2017年12月24日 待降節第4主日 礼拝
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【聖書朗読】マタイの福音書2章13〜23節
http://www.bbbible.com/bbb/bbbmt02a.html
【説教題】「闇に輝く光」金井 望 牧師
【中心聖句】この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:4-5)
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【説教要旨】
1.闇が支配する世
クリスマスは、一年で最も昼が短く、夜の長い時季にある。イエス・キリストが降誕された時に起こった出来事は、まさにこの世の闇を象徴している。イドマヤ人であるヘロデ大王は、正統的な「ユダヤ人の王」を抹殺するために、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男児をすべて殺したのである。
事前に天使がヨセフに夢で警告したため、幼子イエスは両親に連れられてエジプトへ立ち去り、難を逃れた。しかし、愛する息子を失った母親の号泣と嘆きは、止めどなく響く。それは、アッシリア捕囚(前722年)やバビロン捕囚(前586年)の時の悲嘆を、想起させた。
「ラマで声がする。
泣き、そして嘆き叫ぶ声。
ラケルがその子らのために泣いている。
ラケルは慰められることを拒んだ。
子らがもういないからだ」(18節)
「ラマ」は捕囚民が集合した地であり、イスラエルの始祖ヤコブの妻「ラケル」の墓は、その近くにあった(エレミヤ31:15)。
現代でも世界の各地で、テロリズムによって罪の無い人々が殺されている。北朝鮮の支配者は家族でも忠実な部下でも、謀反の疑いをかけて、裁判も無いまま即日で殺している。日本から北朝鮮に拉致された人たちの多くが、未だ帰されずにいる。実に深い闇が、この世を支配している。
2.闇を打ち破る主
しかし、この悲惨な事件においても、神のご計画は預言されていたとおりに成就した。
これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われた事が成就するためであった。(15節、ホセア11:1)
そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。(17節)
前15世紀(または前13世紀)にイスラエル民族はエジプトで奴隷とされていたが、主によってそこから救い出された(出エジプト)。その後、イスラエル民族が打ち立てた王国は滅ぼされたが、前6世紀から前5世紀にかけて、バビロンの捕囚民が解放されて、帰国し、自分たちの共同体・国家・神殿を再建した。
イスラエル民族・ユダヤ人が忘れることのできない、この特別な経験を、イエスはその幼き身をもって、リアルに知らされた。イエスこそは真のイスラエルの代表者であり、私たちキリスト者=教会は第二のイスラエルである(ガラテヤ6:16)。
現世においても、神は悪の増長を許してはおられず、正しい裁きを実行してくださる。
3.闇に輝く光
ヘロデ大王は前4年に死んだ。
「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました」(20節)
ヨセフは夢で天使からこの知らせを受けたので、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に戻った。
ヘロデ大王の領地は3人の息子たちに分割された。ユダヤをとサマリアの領主となったアケラオは、父親以上に残忍な男であった。彼は即位して間もなく、神殿の境内で3000人以上のユダヤ人を虐殺した。
ヨセフは、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。(22節)
そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる」と言われた事が成就するためであった。(23節)
イエスはガリラヤのナザレ村で育ち、大工となってそこで暮らしておられた。その後、30歳頃からイエスは宣教活動を開始されたが、ユダヤ人から「ナザレ人」と蔑まれ、ついに十字架で殺された。それは、イエスが彼らの期待した軍事的政治的な「王」ではなかったからである。
ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネ1:46)
そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした」。(中略)しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。(マタイ26:71,73)
この男は、まるでペストのような存在で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。(使徒24:5)
イエス・キリストは復活して、天に昇り、大祭司として今も私たちのために父なる神にとりなしてくださっている。このイエス・キリストこそ、私たちの悩み、悲しみ、苦しみを理解して、助けてくださる真の救い主である。
そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(へブル2:17-18)
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:15-16)