1.「規範する規範」と「規範された規範」
「聖書のみ」。これは宗教改革の基本原理の一つである。ルターやメランヒトンは神の言葉である聖書の権威によって、ローマ教皇の権威に対抗し、ローマ教会の教えと実践の誤りを批判した。人の言葉に絶対的な権威を認めて、それを聖書と同等、あるいはその上位に位置づけたことが、ローマ教会の問題の根本であった。
ただし、ルターやメランヒトン、カルヴァンなど、宗教改革者たちも、信条や信仰告白文、教理問答等の文書を書いて、人々を教育・指導している。それはローマ教会とどのように違っていたのか。ルター派の人々は、聖書と信条の関係をどのように考えていたのか。
これを端的に示す説明がある。
聖書は 信条という規範を 規範する規範(norma normans)であり、
信条は 聖書によって 規範された規範(norma normata)である。
2.聖書の規範性と信条の規範性
『和協信条』(1580年)は、聖書の規範性と信条の規範性について、具体的に教えている。和協信条はこれを明示した最初の信条である。
■和協信条・梗概・規範
われわれは、次のように信じ、教え、告白する。すべての教えと教師とが、等しく評価され、判断されるべき唯一の規範と標準とは、旧約聖書と新約聖書の預言的また使徒的な書のみであると。(p. 694)
しかし、古今の教師による他の著作は、それらがどのような名声をもっていようと、決して、聖書と同等に見なされるべきではなく、みな共に聖書に従属させられるべきである。それらは預言者と使徒の教えが、使徒時代の後どのような形で、またどのような場所で保持されてきたかを証示すること以外のものとして、またそれ以上のものとして見なされるべきではない。(pp. 694〜695)
このようにして、旧新約聖書と他のすべての著作との間の区別が保たれ、聖書のみが、唯一の審判者、標準、規範としてとどまりつづけ、それによって、唯一の試金石として、すべての教えが、よいか、悪いか、正しいか、正しくないかどうか、識別され、判定されるべきであり、またされなければならない。(pp. 695〜696)
しかし、他の信条とさきにあげられた著作は、聖書のような審判者ではなく、それぞれの時代に、神の教会において、当時生きていた人々によって問題となった条項について、聖書がどのように理解され,解釈されたか、また聖書に反する教えがどのように斥けられ非難されたかという信仰の証言と解説にすぎない。(p. 696)
■和協信条・根本宣言・規範
教会における基本的な、また確固とした一致のために何よりも必要なことは、ほんとうのキリスト教である諸教会が神のことばから集約して告白する共通の総括的教理が述べられている要約的な、一致した考えと定式とをもつことである。だから、そのような必要のために古代教会もいつも確かな信条を持っていたし、しかもそれを個人的な文書ではなく、教会の名においてひとつの教えと信仰を告白するために定められ、認められ、受け入れられた諸文書に基礎づけたのである。(p. 754)
第一に、旧新約聖書の預言者的また使徒的文書が、イスラエルの純粋なまた明らかな源泉として、またそれのみがそれによってすべての教師たちと教説とが導かれ判定されるべき、唯一のまことの規範であることを告白するのである。(p. 754)
そこでわれわれもまた、この最初の、変更されないアウグスブルク信仰告白を告白する。それが、われわれの神学者たちによって書かれたからというのではなくて、神のことばから受け取られ、またそれに堅くしっかりと基づいているからである。(p. 755)
神のことばのみが、すべての教えの唯一の基準であり、規範である。(p. 757)
しかし、それだからといって、ほかの良い、有用な、また純粋な書物、たとえば、聖書の注解や誤りの反駁文、教理条項の解説などが、斥けられるべきだということではない。それらのものが、もし、いま述べた教えの模範と一致しているならば、有用な解説また説明として保たれ、有益に用いられることができる。(p. 757)
3.閉鎖信条主義、公開信条主義、無信条主義、簡易信条主義
ルターが死んだ1546年2月以降、福音主義教会はフィリップ派(メランヒトン派)と純正ルター派に分かれて、神学論争に明け暮れた。それを解決すべく、アンドレーエやケムニッツなど神学者たちが書き上げて、1580年に公表したのが和協信条である。およそ8000人のルター派の諸侯、都市代表者、神学者がこれに署名して、教会の分裂は回避された。これ以降、ルター派の信条は作られていない。ルター派のように一定数の信条にとどまる立場は閉鎖信条主義と呼ばれる。
これに対して、改革派のように、教会のそれぞれの時代状況に応じて信条を作成し得る立場は、公開信条主義と呼ばれる。そして、アナバプテストのように、人間が作った文書の規範性を否定する、無信条主義の教会もある。敬虔主義、自由教会、バプテスト、リバイバリズムの影響によって生まれた現代の自称「福音派」等には、独自の簡単な信仰告白文を持つ、簡易信条主義の教団や教会が多い。
私たち正統的なキリスト教の信者は皆、聖書が神から与えられた絶対的な真理であると、信じている。けれども、聖書を読んで、その意味を解釈する私たち自身は、絶対に正しい解釈者では有り得ない。私たち人間は、全知全能では有り得ず、限られた能力で限られた情報をもって物事を判断しており、誤解しやすい者である。
人間には、事実や真実を正確に認識することが、大変困難である。具体的には、真理を探究するにあたっては、収集した資料から抽出した、相矛盾する雑多な情報(データ)を整理して、分析し、判断する。これは帰納法と呼ばれる基本的な方法である。帰納法によって事実や真実と思われたことを体系化することによって、真理が認識される。ただし、その作業においても、やはり当人の世界観や歴史観がフィルターとして作用することが避けられない。それが無ければ、判断はできない。これは演繹法である。
その自分の世界観や歴史観といったものも、一つの仮説に過ぎない。それは、帰納法と演繹法の作業を繰り返し続けていく中で、修正されるのがノーマルであり、良いことである。
そもそも事物・事象を正確に認識するためには、一つの視点だけでなく、多角的な視点を必要とする。複数の異なった立場・見解を持つ者たちが、このような帰納法と演繹法の作業を繰り返しながら、議論することによって、真理に近づくことができる。これが「複眼的思考」である。
プロテスタントにおいても、正統とされる基準、すなわち古代信条と宗教改革の基本的な主張において一致していれば、それ以外のことについては多様な聖書解釈や教義が、ある程度まで許されている。そうでなければ、真理に近づくことはできない。それゆえプロテスタントには、ある程度、多様な信条が認められるのである。
<参考書>
カール.F.ヴィスロフ『マルティン・ルターの神学』いのちのことば社、1984年、p.72〜89
カール.F.ヴィスロフ『キリスト教入門』いのちのことば社、2002年(増補改訂版)、pp. 36〜42
- 作者: カール・F.ヴィスロフ,橋本昭夫,Carl Fr. Wisloff,鍋谷堯爾
- 出版社/メーカー: いのちのことば社
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C.F.ヴィスロフ『ルターとカルヴァン』いのちのことば社、1976年、pp. 64〜74
H.ジェーコブズ『キリスト教教義学』聖文舎、1982年(2版)、pp. 13〜15
信条集専門委員会「和協信条」『一致信条書』聖文舎、1982年、pp. 694〜696(梗概・規範)、pp. 754〜759(根本宣言)
W.D.オルベック著、 石居 正己訳『福音的信仰の遺産(ルーテル教会の信条書研究)』聖文舎、1969年
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