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カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

二王国論は間違いか?

最近盛んになった福音派の社会運動に関して、問題の焦点がどこにあるのか、最近いくらか見えてきたように思う。

ある牧師が、次のごとき思想を説いた。

「神がこの世において霊的な支配と政治的な支配を分けて行っているという、二王国論が宗教改革の頃からありました。しかし、それは霊と肉を分離する間違った考え方です。キリストの王権は、霊的な領域だけでなく、政治においても実現すべきものです」

それは突き詰めていけば、立憲君主制天皇制の否定、共和制=大統領制の肯定、非キリスト教徒による政治の否定となるのではないか。

その牧師は、聖書がハッキリとそのように教えている、と主張した。私の聞き違いではないと思う。
果たして、それは聖書や正統的なキリスト教の教えから出てきた思想だろうか? 私には、そうは思えないのだが。

その思想の根拠は、国家が持つ「獣」的性格らしい(黙示録13章)。戦前戦中の国家神道天皇崇拝を、これに関係付けて理解しているのだろう。それは、どこまで適用可能な聖書解釈だろうか?

聖書は全体を通じて、「王」について肯定的な見方を示している。創造主なる神「主」は秩序を愛し、法を重んじるお方である。「神は無秩序の神ではなく、平和の神である」(第一コリント14:33)

王の即位から年を数える「元号」は古代オリエントにもあり、旧約聖書ではイスラエル王国やユダ王国でも使用されている。

ダニエルはメド・ペルシャの王にこう言った、
「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように」(ダニエル6:21)。
君が代は千代に八千代に」と同じではないか。
ネヘミヤもこう言っている。
「王よ。いつまでも生きられますように」(ネヘミヤ2:3)

新約聖書は次のように教えている。

「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」(ローマ13:1)

「あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果たしなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい」(ローマ13:7)

「すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい」(第一テモテ2:1)

「あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従い」(テトス3:1)

「王を尊びなさい」(第一ペテロ2:17)

私たちキリスト者は、天皇であれ誰であれ、人間を神として礼拝することはできない。けれども、聖書と良心に照らして「罪」とされることでなければ、できる限り私たちは王を敬い、為政者に従い、国民としての務めを誠実に果たすべきだろう。

この問題の根本は、聖書の世界観をどのように理解するか、である。

聖書の霊的世界観は、天と地上(この世)と地下(ハデス、よみ)という三層構造になっている。

神はこの世の歴史・国々の興亡を支配しておられ、国々の支配者も神の御心に従って立てられ、倒される(ダニエル2:21, 5:21, 使徒17:26, ロマ13:1)。

「この世」は御子によって造られた(ヨハネ1:10)。神は独り子を賜ったほどに「この世」を愛してくださった。それは御子によって「この世」が救われるためである(ヨハネ3:16-17)。

御子イエス・キリストは十字架の死によって人類の罪を贖い、ハデスの勢力を征服した(マタイ16:18, エペソ4:8-10, コロサイ3:12-13, Ⅰペテロ3:18-19,22)。

キリストによってもたらされた「神の王国」は、「この世」のすべてを悪魔の支配から取り返して、神のもとに集める霊的な勢力である(ダニエル7:13-14, マタイ12:28-29, エペソ1:10, コロサイ1:13,20, ロマ8:21)

このような聖書・キリスト教の霊的な世界観・歴史観を、我々キリスト者が生きているこの世の政治的・経済的・社会的・宗教的な文脈において、どのように適用していくか。その答えは一様ではなく多様であろう。