カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

「キリスト者の自由」ガラテヤ人への手紙4:21~5:1

【金言】キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)

 

パウロはガラテヤの信徒たちに、神の子とされている恵みを自覚するように促した。ここでパウロは、信仰の父アブラハムのふたりの子らをたとえとして、キリスト者に与えられた<自由>について説明している。

 

  1.奴隷の子と自由の子

 

アブラハムの正妻サラは、不妊のために悩んでいた。彼女は女奴隷ハガルを夫アブラハムに与えて、その女によって子をもうけた。その<女奴隷の子>がイシュマエルである(創世記16章)。しかし神は、サラ自身から生まれる子が祝福を受け継ぐという<約束>をお与えになった(同17:16)。アブラハム100歳、サラ90歳にして生まれたのが、<自由の女の子>イサクである(同21:1〜5)。


アラブ人=イスラム教徒は、イシュマエルを祖先として、彼こそが祝福を受け継ぐ者だと主張する。ユダヤ人はイサクを祖先として、同様の主張をする。


パウロは、この故事を<比喩>として、なんと、<シナイ山>で与えられた律法の奴隷となっているユダヤ人は、<肉>によって生まれた<女奴隷の子>だ、と言う。そして、キリスト者こそ<自由の女の子>だ、というのである。

ユダヤ人は<エルサレム>にある神殿を誇りとし、拠り所としていた。それは、アブラハムがイサクをささげたモリヤの山にある。これに対して、キリスト者は<上にあるエルサレム>=天国に属する民である。私たちの拠り所は、エルサレムでもヴァチカンでもメッカでもなく、教会堂でも教団でもない。天におられる贖い主=大祭司「キリストのみ」である。

 

  2.約束の子ども

 

パウロはイザヤ書54章1節を引用して説明する。<不妊の女>に大勢の子孫が与えられる。これは直接的には、バビロンに補囚とされたエルサレムの民=ユダヤ人が、真の神、主に立ち返るなら、やがて帰還して、以前に勝る祝福をいただく、という預言であった。


パウロは、これをガラテヤのキリスト信徒にあてはめる。あなたがたこそ、<イサクのように約束の子ども>だ。アブラハムに与えられた祝福を受け継ぐ、真の<イスラエル>なのだ、と(ガラテヤ6:16)。

神はイシュマエルにも祝福を約束された(創世記16:10、17:20、21:18)。 イシュマエルの子孫は荒野の民となったが、今日、アラブ人はオイルマネーによって豊かな生活を送っている。イスラム教徒は世界人口の2割を占めている。

イサクの子孫=イスラエル民族・ユダヤ人は何度も亡国の憂き目にあい、離散の民となった。けれども、神の彼らに対する祝福の約束は、失われていない。パウロがローマ書11章で教えているように、イスラエルには回復の恵みが約束されている。1948年にイスラエル国が建国され、ヘブル語が現代によみがえったことも、神のご計画の一部と考えてよいだろう。


ユダヤ教徒は今日1500万人という統計もあるが、世界全体で見れば、そう多くはない。しかし、ユダヤ教を母胎として生まれたキリスト教徒は世界人口の3分の1を占める。全世界のあらゆる民族・国民にキリストの福音は伝えられつつある。神のお約束・ご計画は確実に実行されているのである。

私たちキリスト者は、イスラム教徒やユダヤ教徒と平和に共生することを求めるべきである。ただし、聖書は明らかに、キリスト者・キリスト教会が正統的な祝福の継承者である、と教えている。なぜなら、ナザレのイエスこそ、神が遣わされた御子キリスト(メシア)だからである。

イエスをキリストと信じる信仰こそ、すべての人を救いに導く、唯一の真の信仰である。この確信を失ってはならない。イスラム教徒もユダヤ教徒も日本の異教徒もみな、イエスがキリストであることを知って、信じて、救われるように祈りたい。 

 

  3.キリスト者の自由

 

さて、かつて<肉によって生まれた者>イシュマエルが、<御霊によって生まれた者>イサクをいじめたことがあった(創世記21:9)。そのように<今も>、ユダヤ人が異邦人キリスト者を迫害する。サラがハガルとイシュマエルを追い出したように、あなたがたを惑わすユダヤ主義者を追い出しなさい、とパウロは示唆する。


私たちは、福音の真理を守ることにおいて、厳しくなければならない。真理は私たちに<自由>を与える。福音に混ぜ物をして、余計な条件を付けて、人々を救いから遠ざけてはいけない。

 

真理の絶対的な基準は「聖書のみ」である。私たちを救うのは、キリストにあって与えられた神の「恵みのみ」である。救われるために私たちに必要とされるのは「信仰のみ」である。

マルティン・ルターが、いわゆる95箇条の提題を公表して、宗教改革を始めることになったのは、この福音の真理を守って、人々を救うためであった。私たちも、この<自由>を守って、人々を救いに導こう。