終活・エンディング・葬儀なう!
2018年1月8日(月・祝) @明石人丸教会
日本イエス・キリスト教団兵庫教区信徒大会で発表。
「生と死の教育」の実践―兵庫・生と死を考える会のカリキュラムを中心に
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心に残るキリスト教のお葬式とは―葬儀の神学序説 (NCC宗教研究所双書)
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わたしがいる。恐れるな。
2018年1月7日 顕現後第1主日礼拝 説教
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【聖書朗読】マタイの福音書14章22〜33節
【説教題】「わたしがいる。恐れるな」金井 望 牧師
【中心聖句】
しっかりしなさい。わたしだ。 恐れることはない。
(マタイ14:27)
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【説教要旨】
1.独り山で
パンの奇蹟を見た群衆は、イエスこそ彼らが期待するメシアであると思い、イエスを王として独立運動が起こることを熱望した(ヨハネ6:15)。そのため主イエスは<弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ>、群衆を解散させた。そして主は天の御父に祈るため、独りで山に登った。日が没しても、イエスはまだ山に独りでおられた。
2.わたしがいる。恐れるな。
弟子たちの舟は陸から数キロ離れた所で、向かい風に悩まされ、漕ぎあぐねていた。イエスはそれをご覧になった。そこでイエスは山を下り、湖の水面を歩いて、弟子たちのところに行かれた。時は夜明け前であった。
<弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた>。
「わたしだ」という言葉はギリシア語で「エゴー・エイミ」と言い、出エジプト3:14に記されている神「主」の自己顕現の言葉であった。「わたしは有って有る者」。
3.主の力強い御手
ペテロは言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」。イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見てこわくなり、沈みかけたので叫んだ、「主よ。助けてください」。 イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」。
ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。舟の中にいた者たちは「確かにあなたは神の子です」と言って、主を礼拝した。
主イエスは実に不信仰な私たちを赦し、忍耐し、救いの御手を伸べてくださる。私たちに全き信頼を与えるために訓練し、励ましてくださる。ただ主イエスを見つめて従っていこう。
五千人の給食
Lambert Lombard Le Miracle des Pains
2018年1月1日 元旦礼拝説教
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【聖書朗読】マルコの福音書6章30~44節
【説教題】「五千人の給食」金井 望 牧師
【中心聖句】
あなたがたが、彼らに食べる物を上げなさい。
イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、 パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。(マルコ6:37,41)
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【説教要旨】
主イエスがガリラヤ地方を中心に宣教活動をしておられた時のことである。あまりにも多くの人々が集まってきたため、イエスと弟子たちは食事をする暇も無いほどに忙しかった。そこでイエスは弟子たちに言われた。
「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」
しばらく休憩を取りたいと思って、主は弟子たちと共に、カペナウムから舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、ベツサイダに行かれた(ルカ9:10)。人里離れた寂しい所に向かったのである。ところが、人々は湖畔を回って追いかけてきた。
この少し前に、バプテスマのヨハネが領主ヘロデによって殺された。そのショックは大きかった。主イエスは<彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた>。
http://biblehub.com/interlinear/mark/6-34.htm
また、主は病人たちをいやされた(マタイ14:14)。
そうこうする内に時間は経過し、夕暮れになってしまった。弟子たちは「みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください」と主に進言した。
すると主は「あなたがたが、彼らに食べる物を上げなさい」と言われた。この地域の出身であるピリポが即座に計算して、「200デナリ分のパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りません」と答えた(ヨハネ6:7)。1デナリは当時の労働者の日当である。そこには男が5000人、女・子供を加えれば1万にもなろうかという大群衆がいた。主はあえて弟子たちの信仰を試されたのである。
アンデレはひとりの少年を連れてきた。
「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう」(ヨハネ6:9)。
大麦のパンは貧しい人が食べる安価なものであった。この魚は、食事の前菜に出される程度の小さなものである。それでもこれは、母親が少年のために用意してくれた大事な弁当である。少年はこの弁当を主におささげした。すると主は、これを用いて大きなみ業をなされた。
主イエスは、人々を100人または50人の組に分けて、青草の野に座らせた。<イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るようにと弟子たちにそれを与えた>。
http://biblehub.com/interlinear/mark/6-41.htm
これは主の晩餐=聖餐式の所作である。配餐のために弟子たちが用いられたことに、注意したい。<人々はみな、食べて満腹した>。残ったパン切れは12のかごにいっぱいになった。
この奇跡は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒野で天からのパンをいただいた故事を、想起させた。
必要なものが不足する時に、私たちは、どのような態度を取るだろうか。どこまで主に信頼しているだろうか。
小さなものでも、真心をこめてささげるならば、主はそれを大きな祝福に変えてくださる。私たちは小さな存在、小さな群れであるかもしれない。けれども、自分自身を主にささげて、神の祝福を多くの人々に分け与えるために、用いていただこう。