カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

二王国論は間違いか?

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Michelangelo "Viimne kohtupäev", Sixtuse kabeli lagi, 1536–1541

日本で盛んになった福音派の社会運動に関して、問題の焦点がどこにあるのか、最近いくらか見えてきたように思う。

ある牧師が、次のごとき思想を説いた。

神がこの世において霊的な支配と政治的な支配を分けて行っているという、二王国論が宗教改革の頃からありました。しかし、それは霊と肉を分離する間違った考え方です。キリストの王権は、霊的な領域だけでなく、政治においても実現すべきものです。

二王国論(二統治説)とは「神が為政者を用いて世俗の領域を治めておられ、同時に教会を用いて霊的な領域を治めておられる」という思想である。マルティン・ルターは『軍人もまた救われるか』 (1526年)で次のように述べている。

神は二種類の統治を人間の間に設けられた。
一つは霊的なものである。
それは剣によらない で、ことばによるのであり、これによって人は信仰をえて義なる者となり、その義とともに、永 遠の生命をえるのである。
このような義を、神は説教者たちに委ねられたみことばによって管理される。
もう一つの統治はこの世的支配であって、人々の中に平和を保つために、剣をもって治めるのである。
これに対して神はこの世的祝福をもって報いたもう。

その牧師が説いた「キリストの王権」はカルヴィニズムの思想だ。日本の、特に東京の「福音派」の人たちは「プロテスタント」の信仰や実践について歴史的に論じるときに、「ルター」をすっ飛ばして「カルヴァン」から始めちゃう。下手をすると、カルヴァンさえすっ飛ばして「カルヴィニズム」からあるいは「敬虔主義」から始めちゃう。

(a)宗教改革第一世代であるルター
(b)宗教改革第二世代であるカルヴァン
(c)テオドール・ド・ベザ以降のカルヴィニズム
この三者の思想の違いを理解することが重要だ。

まず前提として、宗教改革において西欧で生まれた「キリスト者の抵抗権」という思想は、すでにキリスト教化された世界の内部で起きた現象である、という理解が必要だ。これをすっ飛ばして、「キリスト者の抵抗権」に関する諸説を直接、異教国・日本に適用するのは、無理がある。

マルティン・ルターをはじめ宗教改革者たちがプロテストした相手は、俗権(皇帝、王、領主)に対する優位を主張するローマ教皇・ヴァチカンだ。

(1)急進改革派は、「キリストをかしらとするキリストの国」と「悪魔をかしらとするこの世の国」が存在しており、人間はどちらか一つにしか属しえない、と考えた。善悪二元論的な世界観だ。実践においてこれは二つに分かれる。一方でチューリッヒの再洗礼派やメノー派はこの世の権力を蔑視して、政教分離や絶対平和主義を唱えた。もう一方ではトーマス・ミュンツァーのように直接世直しの戦闘に走る過激派がいた。

(2)ルターは、「神の右手の国」(霊的支配)と「神の左手の国」(世俗的支配)は区別されるべきだが、どちらも「神の良い国」であって、キリスト者はこれら二つの国の市民であらねばならない、と教えた。いわゆる二王国論(二統治説)だ。ルターにとってこの世は、神の秩序に属する領域だ。それゆえルターは、キリスト者は自分のためでなく隣人のために、この世の務めは果し、この世の秩序の維持に努めるべきである、と説いたのだ。ルターは、信徒が信仰のゆえに皇帝に対して武力抵抗する権利を認めている。それは皇帝が教皇の兵士に過ぎず、皇帝の戦争が実は教皇の戦争であるからだ。

(3)カルヴァンはルターの思想を継承しつつ、神の言葉が教権と俗権の両方に持つ主権性を主張した。そして暴君に対する合法的抵抗を認めた。

丸山忠孝著「抵抗権ーー宗教改革史上の一考察」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/005-2_in_printable.pdf


最初に紹介した牧師の二王国論を否定するその主張は、突き詰めていけば、立憲君主制天皇制の否定、共和制=大統領制の肯定、非キリスト教徒による政治の否定となるのではないか。ずいぶんラディカルな思想だ。

その牧師は「聖書がハッキリとそのように教えている」と主張した。私の聞き違いではないと思う。
果たして、それは聖書や正統的なキリスト教の教義から出てきた思想だろうか? 私には、そうは思えないのだが。

その思想の根拠は、国家が持つ「獣」的性格らしい(黙示録13章)。戦前戦中の国家神道天皇崇拝を、これに関係付けて理解しているのだろう。それは、どこまで適用可能な聖書解釈だろうか?

わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が10本、頭が7つあり、それらの角には10の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。
わたしの見たこの獣は豹に似ており、その足は熊の足のようで、その口は獅子の口のようであった。
龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた。
その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。
そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い、また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、
「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」。
この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、42か月のあいだ活動する権威が与えられた。
そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。
そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めから記されていない者はみな、この獣を拝むであろう。
耳のある者は、聞くがよい。
とりこになるべき者は、とりこになっていく。
剣で殺す者は、自らも剣で殺されなければならない。
ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。
わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。
それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った。
そして、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。
また、地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。
また、大いなるしるしを行って、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。
さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、剣の傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。
それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。
この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。
ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。
その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。
ヨハネの黙示録13:1-10)

聖書は全体的に王政について肯定的な見方を示している。創造主なる神「主」は秩序を愛し、法を重んじるお方であり、アナーキー(無政府)な状態を最も嫌っておられる。そこでは神の正義が軽んじられて、強者によって弱者が虐げられるからである。

神は無秩序の神ではなく、平和の神である。(第一コリント14:33)

王の即位から年を数える「元号」は古代オリエントにもあり、旧約聖書ではイスラエル王国ユダ王国でも使用されている。

ダニエルはメド・ペルシャの王にこう言った、

「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように」(ダニエル6:21)。

君が代は千代に八千代に」と同じではないか。
ネヘミヤもこう言っている。

王よ。いつまでも生きられますように。(ネヘミヤ2:3)

新約聖書は次のように教えている。

すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。
なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。
(ローマ13:1)

あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果たしなさい。
すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。
(ローマ13:7)

すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。
(第一テモテ2:1)

あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従いなさい。(テトス3:1)

王を尊びなさい。(第一ペテロ2:17)

私たちキリスト者は、天皇であれ誰であれ人間を神として礼拝することはできない。けれども、聖書と良心に照らして「罪」とされることでなければ、できる限り私たちは王を敬い、為政者に従い、国民としての務めを誠実に果たすべきだろう。

この問題の根本は、聖書の世界観をどのように理解するか、である。

聖書の霊的世界観は、天と地上(この世)と地下(ハデス、よみ)という三層構造になっている。

神はこの世の歴史・国々の興亡を支配しておられ、国々の支配者も神の御心に従って立てられ、倒される(ダニエル2:21, 5:21, 使徒17:26, ロマ13:1)。

「この世」は御子によって造られた(ヨハネ1:10)。神は独り子を賜ったほどに「この世」を愛してくださった。それは御子によって「この世」が救われるためである(ヨハネ3:16-17)。

御子イエス・キリストは十字架の死によって人類の罪を贖い、ハデスの勢力を征服した(マタイ16:18, エペソ4:8-10, コロサイ3:12-13, Ⅰペテロ3:18-19,22)。

キリストによってもたらされた「神の王国」は、「この世」のすべてを悪魔の支配から取り返して、神のもとに集める霊的な勢力である(ダニエル7:13-14, マタイ12:28-29, エペソ1:10, コロサイ1:13,20, ロマ8:21)

この世界観を、我々キリスト者が生きているこの世の政治的・経済的・社会的・宗教的な文脈において、どのように適用していくか。その答えは一様ではなく多様であろう。

江口再起著「ドゥフロウのタイポロギーについて一 ルターの「二王国論」再考」
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110000192383.pdf?id=ART0000558304

キリスト教倫理

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現代キリスト教倫理 (ボンヘッファー選集)

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キリスト教と民主主義―現代政治神学入門

キリスト教と民主主義―現代政治神学入門

ジョン・W.デ グルーチー (著), John W.de Gruchy (原著), 松谷 好明 (翻訳), 松谷 邦英 (翻訳)
キリスト教と民主主義―現代政治神学入門』
新教出版社 、2010

この本の〈第2部 歴史的・神学的連関(キリスト教という母体 近代の政体)〉がいいですね。