今、急速に進行する少子高齢化=人口減少によって、日本社会の様々な領域で危機的な変化が起こっている。男性・女性ともに平均寿命が80歳を超えて、今や日本は世界に冠たる長寿国である。そして、一年間の死亡者数が130万人以上という「多死時代」を迎えている。一年間の出生者数は100万人を割り込んでおり、人口減少は止められない。
「多死時代ならば、僧侶は忙しいはず」と思われようが、直近のわずか数年の間に、驚くほど日本人の「寺離れ」が進んでいる。今や関東圏では、伝統的な葬儀は3分の1しかない。家族葬が3分の1、残る3分の1は直葬やごく簡単な一日葬である。東京都内には、数千基が納骨できる「無宗教式永代供養」の巨大な「納骨堂」が10棟以上もあり、これがどんどん増えている。
一方、地方圏では地域住民の高齢化と若年層の大都市圏への流出によって、伝統的な血縁共同体である「イエ」と地縁共同体である「ムラ」社会が次々と瓦解している。イエとムラに支えられてきた寺院と神社は、住職も神主も不在となり、実質的に消滅している。
今や「寺院消滅」「無葬社会」(鵜飼秀徳)の時代である。これは、日本のキリスト教にとって、どのような意味を持つのか。我々キリスト者・牧師・教会は、具体的にどのようにこの状況に対処すべきだろうか。
データブック日本宣教のこれからが見えてくる キリスト教の30年後を読む (いのちのことば社)
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日本におけるキリスト教の宣教には数多の障壁がある。その中でも歴史的に最大の障壁となってきたのは、いわゆる檀家制度(寺請制度)である。江戸幕府は、日本中のすべての家に仏教寺院の檀家となるように強制した。これはキリシタン禁制政策として創られた制度であった。檀那寺(菩提寺)は宗旨人別帳を作り、寺請証文(寺請状、寺証文、宗旨手形)を発行して、その家が檀家であること、すなわちキリシタンではないことを証明した。仏壇の無い家は「邪宗門」として告発する定めがあった。
また、幕藩体制の下で、民衆は近隣ごとに五戸前後を一組として「五人組」を組織させられた。その目的の一つは、民衆がキリシタンにならぬよう相互に監視させることであった。組からキリシタンが独りでも出たら、組全員が連座制で処刑される。これによって、日本人は相互に監視し合い、いつも他人の目を意識する縮み志向が身に付いてしまった。明治維新・廃藩置県によって五人組は法的に消滅したが、「隣組」にその組織は受け継がれた。それが、地縁による住民自治組織である「町内会」「自治会」の基礎となった。
伝統的な血縁共同体と地縁共同体が瓦解し、檀家制度が崩壊しつつあることは、キリスト教宣教にとっては「障壁」が崩れるのであるから、好機であろう。しかし、宗教学者の島田裕巳は、――現代の日本に起こっているのは世俗化であり「宗教消滅」である――と論じている。教会が寺院や神社、町内会自治会等の担ってきた役割を正しく評価し、それを代替あるいは補完できるのでなければ、教会もまた消滅していく危険性が高いのである。
最近、巷では終活、エンディングノートが大変なブームとなっている。葬儀への関心も非常に高まっている。昨年秋に、私が部長を務めていた日本イエス・キリスト教団兵庫教区婦人部でも、終活セミナーを開催した。209名の参加者があり、大変好評であった。この問題の本質は死生学であり、キリスト教こそ「解決」を持っている、と我々は信じている。終活、エンディングノート、ターミナルケア、葬儀に関して今、キリスト者・牧師・教会が取り組むべきことは何だろうか。それにどのような宣教的ポテンシャルがあるのだろうか。
筆者の父親の実家は新潟・直江津で代々、浄土真宗大谷派の寺院の熱心な信徒であった。その家宅は、親鸞が船で上陸した浜の近くにあった。父と伯母と祖母がクリスチャンとなり、一度は金井の本家は檀家を止めた。その頃に、家督を継いだ伯父が、寺から返された金井家の「過去帳」を筆者に見せてくれた。その伯父は若い頃には熱心なキリスト教の求道者だったが、結局、キリスト者とならず、葬式をその菩提寺で行ってもらい、金井家の過去帳は寺院に返却することとなった。日本で伝道・牧会をしていると、このような問題にしばしば直面する。
筆者は横浜市の行政職員として勤務していた時期に、自治会町内会連合会の事務局と商店街連合会の事務局を務めたことがある。その関係で、地域社会の実態を実務的に経験することとなった。自治会町内会や商店街は、イエ社会・ムラ社会を代表する組織であり、神社や寺院との関係が深い。おかげで筆者は、いろいろな宗派の葬儀を経験させてもらった。人が人にふさわしい生活・人生を送るために、イエやムラが果たしてきた役割は絶大なものであり、寺院や神社が持っているソーシャル・キャピタルとしての有用性もまた絶大なものである。それが失われていくことを惜しむ思いが、筆者にはある。それはこの国の基盤が揺らぐことでもある。
役所を退職してから筆者は、日本伝道隊の運営する関西聖書神学校で学び、卒業後、日本イエス・キリスト教団の三つの教会で14年余り伝道牧会に従事してきた。筆者の任地は北海道・関東・関西と移ってきたが、どの地においても寺院や神社等の伝統宗教の存在は、伝道の大きな障壁となった。しかし、地方消滅・寺院消滅の時代にあって、「キリスト教にはチャンス到来だ」と火事場泥棒のごとく喜ぶようでは、決してキリスト教は日本人の心をとらえることができまい。
筆者は牧会において、様々な人たちの人生のエンディングに立ち会い、葬儀を行ってきた。葬儀で伝道説教はしないが、自然にそれは福音を伝える良い機会となる。エンディング・葬儀は誰もが自らの死を考えさせられる厳粛な場であり、魂が目覚める。終活・葬儀が持つ宣教的ポテンシャルの大きさについて考えていきたく思っている。
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