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聖書の死生観と救済論

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十字架におけるイエス・キリストの死(後30年4月7日)

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イエス・キリストの復活(後30年4月9日)

なぜ人は、生から死へ移行する時に、葬りの儀礼を行うのだろうか。死者を葬る儀礼は、あらゆる時代を通じて、人類社会に普遍的に見られる現象である。〈仲間の遺体を生ごみのように捨てることをルールとしている社会は、存在しない。必ずしかるべき儀礼によって死者を丁重に葬るのである〉(佐々木宏幹・村武誠一編『宗教人類学(宗教文化を解読する)』新曜社、1994年、pp.59-60)。葬りには何らかの霊的・宗教的・社会的な意味が存在しているはずである。人の心は常に意味を求めており、人は生と死の意味を考えずにはいられない。聖書は、葬送儀礼を意味づける死生観を、明確に教えている。聖書の死生観と救済論について考察してみたい。

 

  1.人間とは何ものか

 

聖書に拠れば、この地球上に人間が存在する根本的な理由は、神の意志にある 。それは最初の人(アダム)だけではない。民族や国籍、宗教の如何にかかわらず、現生人類すべての存在が神の意志に因るものである。

 

それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇139:13-16)

 

聖書に拠れば、人間の肉体は〈土地のちり〉に過ぎない。神の「息」(命、霊)がそれに宿ることによって、人は生きている 。死とは「息」が取り去られることである。 人の生と死に神が決定的に関わっている 。

 

神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2:7)

主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、120年にしよう」と仰せられた。(創世記6:3) 

ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。(伝道者の書12:7)

霊から離れた体は死んだものである。(ヤコブ2:26)

主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、120年にしよう」と仰せられた。(創世記6:3) 

ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。(伝道者の書12:7) 

霊から離れた体は死んだものである。(ヤコブ2:26)

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。(中略)神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3:1-2,11) 

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。(中略)だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:29,31)

 

人間も動物の一種であるが 、人間には、他の動物と決定的に異なる性質と能力がある。すなわち、人間は神に似せて「神の像」に造られている。人間は、神の意志に従って地を治める能力を持っており 、神を礼拝する霊性を持っており 、神の摂理と永遠の世界について思索する性向を持っている。

 

私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ」。人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。(伝道者の書3:18-21)

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」。(創世記1:28)

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:23-24)

神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3:11)

 

  2.罪と死の支配

 

聖書に拠れば、死は始めからあった自然な現象ではない。現生人類の始祖が神の戒めを破ったために、「罪」が人類に侵入し、それが「死」をもたらしたのである。  

 

善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創世記1:17) 

あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。(創世記3:19) 

ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった。(ロマ5:12) 

ひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになった(中略)。罪が死によって支配した。(ロマ5:17,21) 

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:14-15)

罪の報酬は死です。(ロマ6:23)

 

死は人間が犯した違反に対する神の刑罰である。 「罪」はすべての人に宿っている法則・力であり、神の意志・律法に逆らう性質を持っている。 西方神学ではこれを「原罪」と呼ぶ。

 

罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことです。(第一ヨハネ3:4) 

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。(ロマ7:19-20)

 

聖書が教える「死」には、主に三つの意味がある。

第一は、神に離反する霊的死の状態である。

 

 

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1-3) 

 

第二は肉体の死である。キリストの贖罪にあずかっていない死者の霊はハデス(シェオール、よみ、黄泉、陰府)に行く。 これは肉体の死から最後の審判までの中間状態である。ハデスは悪魔・悪霊が支配する城塞である。 ハデスには、火炎によって罪人が苦しめられる場もある。

 

まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。(詩篇16:10)

わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの軍門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18)

金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。(ルカ16:22-24)

 

 

第三はゲヘナ(地獄)における永遠の火の刑罰である。

 

そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(第二テサロニケ1:8-9) 

それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20:13-15)

おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示録21:8)

 

人間は自分を死から救うことはできない。他人を救うこともできない。なぜなら、すべての人が「罪」の支配下にあるからである。

 

ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にある。(ロマ3:9) 

義人はいない。一人もいない。(ロマ3:10) 

人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない。(ロマ3:20) 

私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ロマ7:22-24)

 

  3.罪と死に打ち勝ったキリスト

 

人となった神の御子イエス・キリストだけが、完全に罪の力に打ち勝って 、天父の意志に完全に従い抜き 、完全な義を実現した。

 

神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ロマ8:3)

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6-8) 

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。(ヘブル5:7-10)

 

すべての人が罪の報いとして受けるべき神の怒り ・裁き ・のろい を、キリストが身代わりに引き受けて、十字架上に死んだ。

 

神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ロマ8:3)

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6-8) 

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。(ヘブル5:7-10)

 

キリストは、人類の罪すなわち神に対する負債を贖う代価として、御自身を犠牲とした。 それによって人類の罪に対する神の怒りは和らいだ。

 

こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。(ロマ5:18-19)

不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている。(ロマ1:18)

それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。(ロマ3:19)

律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。(ガラテヤ3:10)

彼は自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。(第一ペテロ2:24)

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。(第一ペテロ3:18) 

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。(ガラテヤ3:13)

それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。(コロサイ2:13-14)

キリストはご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル9:12)

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは私たちが、この方にあって神の義となるためです。(第二コリント5:21)

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。(第一テモテ2:6)

神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(ヘブル2:17) 

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。(ロマ5:8-10)

神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られる。(第一テサロニケ1:10)

 

イエス・キリストはハデスに落ちて行かれた。キリストはハデスの勢力を征服して 、蘇った(黄泉帰った)。 キリストは完全に死の力に打ち勝った。

 

子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14-15)

それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない」と語ったのです。(使徒2:31) 

神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。(使徒2:24)

わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。(黙示録1:18)

御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。(中略)すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。(マタイ28:5-6,9)

 

キリストは復活後40日にわたって、大勢の人々に復活の体を現わした。 それからキリストは天に昇った。 それは勝利の凱旋であった。

 

キリストは、聖書が示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、葬られました。そして、聖書に従って三日目によみがえられて、ケパに現われ、それから十二弟子に現われました。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。(第一コリント15:3-6)
エスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。(使徒1:9)
「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」。――この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。(エペソ4:8-10) 

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11) 

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2:15)

 

キリストは父なる神の右の座に就いた。 キリストは、天も地上も地下(ハデス)も、全ての領域を支配する権威を持つ王となった。 

 

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ロマ8:33-34)

彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。(使徒2:30)

エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28:18)

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。(エペソ1:20-22)

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)

 

キリストは大祭司としていつも、人々のために父なる神にとりなしをしている。

 

もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、私たちの罪だけでなく全世界のための、なだめの供え物なのです。(第一ヨハネ2:1-2) 

キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル7:24-25)

 

  4.イエス・キリストを信じる者は救われる

 

それゆえ、イエスを主キリストと信じて 洗礼を受ける者は 、すべての罪が赦されて 、神に義と認められ 、神と和解し 、神の子として新生し 、永遠のいのちを与えられて 、天国の国民とされる。 

 

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(中略)ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ロマ10:9-13)

信じてバプテスマを受ける者は、救われます。(マルコ16:16)

悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。(使徒2:38)

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。(ロマ3:21-25)

もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。(ロマ5:10-11) 

神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。(第二コリント5:18-19)

この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:12-13) 

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(第一ペテロ1:3)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

私たちの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)

 

イエス・キリストを信じる者は死後、その霊が天国に行く 。

 

まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43) 

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。(ピリピ1:23)

 

  5.終末時代

 

終末時代には、偽キリストや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議なわざによって多くの人を惑わす。民族間の紛争や国家間の戦争が次々と起こり、方々で飢饉と地震が起こる。キリスト者は迫害を受けて、殺される。裏切る者たちや棄教する者たちが大勢いる。不法がはびこり、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。神の国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国の人々に証しが為される。それから終わりの日が来る(マタイ24:3-24参照)。

 

 

 

  6.キリストの再臨とキリスト者の栄化

 

その時には、太陽も月も星も、天の万象が揺り動かされる。イエス・キリストは栄光を帯びて天の雲に乗って、この世に再び来られる。 その時にまず、キリストに結ばれて死んだ人たちがよみがえる。次に、この世に生き残っているキリスト信者が、その人々と共に雲の中に引き上げられる。 その時に、死者も生者もすべてのキリスト者が、復活のキリストと同じ体に変えられる 。それは天上の体、栄光の体、強い体、御霊の体、朽ちない体、不死の体である 。

 

第一コリント15:40-53参照

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4:16-17)

キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3:21)

 

  7.最後の審判と新天新地

 

それからイエス・キリストは、あらゆる支配と権威と権力を滅ぼし、最後の敵である死を滅ぼす。 キリストは全宇宙の王となる。キリストは最後の審判を行って、すべての生者と死者を二つに分ける。 一方は、ゲヘナ(地獄)に投げ込まれて、永遠の火の刑罰を受ける。もう一方は〈新しい天と地〉すなわち、完成された永遠の天国に入り、永遠に神と共に生きる。

 

第一コリント15:40-53参照

 

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」(中略)それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」。(マタイ26:31-34,41)

 

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」。すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする」。(黙示録21:1-4)

 

自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。(22:14)

 

  8.系図・葬式・墓  

 

以上のような死生観は具体的には、どのようなかたちで表現されるのであろうか。

聖書は、最初の書「創世記」の4章17~22節(カインの子孫の系図)から最後の書「ヨハネの黙示録」の7章4~8節(イスラエル12部族のリスト)に至るまで、系図や部族のリストで満ちている。新約聖書が「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図」(マタイの福音書1:1)から始まっていることは有名である。イスラエル民族の系図は男系である。  

 

信仰の父アブラハムに対して、神はこう仰せになった。

 

「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる」(創世記17:7-8)  

 

モーセがホレブ山で神に出会った時に、神はこう仰せになった。

 

イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である」(出エジプト記3:15)  

聖書の民イスラエルが血縁・民族・部族を重視する共同体であることは、明白である。

アブラハムの妻サラが死んだ時に、アブラハムはカナンの地にあるマムレ(ヘブロン)に面するマクペラの畑地のほら穴を買い取って私有の墓地とし、そこに妻サラを葬った(創世記23章)。これが聖書に記されている最初の葬りと墓である。アブラハム夫婦とイサク夫婦、ヤコブ夫婦はこの墓に葬られた(創世記25:8-10、35:27-29、49:29-33)。  

 

エルサレムにはダビデ王(在位:前1000年~前961年頃)の墓が今でも残っている。  

エス時代のユダヤの伝統的葬儀は、次のように行われていた。まず遺体は水で洗われた。それから香料や香油、没薬等を遺体に塗った。そして、白い布にくるんで墓に運んだ。その葬列には多くの人が付き添った。プロフェッショナルの泣き女が大声で泣いて、人々の涙を誘った。富裕な人は横穴式の大きな墓を使用したが、〈貧しい人たちは、地面に掘った横50cm、深さ180cm程度の竪穴に埋葬された〉 。遺体は墓の中の棚か石棺、木棺に1年間安置される。1年後、家族が来て、枯れた骨を骨箱に移し変えた。  

イエス・キリストは墓に葬られたが、復活したので、その墓は空っぽになった。エルサレムの黄金門(東門)前の斜面にはたくさんの墓がある。それは、キリストが再臨した時にこの門を通るので、そこで真っ先に復活したいからだという。  

使徒信条で告白するとおり、キリスト者は皆、「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命」を信じて、葬送儀礼を行っている。ローマ・カトリック教会は今日でも土葬を原則としているが、それは復活の信仰ゆえである。欧州で火葬が行われるようになったのは1860年代からである。英国では21世紀初頭には約70パーセントが火葬となっている。

 

イスラエル民族・ユダヤ人・聖書は、系図を継承し、祖先から受け継いだ宗教的な遺産を大切にしている。ユダヤ人やキリスト者も日本人と同様に墓を大切にしている。このようにユダヤ人やキリスト者と日本人に重なる美点には、肯定して良い部分も多々あるのではないだろうか。日本で宣教する者たちは、日本の風習を「偶像崇拝」の一言で全面否定せず、それが聖書・キリスト教と何が違っていて何が似通っているのか、何を変えるべきで何を残すべきか、明確に伝えていくことが重要である。