今日、世界人口の3分の1がキリスト教徒である。韓国では人口の3割がキリスト教徒であり、共産党の支配下にある中国でも1割を超えているようである。ところが日本では、キリスト教徒は総人口の1パーセントしかいない。なぜ日本人はキリスト教徒にならないのか、なりにくいのか。これには、数多の事情が関係しており、その理由は単純ではない。私見によれば、日本伝道には少なくとも次のような障壁があると考えられる。
A 社会的障壁 「私はキリスト教と何の関わりもありません」=異教社会、世俗化
B 文化的障壁 「私はキリスト教が苦手です」=西洋的なキリスト教文化への違和感
C 心理的障壁 「私はキリスト教が嫌いです」=キリスト者や教会、ミッションスクール等への躓き
D 知的障壁 「私はキリスト教が信じられません」=唯物論、進化論、無神論
E 宗教的障壁 「私はキリスト教徒にはなれません」=他宗教、檀家制度
F 霊的障壁 「私はキリストに従う生活なんて御免です」=霊的無感覚、罪への愛着
16世紀にキリスト教が入ってくるまで、日本人の主要な宗教として神道と仏教が併存していた。近世・近代において日本人にとりわけ大きな影響を与えたのは、江戸幕府によって創られた寺請制度(檀家制度)と、明治政府によって創られた国家神道であった。すなわち、――血縁共同体である家(イエ)の宗教は仏教であり、地縁共同体である地域(ムラ)地方(クニ)の宗教は神社神道であり、国家の宗教は国家神道=天皇教である――というピラミッド型の重層的な宗教社会が、公権力によって固定化されたのである。

日本のマインドコントロールを打ち破る宣教 日本民族を覆う「顔おおい」と、「のろいのひも」によるマインドコントロールから解放する宣教
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しかし、幕末の開国と明治維新、近代化、太平洋戦争の敗戦、GHQ主導による民主化、高度経済成長、地方圏から大都市圏への人口移動、グローバリゼーションといった社会変動によって、血縁共同体(イエ)と地縁共同体(クニ、ムラ)は解体され、信教の自由が制度としても実態としても広く認められるようになった。近年は寺請制度が崩壊しつつあり、宗教は個人のものとしてかなり自由化されている。
檀家制度が崩壊して、宗教の自由化が進んでいることは、キリスト教の伝道者にとって手放しで喜べることだろうか。戦後70年に及ぶ民主化は、ヒューマニズム、個人主義、プラグマティズム、商業主義、世俗化の傾向を持っており、国民一般にキリスト教も含めた宗教離れをもたらした。これも見落としてはならない潮流である。
それは葬式の変化において顕著に現れている。旦那寺とのつながりが切れた家庭や個人は葬式を、商業化した葬祭サービスに頼ったり、近親者や友人知人による直葬で済ませたりしている。旦那寺とは無関係に、業者が提供するサービスによって、納骨堂に遺骨を納め、法事のために僧侶を派遣してもらうのである。
このトレンドは日本のキリスト教とも無関係ではない。キリスト教葬儀を専門とする業者によって、信徒以外の葬儀への牧師派遣が始まっており、拡大しつつある。それは日本伝道の一つの突破口として期待できる。
葬式仏教として商業化し世俗化した仏教に対する人々の不信感と失望は大きい。高額な戒名料にいかなる根拠があるのか? 商業化した葬式仏教が本来の仏教とかけ離れたものであることは、今や広く知られている。
では、日本のキリスト教は仏教に代替しうる公共性を備えているだろうか。また、仏教以上の宗教性をもって日本人の心を満たせるであろうか。
驚くべきことに、この異教国日本でキリスト教式(キリスト教風?)結婚式は、全体の半数以上を占める。それをこなせるほど大勢の牧師や神父がいるわけではない。無資格・偽物の結婚式専用「牧師」が大勢いるのだ。
現状では、キリスト教式の葬式が全体に占めるシェアは、結婚式とは比較にならないほど小さい。しかし、これから結婚式並みにキリスト教式の葬式が流行るのかもしれない。ただし、日本のキリスト教も世俗化してしまうようなら、伝道になるどころか、かえってつまずきの石となる危険性も、無いとは言えないだろう。人の死を弔う葬式は厳粛な場である。
信者でない故人のためにキリスト教葬儀を行うことに、抵抗を感じる牧師や信徒もいるだろう。筆者は神学的・信仰的にこれは可能であると考えている。少なくとも、一般恩恵を根拠とすることができる。破損しているとはいえ、人は皆「神の像」に造られた尊い存在であり、ノンクリスチャンでも、ひとりひとりが神の御手によって母の胎内で造られた尊い存在なのである(詩篇139篇)。
それゆえ、教会外部の葬式への牧師派遣に、筆者も賛成である。葬式仏教と揶揄されてはいるものの、仏教寺院が歴史を通じて日本社会で果たしてきた社会資本(ソーシャル・キャピタル)としての役割は、絶大なものである。キリスト教会が本気で日本宣教の結実を望むのなら、教会の公共性を高めて、社会的に必要不可欠と認められる社会資本(ソーシャル・キャピタル)として成長することが、重要である。 すなわち、日本の人々に「キリスト教に改宗しても大丈夫だ。ゆりかごから墓場まで、いや、天国までケアしてくれる」という安心感を持ってもらうことが第一の課題であり、教会が中核となってムラ社会に代わる新しいコミュニティーを形成していくことが第二の課題である。寺院をセンターとして仏教が提供してきた葬式や墓(納骨堂)、位牌、仏壇、法事、過去帳が持つ社会的な意味は小さくない。教会がこれを理解して、必要に応じ代替物を用意することが必要である。
加えてもう一つの重要な課題は、キリスト教式の葬儀を世俗化させずに、キリスト教の宗教性・霊性を保ちつつ推進することであり、それによって日本人の宗教的・霊的な渇きをいやしていくことである。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
(ヨハネ4:13-14)
このような現実と課題をふまえて今、改めて日本人の死生観を問い直し、これとキリスト教の接点を確認する必要がある。すなわち、「接ぎ木」である(武田清子参照)。これが最近、筆者の追求しているテーマである。
ーー神は、日本人がキリスト教を理解し、受容するための準備を、歴史を通じて日本の宗教社会においても成し遂げておられるーーと筆者は信じている。
パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。
「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、
『我らは神の中に生き、動き、存在する』
『我らもその子孫である』
と、言っているとおりです。
わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」
(使徒17:22-31新共同訳)
なるほど、遠藤周作が『沈黙』で指摘しているように、日本は諸々の宗教を飲み込んで変質させてしまう多神教シンクレティズムの島国である。カクレキリシタンは、もはやキリスト教とは言えないほどに変質してしまった。日本には、キリスト教を部分的に取り込んで成立している宗教が無数にある。
それでもなお、我々日本のキリスト者は、神が日本を真の神の国に変えてくださることを信じて、神の御業に参与すべきであろう。
数多ある日本の伝統宗教の中で、浄土教に筆者は特に注目している。これは明らかにキリスト教の影響を受けた他力本願の宗教である。浄土宗(600万人以上)や浄土真宗(1200万人以上)等の浄土教の信徒数は、日本の宗教界において最大の宗派となっている。それは、浄土教の宗教性が日本に適合しており、日本人の心を満たすものがあったからではないか。ちなみに、筆者の父の実家(新潟県上越市)も代々、浄土真宗の信徒であった。
では、現代のキリスト教は、浄土教に勝り、それに代替し得る宗教性・霊性を、広く日本人に示しているだろうか。その優劣が明確に表れる場が、葬式である。今、改めてキリスト教の死生観が問われている。

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具体的には、信者以外の葬式において牧師はどのような説教をすることが可能か。また、どのような説教をすべきか。これが差し迫った課題である。

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キリスト教の死生観に関して筆者が特に注目しているのは、古代の教父やマルティン・ルター等に見られる「勝利者キリスト」の神学である。グスタフ・アウレンの問題提起が有名である。キリストの黄泉(よみ)への降下と悪魔悪霊の征服、復活・高挙による勝利の凱旋は、明らかに新約聖書が教えていることである。しかし、カルヴァン以降のプロテスタントでは刑罰代償説を重視するあまり、「勝利者キリスト」論を軽視してきたきらいがある。

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――浄土教の阿弥陀仏は勝利者キリストの影であり、イエス・キリストの福音こそ、浄土教に代表される日本人の宗教的・霊的欲求を満たすことができる――。遠大な課題だが、筆者はこれを論証したく思っている。

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