された主イエスを直接知っている証人でした。
パウロは諸々の書簡において、自分が使徒であることを強調しています。それは、かつてイエスの弟子たちを迫害していたパウロが使徒となったことを、認めがたい人たちがいたからです。
人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、私と共にいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。(ガラテヤ1:1-2)
ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒とされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした。(ガラテヤ2:8)
「天国の鍵」を預けられたトップリーダーである使徒ペテロは、パウロを使徒と認め、パウロが書いた書簡を「聖書」に加えることを認めました。
「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ていなさい。預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです」(第二ペテロ1:20-21)
「その手紙でパウロは、他のすべての手紙でもしているように、これについて述べています。その中には理解しがたいところがあります。無知で心の定まらない人たちは、他の聖書の箇所と同様に、それらを曲解して、自分自身に滅びを招いています」(第二ペテロ3:16)
パウロの書簡は、旧約聖書と同等の権威を認められていたのです。
神の「霊感」ゆえに、人の述べる言葉が「預言」となります。広義では霊感や預言は、古代イスラエルや最初期キリスト教において、聖書の範囲を超えて広く見られた現象でした。しかし、その中でも、聖書を生み出した「霊感」や「預言」は、特別な一回限りの啓示として区別すべきです。
聖書はすべて神の霊感によるもので.教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。(第二テモテ3:16)
「聖書」は信仰・教理・実践の完全な基準、すなわち「正典」ですから、特別であり、他の文書と明確に区別しなければなりません。新約聖書の正典は使徒的な権威を基準として判別され、27書に限定されたのです。
4.使徒的教会
ローマ教会の指導者クレメンスは97年頃に、次のように記しています。
使徒たちは、私たちのために主イエス・キリストから福音を聞かされた。キリスト・イエスは、神から遣わされた。それゆえキリストは神から、使徒たちはキリストから出ている。(クレメンスの手紙ーーコリントのキリスト者へ(I)42:1-2)
アンテオケ教会の二代目の監督イグナティオスは2世紀の初め頃に、次のように記しています。
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「使徒」は後1世紀、最初期の教会に限定されるべき用語であり、現代の人を「使徒」と呼ぶのは間違っています。
では、使徒的権威を持つ教会はいつ頃まで存続したのでしょうか。それは.使徒たちを直接知っている世代まで、すなわち後2世紀初めまでと考えるべきです。なぜなら、新約聖書の正典となる27巻が、彼らの教会において生み出されたからです。
今日の日本社会において「霊感」という言葉は、いろいろな意味で使用されています。けれどもキリスト教では、聖書の各書巻の著者たちに導きを与えて、その記述を守った聖霊の働きを特別に「霊感」と呼んでいます。その「霊感」は歴史上、後1世紀末で完了したものと、正統的な教会は理解しています。
東方正教会、ローマ・カトリック教会、プロテスタント諸派が告白するニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)には、次の一文があります。
わたしは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます。
ニカイア・コンスタンティノポリス信条 - Wikipedia
代々のローマ教皇は使徒ペテロの後継者である、とカトリック教会は主張していますが、プロテスタントはこれを認めていません。プロテスタントでは、使徒たちの教えを正しく継承している教会を、「使徒的教会」と呼んでいます。
5.聖書のみ!
それなのに、現代において「使徒」を自認・自称あるいは認定する人たちがいるのは、非常に危険な現象です。なぜなら、主が1世紀の使徒たちと教会を用いて生み出した、キリスト教の「土台」である「新約聖書」に並ぶ、あるいは代替する権威ある言葉を、現代の「(偽)使徒」たちが生み出してしまうからです。これは異端へと逸脱する危険性が極めて高い問題です。
我々キリスト者の信仰の拠り所は聖書のみです。聖書が神の言葉であり、聖書以上あるいは聖書に並ぶ権威のある新しい啓示は、キリストの再臨・この世の終わりまでありません。
偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。(マタイ24:24)
現代の世界に使徒はいません。「使徒」と称する者たちがしるしと不思議、奇跡を行っても、それに惑わされて、彼らを「使徒」と認めてはいけないのです。
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聖書信仰の問題ってナニ?
【序】問題の経緯
年末の26日に藤本満師が「『聖書信仰とその諸問題』への応答1」という連載ものの記事を山﨑ランサム和彦師のブログで発表されました。これは、日本の福音派の聖書学徒には、必読の重要なエッセイです。
『聖書信仰とその諸問題』への応答1(藤本満師) | 鏡を通して ―Through a Glass―
『聖書信仰とその諸問題』への応答2(藤本満師) | 鏡を通して ―Through a Glass―
藤本師が『聖書信仰 −−その歴史と可能性』を上梓されたのは 2015年11月です。それに先立って2014年11月に行われた日本福音主義神学会の全国神学研究会議で、藤本師は「聖書信仰 ―その「近代主義」を超えて」という発題を行っておられ、学会誌『福音主義神学』46号(2015年発行)に同名の論文が収録されています。
福音主義における聖書釈義について(JETS研究会議 感想) - カナイノゾム研究室
『聖書信仰 −−その歴史と可能性』が出版されてからすぐに、藤本師は、この著書の内容をわかりやすく説いた記事を、山﨑師のブログで発表されました。
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その1) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その2) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その3) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その4) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その5) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その6) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その7) | 鏡を通して ―Through a Glass―
藤本師は「無謬か無誤か」という不毛な聖書論論争を終結させるために問題提起をしておられるのだ、と筆者は理解しました。その背景にあるのは、『新聖書注解』(1970年〜1977年、いのちのことば社)が刊行された頃に起こった聖書論論争とその傷です。
問題の焦点は「聖書の記述には歴史的また科学的に誤りが有り得るか」であり、近代的な聖書批評学をどのように評価して用いるか、ということでした。榊原康夫師や村瀬俊夫師などは、それを「有り得る」とする「無謬説」に立ち、聖書批評学を用いることに積極的でした。しかし、津村俊夫師などは、歴史や科学の分野においても聖書に誤りは無いとする「無誤説」を堅持し、聖書批評学を用いることに慎重な立場でした。
■福音主義神学第9号(1978年)
榊原康夫「五書解釈をめぐって」
津村俊夫「旧約批評学と榊原論文」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/009-4_in_printable.pdf
■福音主義神学第17号(1986年)
津村俊夫「福音主義の聖書解釈──その方法論の確立をめざして」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/017-3_in_printable.pdf
■福音主義神学第41号(2010年)
村瀬俊夫「聖書論論争をめぐる視点からの個人的所見」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/41-06.pdf
1978年に米国で保守的福音派が発した「シカゴ声明」が、日本の福音派における「無誤説」=「聖書信仰」という大勢を決しました。
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その結果、村瀬俊夫師は日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)の機関誌『聖書信仰』の編集委員長から降板することとなられました。ところが当の米国では、アカデミズムを尊重して、「無謬説」を容認する「新福音派」が大勢を占めるようになり、今日では「新」が取れて「福音派」と呼ばれるに至っています。
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藤本師はこのような日本の福音派の狭量さを反省しているのですが、聖書宣教会の教師会は『聖書信仰とその諸問題』で藤本師に反論し、聖書の「無誤性」を堅持すべきだと主張しています。
この問題について以下、勝手な私見を簡単に記します。
日本のプロテスタントで最大の教団である日本基督教団の「信仰告白」は、自分たちの信仰を次のように表現しています。
我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。
神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業(みわざ)を成就(じゃうじゅ)したまふ。教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。
我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン。(1954年10月26日第8回教団総会制定)
【2】日本福音同盟(JEA)信仰基準
日本で「福音派」を自覚する教会のおよそ半数が加盟している日本福音同盟(JEA)の規約第3条(信仰基準)には、以下のように記されています。
第3条 (信仰基準)
本同盟の信仰基準は次の通りである。
1.聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。
2.神はすべての造り主であり、唯一で三位一体のまことの生ける神である。
3.キリストはまことの神、まことの人であり、処女マリヤより生まれ、人間の罪のために十字架につけられて死に、全能の神の力によって復活し、神の栄光の御座にあってすべてを支配しておられる。
4.キリストによる救いは罪の束縛と死の力からの解放であり、信じるものは義とされ、聖霊によって新生し、きよめられ、栄化される。
5.教会はすべての信者が聖霊によって一つとされたキリストのからだであり、公同にして普遍である。
6.キリストは世界のさばき主としてふたたび来られる。キリストを信じた者は永遠の生命に、キリストを信じない者は永遠の刑罰に定められる。(本規約の発効は1986年6月10日とする)
【3】日本プロテスタント聖書信仰同盟 (JPC) の信仰基準と宣言
日本プロテスタント聖書信仰同盟 (JPC) の「信仰基準」には、次のように記されています。
一 (聖書)
私たちは、旧新約六六巻が、十全霊感による誤りのない神のみことばであり、救い主である主イエス・キリストを示し、信仰と生活の唯一の基準であることを信じる。
日本プロテスタント聖書信仰同盟 (JPC) が1987年2月5日に出した「聖書の権威に関する宣言」には、以下のように記されています。
JPCの信仰基準は「旧新約聖書六十六巻が、十全霊感による誤りない神のみことばである」と告白しています。この告白はJPCの生命線であり、一歩も後退させることはできません。 この「誤りのない」という言葉が何を意味しているかという点をめぐって多くの論争がなされてきましたが、JPCとして、この「誤りのない」をどう理解しているかを明らかにしたいと思います。
I 「誤りのない」とは、聖書が神のみことばであり、それが主張しているすべての点で絶対的権威を持っていることを告白した神学的表現である。
II この「誤りのない」ということは、人間の理性や学問によって検証することができると考えて告白しているものではない。人間理性は、聖書の権威を十分に弁証し、立証し尽くせるものではない。聖書の権威を私たちに究極的に確信させるものは聖霊の内的なあかしである。
III 「誤りのない」という表現において、聖書の内容を信仰的・教理的領域と歴史的・科学的領域とにあえて分け、その一方の領域においてのみ誤りがないことを主張するという立場をとらない。
聖書の理解においてこのように二つの領域に分けることはもともと不可能なことである。聖書はその書かれた目的にそって理解されるなら、それが主張しているすべての事柄において誤りがない。
IV 「誤りのない」ということが不可謬性(Infallibility)を意味するのか無誤性(Inerrancy)を意味するのかという点は、それらの用語の理解にかかっている。
ある人たちは不可謬性を「教理や信仰の領域でのみ真理である」と解釈する。もし不可謬性をそのような意味に解するなら、第III項に照らして、その意味での「不可謬性」の使用は適切ではない。ある人たちは無誤性を「誤りがないことが検証されうる」と解釈する。無誤性をそのように解釈するなら、第II項に照らして、その意味での「無誤性」の使用は適切ではない。従ってこれらの用語を使用するときは注意深く定義してから使うようにすべきである。
V 「誤りのない」という確信と主張は、聖書の正しい解釈を前提とするだけではなく、その解釈と適用への努力をも要請する。
この確信と主張は、聖書の統一性と真理性に堅く立ち厳密な歴史的・文法的解釈をほどこす責任、さらにその今日的意味をも明らかにする責任を私たちに課するものである。
もしこの責任をなおざりにし、その努力を怠るなら、「聖書は誤りのない神のことばである」との信仰告白は有名無実になり、空文化するであろう。
【4】聖書は無謬か無誤か
聖書観に関する日本基督教団と福音派(JEA、JPC)の微妙な違いに気づかれたでしょうか。
[日基教団]聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
[JEA, JPC]聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。
(1) どちらも「聖書は神の言葉である」と告白しています。
(2) どちらも聖書が信仰と生活の規範であると告白しています。
(3) 前者は、聖書は神と救いについて完全な知識を与えるものであり、信仰と生活の規範として聖書は誤りが無い、と告白しています(聖書の無謬性)。
(4) 後者は、聖書のすべてにおいて誤りが無い、と告白しています(聖書の無誤性)。
「聖書は救いと信仰と生活についての誤り無き規範の書である」ということに、根本主義者、福音主義者、新正統主義者はみな賛成しています(聖書の無謬性:Biblical infallibility)。しかし、「聖書は歴史的にも科学的にも誤りが無い」という聖書の無誤性(Biblical inerrancy)については、意見や立場が分かれます。
(A)聖書は、古代のオリエント世界や地中海世界に起こった「事実」を「科学」的に正確に記録した「歴史」の書でしょうか。
(B)聖書は、古代のオリエント世界や地中海世界という特定の歴史的文化的コンテクストにおいて実行された神の業を経験した人々が伝えた「真実」=証言・信仰・神学の集大成でしょうか。
この設問に対する答には、次の5つが有り得るでしょう。
(1) Aであり、Bでもある。
(2) Aであり、Bではない。
(3) Aではなく、Bである。
(4) AでもBでもない。
(5) わからない。
しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それを誰から学んだか知っており、また幼い時から聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを、知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(第二テモテ3:14-17)
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。(マタイ5:18)
こうしたことが問題となった歴史的事情を以下、単純化して説明してみます。
19世紀から20世紀にかけて欧米のキリスト教世界では、合理主義・科学信仰・進化論によってキリスト教の基本的な信条を否定した自由主義神学(Liberal theology, Theological liberalism)が猛威を振るいました。これに対抗して生まれた「根本主義」(Fundamentalism)の運動は、キリスト教の根本的な信条を守ろうとするものでした。
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しかし今日では一般的に、聖書の無誤性を主張して、進化論に反対し、創造科学とディスペンセーション主義を説くプロテスタント保守派を「ファンダメンタリズム」(原理主義)と呼ぶ場合が多いようです。原理主義には分離主義と反知性主義の傾向がある、と言われます。聖書宣教会の先生方はアカデミズムにおいて超一流であられ、創造科学は支持しておられないでしょうから、いわゆるファンダメンタリストではないでしょう。
根本主義者も福音主義者も新正統主義者も、キリスト教の根本的な信条を信じ、告白しています。しかし、「聖書は歴史的にも科学的にも誤りが無い」という根本主義の主張(無誤性)に、新正統主義(Neo-orthodoxy)は反対します。新正統主義は自由主義と共通する聖書批評学を重視しているからです。
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今日の福音主義(Evangelicalism)は根本主義をルーツとしますが、アカデミズムを重視しており、「聖書の記述には歴史的また科学的な誤りが有り得る」と考える福音主義者もいます。
旧新約聖書66巻はすべて、神の霊的な導きを受けた人たちが、書き記した歴史的文書です。神の言葉は、歴史的文化的な制約条件のある人間の中に受肉して、その人を通して語られ、口で伝えられ、記されて、聖書となりました。言われるがままに記者がタイプライターを打ったり、神がかりになってお筆先を記した、というようなことではありません。
聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきではないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。(第二ペテロ1:20-21)
また、私たちの主の寛容は救いのためであると思いなさい。このことは、私たちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。(第二ペテロ3:15-16)
命じるのは私ではなく主です。(中略)
その他の人々に対しては、主ではなく、私が命じます。(第一コリント7:10,12)
【6】ルターとカルヴァンの聖書論
宗教改革の指導者であったマルティン・ルターやジャン・カルヴァンの聖書論は、どうだったでしょうか。以下にルターの教説を引用します。
キリストは主であって、僕ではない。キリストは万軍の主、律法の主、あらゆるものの主である。聖書は、キリストに反する証しをたてることが許されず、キリストのために、またキリストとともに読まれるべきであり、解釈されるべきである。聖書は人をキリストとの関係に入れることができなければならない。そうでなければ、それはまことの聖書と考えられない。(WA39:47)
聖書は書かれた神の言葉であって、いわゆる『文字の中に入れられた』ものであり、それはキリストがその人間性という衣に受肉した神の永遠のことばであるのと同じである。またキリストがながめられ、扱われたようなことがこの世においてキリストに起こるのと同じく、神の書かれたことばにもこのようなことがある。聖書は他の書物に比べると、書物ではなく虫である。(WA48:31)
「聖書は外見的な栄光をもたず、注目を引かず、美と飾りとをみな欠いている。だれがこのような神のことばに信仰を密着させようとするのか。あなたはほとんど想像することはできない。というのは、聖書は栄光もあるいは魅力ももたないからである。しかも信仰は、この神のことばから、どのような外的な美しさもない聖書の内的な力を媒介にしてくるのである。神のことばにわれわれの信頼を置くようにさせるのは、聖霊の内的な活動だけである」(WA16:82)
キリストを証しして人々を救うことが、聖書の最大の目的である。キリストを証しして人々を救うからこそ、聖書は神の言葉だと言えるのであるーー。これがルターの主張です。
聖書はそれ自身が神の言葉であることを証ししているーー。これがカルヴァンの主張です。
聖書: 神の言葉をどのように聴くのか (シリーズわたしたちと宗教改革 第 2巻)
- 作者: 大住雄一
- 出版社/メーカー: 日本基督教団出版局
- 発売日: 2017/06/21
- メディア: 単行本
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すなわち彼らは、人間理性による聖書の権威の証明を、必要とはしなかったのです。聖書が神の言葉であることを今日の人々に証しするのは、聖書の著者たちを導いた聖霊ご自身です(聖霊による照明)。
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、私について証しをするものである。(ヨハネ5:39)
こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身について記してあることを、説き明かされた。(ルカ24:27)
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。(ヨハネ14:26)
しかし、真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくださる。(中略)御霊は私の栄光を現す。私のものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。(ヨハネ16:13,14)
神は御霊によってこれを私たちに啓示してくださった。(第一コリント2:10)
ルターとカルヴァンは「隠れたる神」を尊重し、人間の理性による探求の限界について警告しています。使徒パウロが第一コリント1:18-25で説いた十字架の奥義が、特に重要です。
19 神の「見えない本質が」、「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない〔ローマ1:20〕
20 だが、神の見える本質と「神のうしろ」〔出エジプト33・23〕とが、受難と十字架とによって理解されると認めるものは、神学者と呼ばれるにふさわしい。
カルヴァンは、『キリスト教綱要』で二重予定について説いているところで、「隠れたる神」にたびたび言及し、踏み越えてはならない「柵」を設けています。人間の理性によって冒してはならない神秘(奥義)の領域があるのです(カルヴァン『キリスト教綱要』第3篇 第21章 旧版pp.187-188)。
その「歯止め」を外した結果、近代の教会と世界はどのようなことになったでしょうか。我々は、人間理性の限界を自覚し、神の神秘と啓示に対する恐れを持つべきでしょう。
233無限。無。ーーーわれわれの魂は、身体のうちに投げ込まれ、そこで数、時、空間三次元を見いだす。魂はその上で 推理し、それを自然、必然と呼び、他のものを信じることが出来ない。ーーー有限は無限の前では消えうせ、純粋な無となる。われわれの精神も神の前では同様で、われわれの正義も神の前では同様である。ーーーわれわれは、神の存在も性質も知らない。なぜなら、神には広がりも限界もないからである。ーーーしかし信仰によって、われわれは神の存在を知り、天国の至福においてその性質を知るであろう。(ブレーズ・パスカル『パンセ』)
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/pascal/pascal233.html
【7】神の言葉の神学
自由主義神学は近代的な科学を偏重して、聖書の人言性を強調し、歴史的信条を否定しました。聖書の神言性を強調して、聖書の無誤性を主張する根本主義の「聖書信仰」は、それに対抗するために生まれたものです。しかし、これも人間理性を過信する近代主義の遺物です。神の神秘=聖域を冒そうとした点では、進化論を支持するリベラリズムも、創造科学を作ったファンダメンタリズムも、同罪です。
旧新約66巻の聖書正典はすべて、啓示の書であると同時に歴史の書であり、文学の書であり、信仰の書であり、神学の書です。そのような聖書の性格を理解して、それにふさわしいアプローチによって聖書を読み解いていかなければ、とんでもない勘違いがキリスト者・キリスト教会に生じます。そのアプローチにおいては根本主義者も福音主義者も新正統主義者も重なるところが多いので、共に聖書を研究することが可能です。
筆者自身のポリシーは「聖書の証言を信じる」というものです。主イエスはこう明言されました。「この聖書は、わたしについて証しするものです」(ヨハネ5:39)。聖書に書かれているイエス・キリストのみわざは、人類の歴史において起こった事実である、と私は信じています。聖書に記されたその力強い確かな証言のゆえに、私はイエス・キリストが私の救い主であることを確信して、心が安らぎ、喜びをもって、その証しをしています。
兄弟たちよ。私が以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、私の宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
私が最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、私自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたような私にも、現れたのである。(中略)
とにかく、私にせよ彼らにせよ、そのように、私たちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。(第一コリント15:1-8,11)
聖書の中心的テーマは「イエス・キリストが成し遂げた人類の罪の贖い」であり、また、「それによって開始され、継続しており、やがて完成する神の国の形成」です。新約聖書はこれを「福音」と呼びます。これを信じない人は「福音派」を自称できませんし、実際にそのような人はいないはずです。新正統主義の立場においても、これは同じはずです。ですから、福音派だけでなく新正統主義に立つ主流派の人たちも、本来の意味での「福音主義者」なのです。
聖書はすべて神の言葉である。そして、説教において聖書は生きた神の言葉となって、人々に恩恵を与える。聖書は「キリストの生の声(viva vox Christi)の聖なる道具」である(ルター)ーー。ルターもカルヴァンも今日の福音派も、このように信じています。新正統主義を代表する神学者カール・バルトが説いた「神の言葉の神学」は、このルターの神学に近いものです。ただし、バルトは近代的な聖書批評学に依存しているために、「聖書はすべて神の言葉である」と言うことができず、「聖書は神の啓示に関する証言である」と説いたのです。
彼らは互いに言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、私たちの心は内に燃えたではないか」(ルカ24:32)
【8】近代主義の呪縛から解放されるべき時代
「聖書信仰」をめぐる混乱の根本的な原因は、科学と形而上学の区別を理解しないことにあるのではないか、と思います。ややこしいことになるのは、科学である聖書学と神学である聖書神学が多くの部分で重なっていることに起因します。科学である聖書学は、ノンクリスチャンにもできます。しかし、神学である聖書神学は、クリスチャンにしかできません。
科学は、人間が五感において経験・感知することが可能で、客観的に検証できる事物・現象を、取り扱います。神学にも、聖書という客観的に検証可能な資料があります。けれど、キリスト者は、これを神の啓示とみなしており、神によって与えられる照明によってのみ、読者は正しく体験的にその意味を理解することができる、と考えます。それは直観や直感に頼る部分が大きいため、人それぞれに異なった「答」が出るのは当然です。
客観的であるはずの科学でさえ、実際には一つの事物・現象について諸々の学説が生じます。ましてや神学は主観的な部分が大きいものですから、多種多様な解釈が生じるのは避けられません。
今、私たちは、「科学信仰」という矛盾を抱える近代主義の呪縛から解かれるべき時代に、生きています。現代においては、近代科学の前提である経験主義・合理主義の世界観や方法論が疑問視され、その限界を露呈しています。ですから、科学の有用性を認めて、使えるものは聖書学・神学に利用したら良いのですが、創世記1〜3章を科学的に説明しなければならない必要性は、無いのです。
筆者は基本的に進化論を支持していません。科学の学説は証明されるまでは仮説に過ぎず、進化論ーーと言っても多様ですがーーは未だ証明されていない部分がほとんどです。種の中で起こる小進化=環境適応はありますが、別の種への大進化は証明されていません。
現代の多次元宇宙論においては、超自然的な神の存在と働きを信じ、超自然的な啓示を信じることは何ら問題となりません。むしろ創造主無しに宇宙や生命、DNAの存在を説明することは不可能とさえ言えます。
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筆者は、創造科学を支持する方々も、大進化を認める有神論的進化論を支持する方々も、同じ信仰を持つキリスト者であると思っています。創造科学が正しいとしても、あるいは大進化があるとしても、そのような驚異的な創造を為された神をほめたたえることでしょう。
このような状況において我々キリスト教会が近代主義の呪縛から解かれるのは、当然であり、必要なことです。JEDP説や史的イエス論など、聖書のテクストを細かく切り分けた聖書批評学の方法論は、今や限界を露呈しています。ロルフ・レントルフが「パラダイムの変化、希望そして恐れ」(1993年)で述べているように、「現在ある最終的な形においてあるがままにテクストに真剣に取り組むこと」が求められているのです。
【9】聖書のオリジナル・テクストの問題
では、現在ある最終的な形としての聖書のテクストとは何でしょうか。一般的には、ヘブライ語聖書(旧約聖書)はBHS(Biblia Hebraica Stuttgartensia)と、さらに新しいBHQ(Biblia Hebraica Quinta)が標準とされます。
Biblia Hebraica Stuttgartensia: A Reader's Edition
- 作者: Donald R. Vance,Yael Avrahami,George Athas,Karl Elliger,Wilhelm Rudolph,Adrian Schenker
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ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア - Wikipedia
Biblia Hebraica Quinta (BHQ). Genesis: Band 1
- 作者: Abraham Tal
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- 発売日: 2016/02/01
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ギリシア語新約聖書は ネストレとアーラント(Nestle-Aland)による校訂本文が標準となっています。
Nestle Aland 28th Edition Greek - English: English Translations: Nrsb and Reb
- 作者: German Bible Society
- 出版社/メーカー: German Bible Society
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歴史的に見ると、このヘブライ語聖書とギリシア語新約聖書の間にある「70人訳聖書」(Septuaginta)が最初期キリスト教と新約聖書に与えた影響が、特に重要な問題です。
最初期キリスト教が事実上「正典」として用いていたのは、
①ヘブライ語聖書(ヘブライスト・ユダヤ人の聖書)
②70人訳ギリシア語聖書(ヘレニスト・ユダヤ人と異邦人の聖書)
両方でした。
Septuaginta: A Reader's Edition
- 作者: Gregory R. Lanier,William A. Ross
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新約聖書27巻はすべてギリシア語で書かれました。ということは、新約聖書を生み出した使徒的権威を持つ教会は、70人訳ギリシア語聖書を主たる「正典」として使用する集団であった、と考えられます。よって、ヘブライ語聖書と多少異なる意味と分量を持つ70人訳聖書にも、正典的権威をもたらす「神の特別な霊感」が働いていた、と考えるべきでしょう。
秦剛平氏の偉業により70人訳聖書の和訳本が刊行されています。そのため、ヘブライ語聖書と70人訳聖書のテクストの違いが、日本人読者にもわかりやすくなりました。ヘブライ語聖書と70人訳聖書のテクストのズレは、聖書が人言性を持つことの証しです。聖書の神言性は、この人言性を持つ「御言葉」のダイナミックな働きの中で証しされ、確認されたのです。
【10】「脱西欧近代」のキリスト教
このようなマクロな視点でのキリスト教の見直しは、日本人への伝道にも重要な意味を持っています。日本人には科学信仰が根強く残っていますが、今や日本人の世界観も大きく変わろうとしています。ところが、多くの人が聖書=キリスト教に答えを求めているのに、キリスト教会がそれに十分対応できていない現状があります。
もちろん我々のキリスト教信仰は、あらゆる人間の思想と活動を超えた神からの啓示に基づくものであり、時代の思潮に依拠するものではありません。けれども、ポストモダン的な変化は、世の人々に対するキリスト信仰弁証の好機をもたらしている、と言えるでしょう。
「宗教改革500年」(1517年ー2017年)という時代は「西欧近代」の世界的拡張の時代でもあります。現代のポストモダン的状況は、「脱西欧近代」という巨大なパラダイム転換の開始を意味します。筆者はもともと経済や政治、エコロジーの視点から脱西欧近代の問題に取り組んでいましたが、これは日本におけるキリスト教宣教=聖書の使信の伝達においても新しい可能性を開くように思います。
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日本のマインドコントロールを打ち破る宣教 日本民族を覆う「顔おおい」と、「のろいのひも」によるマインドコントロールから解放する宣教
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日本語指導の必要とその宣教的ポテンシャルについて
www.kobeymca.ac.jp12月8日未明に外国人材受け入れ拡大法(改正出入国管理・難民認定法)が参議院で可決・成立しました。政府は、2019年度から5年間に14業種で最大34万5150人の受け入れを、見込んでいます。少子高齢化が進行し、人口減少・人手不足が深刻化する日本社会の現状を考えると、これは避けて通れない道でしょう。しかし、問題課題は山積しています。
外国人の子女への日本語教育も非常に重要な課題です。日本の小中学校に通う外国人の児童生徒が今、急増しているのです。12月4日付のNHKの記事によると、日本の小中学校に通う外国人の子どもが年々増えており、2017年5月時点で7万7000人となっています。5年前と比較すると1万4000人近く増えています。日本語指導が必要な外国籍の児童生徒の数は愛知県、神奈川県、東京都、静岡県、大阪府の順で多い状態です。
横浜市の中華街に近い市立南吉田小学校では、全校児童の半数以上が外国籍の子どもとなっています。横浜市は外国籍の児童の急増に対応するために、積極的に日本語教員を公立の小中学校に配置しています。
言葉の壁を越える教育 | March 2017 | Highlighting Japan
最近、子どもが少ない、あるいは、ほとんどいない教会が増えていますが、教会で日本語教室を開いたら、外国人の子女が集まるのではないでしょうか。
共産圏やイスラム圏では、日本人は公に伝道活動ができない国が多いのですが、それらの国から日本に来ている人たちに伝道することは自由です。
初級の日本語は、外国語が話せない日本人でも、教えることができます。特に方言などの話し言葉は、教科書だけではわかりません。居住地の日本人による教育が必要です。特別な資格が無くても、日本語は教えることができます。
WEBには、無料で日本語を学習できるサイトがあります。英語や中国語、韓国語など外国語が話せる日本人なら、そのプログラムを使用する外国人の子女を補助するだけでも、良いボランティア活動になります。
筆者は8年ほど前に420時間超の日本語教師養成講座を受講して、日本語教師の資格を取得しました。その頃は日本語教師の求人は少なくて、給料も低いため、資格を取っても従事しない人が大半でした。今は状況が変わって、日本語教師の求人がたくさんあり、待遇も改善しています。
失業した人を対象とするハローワークの求職者支援訓練には、日本語教師を養成するコースがあります。このコースを利用すれば受講料が無料になり、給付金が支給される場合もあります。
あなたも日本語教師や日本語教室にチャレンジしてみませんか!
「あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい」(マタイ18:10)
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)