2018年1月28日 顕現後第4日 礼拝説教
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【聖書朗読】マタイの福音書15章32〜39節
【説教題】「イエスの思いやり」金井 望 牧師
【中心聖句】
「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうでたまらない、この群衆は三日間もわたしと一緒にいて、食べる物を持っていない。空腹のままで解散するわけにはいかない。途中でへたばってしまうから」
イエスは七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えた。そして、弟子たちは群衆に配った。(マタイ15:32,36)
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【説教要旨】
主イエスと弟子たちは<ツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた>(マルコ7:31)。ガリラヤ湖の東に広がるこの地方には、アレクサンドロス大王の後継者たちが建設したギリシア植民地の「10都市」があった。ギリシア・ローマ文化が栄えた先進都市である。これらは大きな街道沿いにあり、通商や軍事において重要な位置を占めた。その都市の一つ、ガダラ(ゲラサ)で、主イエスが悪霊を追放したことがあった(8:28-34)。
さて、今回の異邦巡りの前に、主イエスはベツサイダで五千人の給食を行われた。それと同様の奇跡を、この旅の終盤にここで行ったのはなぜか。それは、主がユダヤ人と異邦人を分け隔てなく恵まれることを、証しするためである。
<イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうでたまらない、この群衆は三日間もわたしと一緒にいて、食べる物を持っていない。空腹のままで解散するわけにはいかない。途中でへたばってしまうから」>。
「かわいそうに」の原語は「はらわたのちぎれる思いがする」「胸が痛む」「かわいそうでたまらない」といった激しい感情を表す。「三日間」というのは足かけ三日であり、日没が2回という意味だが、人々は体力的に危険な状態にあった。
実に神であるイエスが我々と同じ人間の肉体と心を持って地上で生活し、飢え、渇き、痛み、苦しみを自ら体験された。それは憐れみ深い(同情できる、共感する)大祭司となって、私たちの祈りを御父にとりなし、適切な助けを与えるためであった。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
(へブル2:14-18)
前回の給食は草多き早春=雨季であったが(マルコ6:39)、今回は草枯れし晩夏=乾季であり、人々は土の上に座った。イエスは<七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えた。そして、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した>。この一連の動作と用語は聖餐を暗示している。
主は人々の霊と心と体の状態を心配し、助けの御手を伸べてくださる。そのお手伝いをする弟子は誰だろうか。