杉田発言の波紋
LGBTに関する杉田水脈(すぎたみお)議員の発言が今、波紋を呼んでいます。ここ数日、左派やリベラル派の政治家・マスコミ・市民運動家などが一斉に、杉田議員に対する批判を繰り広げています。
同性愛者(どうせいあいしゃ)とは - コトバンク
www.asahi.com
社説:杉田水脈議員の差別思考 国民の代表とは呼べない - 毎日新聞
彼女が、国民の選んだ日本の現職の衆議院議員です。 #杉田水脈 #LGBT pic.twitter.com/JerWbVzVDF
— Japan's Secret Shame (@JPNSecretShame) July 19, 2018
ツイッターやテレビ、デモなどでは杉田議員の発言について、〈LGBTは生産性がない〉というほんの一部分を切り取った文言を使って、拡大解釈あるいは誤解による非難がなされています。政治家たちもそれを真に受けて、杉田議員に対して的外れな批判をしています。
問題とされている杉田議員の寄稿文を、これらの人々は読んだのでしょうか。ほんの一部分を切り取ったツイッターの記事などに反応した人々が、少なくないのではないでしょうか。以下、その寄稿文の全文を引用します。
杉田水脈 「LGBT」支援の度が過ぎる
(『新潮45』2018年8月号)
この1年間で「LGBT」(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)がどれだけ報道されてきたのか。新聞検索で調べてみますと、朝日新聞が260件、読売新聞が159件、毎日新聞が300件、産経新聞が73件ありました(7月8日現在)。キーワード検索ですから、その全てがLGBTの詳しい報道ではないにしても、おおよその傾向が分かるのではないでしょうか。
朝日新聞や毎日新聞といったリベラルなメディアは「LGBT」の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをえません。発行部数から言ったら、朝日新聞の影響の大きさは否めないでしょう。
最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。
しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
そもそも日本には、同性愛の人たちに対して「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。
どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。
LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。
リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。
例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。
LGBとTを一緒にするな
ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすることが自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させていくのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。
一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
朝日新聞の記事で「高校生、1割が性的少数者」という記事がありました(3月17日付、大阪朝刊)。三重県の男女共同参画センターが高校生1万人を調査したところ、LGBTは281人で、自分は男女いずれでもないと感じているXジェンダーが508人。Q(クエスチョニング=性的指向の定まっていない人)が214人いて、合わせて1003人の性的少数者がいたというものです。それこそ世の中やメディアがLGBTと騒ぐから、「男か女かわかりません」という高校生が出てくる。調査の対象は思春期の不安定な時期ですから、社会の枠組みへの抵抗もあるでしょう。
最近の報道でよく目にするのは、学校の制服問題です。例えば、「多様性、選べる制服」(3月25日づけ、大阪朝刊)。多様な性に対応するために、LGBT向けに自由に制服が選択できるというものです。女子向けのスラックスを採用している学校もあるようです。こうした試みも「自分が認識した性に合った制服を着るのはいいこと」として報道されています。では、トイレはどうなるのでしょうか。自分が認識した性に合ったトイレを使用することがいいことになるのでしょうか。
実際にオバマ政権下では2016年に、「公立学校においてトランスジェンダーの子供や児童が“心の性”に応じてトイレや更衣室を使えるようにする」という通達を出しました。先ほども触れたように、トランスジェンダーは障害ですが、保守的なアメリカでは大混乱になりました。
トランプ政権になって、この通達は撤回されています。しかし、保守派とリベラル派の間で激しい論争が続いているようです。Tに適用されたら、LやGにも適用される可能性だってあります。自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら、世の中は大混乱です。
最近はLGBTに加えて、Qとか、I(インターセクシャル=性の未分化の人や両性具有の人)とか、P(パンセクシャル=全性愛者、性別の認識なしに人を愛する人)とか、もうわけが分かりません。なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。
オーストラリアやニュージーランド、ドイツ、デンマークなどでは、パスポートの性別欄を男性でも女性でもない「X」とすることができます。LGBT先進国のタイでは18種類の性別があると言いますし、SNSのフェイスブック・アメリカ版では58種類の性別が用意されています。もう冗談のようなことが本当に起きているのです。
多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちが出てきています。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが効かなくなります。
「LGBT」を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねません。朝日新聞が「LGBT」を報道する意味があるのでしょうか。むしろ冷静に批判してしかるべきではないかと思います。
「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。
引用元 Skeltia_vergber on the Web : 杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』を全文書き起こす(転載歓迎)
この杉田氏のLGBTに関する発言は、その文脈から発言の主旨を正確に読み取る必要があります。公共の福祉に反しない限り、言論の自由は認められるべきです。
この杉田氏の寄稿文における「生産性」は明らかに「出産・育児」を指しています。この用法は経済学、社会学、人口学、公文書等において全く正しいものです。ただし、LGBT のカップルは生産性がない、というのは不正確で言い過ぎだと思います。
政治の主たる役割は、無限にある国家国民の課題を整理して、優先順位を決定し、その政策化・法制化を図ることにあります。杉田議員の発言の主旨を、LGBTについての価値判断ではなくて、LGBTのカップルへの財政的支援の是非に関する政治的判断として見るならば、ある程度の妥当性が認められるのではないでしょうか。問題があるとすれば、この発言が公共の福祉に反する=人権を侵害して実害を生んだ場合です。
少子化は日本国の存立さえ危うくする最重要問題の一つです。財政難が深刻化する中で、限られた国家予算をより効果的な対象に絞って投入するのは、当然のことです。国会にはその責任があります。
杉田議員はそのような政策について述べているのであって、LGBTの方々を差別するつもりは無いでしょう。寄稿文の端々に問題が無いとは言いませんけれど。
この寄稿文には〈 T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させていくのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません〉という発言もあります。杉田議員は、性的マイノリティーの方々に対しても、必要なところには法的・財政的な支援をすべきだと考えているようです。
むしろ断片的な揚げ足取りや言葉狩り、デモによる圧力こそ、民主主義を危うくするものではないでしょうか。ましてや国会議員に対する脅迫は重大な犯罪です。
わが国においては、LGBTに関する議論が国民的に広く熟しているとは思われません。ですから、杉田氏の発言に賛成にせよ反対にせよ、このような発言をも一つの機会ととらえて、共に考え議論ができたことは良かったと、前向きに受けとめたらいかがでしょうか。言葉狩りは、自分たち自身の口を封じることにもなりかねません。
このYouTube動画が伝えているように、LGBT当事者には杉田議員の発言を肯定的に受け入れている人が少なくないようです。だとしたら、マスコミや左派・リベラル派の政治家は、自民党を貶めるために政争の具としてこの件を利用しているだけではないでしょうか。マスコミや左派・リベラル派の政治家がこの件に関して行っている批判には、本当に性的マイノリティーの人たちを支援しようとする目的・目標があるのでしょうか?
「生産性」という誤解を招くような表現をしたのはまずかったけれど、杉田議員の寄稿文は真っ当な政策的判断を示したものだと思います。
「生産性」とは
経済学や社会学では、生産領域に労働力を供給する領域のことを「再生産領域」と呼んでおり、家庭はその最も重要な部分とされます。その「再生産」の中には、次世代の労働力となる子供の「生産」も含まれています。
多言語の人口統計学辞書 日本語 ed. 1994 62
http://ja-ii.demopaedia.org/wiki/62
政府が出している公文書でも、「再生産」という用語は「出産」の意味で使われています。杉田議員のこの発言を諌めているお偉い方々は、ご存知ないのでしょうか。
全国人口の再生産に関する主要指標:2016年
http://www.ipss.go.jp/publication/e/jinkomon/pdf/17730407.pdf
超少子化と家族・社会の変容 ー ヨーロッパの経験と日本の政策課題 ー
http://www.ipss.go.jp/seminar/j/seminar12/第12回厚生政策セミナー報告書.pdf
このような「生産性」の概念を最初に説いたのはマルクス主義であり、それを社会学的に適用して広めたのはフェミニズムです。史的唯物論を基礎とするマルクス経済学では、次世代の労働力を生み出す出産・育児も、再生産領域における重要な「生産」活動とされます。それなのに、なぜ左派の人たちが杉田議員の「生産性」発言を批判するのでしょうか。今や左派の政治家でも、マル経を学んだことがない人が多いのでしょうか。
近代産業社会における生産至上主義は、資本主義でもマルクス主義でも支配的な思想となっていました。これを超克することがポストモダン=現代に生きる我々の課題です。
豊田素行著『スローワーク論(ノート)』84 「労働力の再生産」という逆立ち マルクス(19)
伊田久美子著「再生産労働概念の再検討 (構造調整プログラムを中心に)」
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10466/13713/1/2013000129.pdf
佐久間 智 子著「再生産の領域を経済の中心に据える」
http://www.meijigakuin.ac.jp/~prime/pdf/prime30/10-sakuma.pdf
稲垣久和「「脱生産主義」の時代へ」
日本の政界もマスコミも市民運動家も、もう少し大人の態度を取れないものでしょうか。国際社会が激しく揺れ動いていて、地球の気象もおかしくなっているこのご時世に、モリカケに執心して国会の貴重な時間を浪費し、今度は杉田発言の揚げ足取りで騒ぎ立てる。もっと他に対処すべき重要な課題がいくつもあるでしょうに。政界もマスコミも市民運動家も、事の軽重・優先順位を考えて、もっと生産性の高い議論を展開してもらいたく願います。
教会・キリスト者として
LGBTに関する政治的な判断はさておき、我々現代の日本の教会・キリスト者は、この問題をどのように考えて、どのように対応したらよいのでしょうか? LGBTに関する価値観や倫理の問題は、我々キリスト者・宗教者の取り組むべき課題であると思います。
かつて筆者が牧会していた教会の信徒に、女性の同性愛者がおられました。それを知らずに筆者や妻、信徒の方々が、その女性に結婚を勧めたりして、嫌な思いをさせてしまったことがありました。その女性は、他の教派の教会に転会されました。これはセンシティブで、牧師にとっても難しい課題です。
聖書は明らかに同性間の性行為を禁じています。
ところが彼らが寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若者も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人たちはどこにいるのか。その人たちをここに出しなさい。我々は彼らを知りたいのだ」。ロトは戸口にいる彼らの所に出て行き、うしろの戸を閉じて、言った、「兄弟たちよ、どうか悪いことをしないでください」。(創世記19:4-7)
あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。(レビ18:22)
女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。(レビ20:13)
それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを身に受けたのである。(ローマ1:26-27)
まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国を嗣ぐことはないのである。(第一コリント6:9-10)
また、聖書は男性と女性の区別を重視しています。
女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのようなことをする者を忌みきらわれるからである。(申命記22:5)
男に長い髪があれば彼の恥になり、女に長い髪があれば彼女の光栄になる。長い髪は覆いの代わりに女に与えられているものだからである。(第一コリント11:14-15)
では、性同一性障害の場合は、どのように考えるべきでしょうか。
水谷潔師のウェブサイトから引用させていただきます。
(1)性別とは
一般に性という概念は実はかなりあいまいなものです。(中略)
1、生物学的性(セックス)~遺伝レベル、性染色体が決定
2、生物学的性(セックス)~性線、外性器
3、人格的、心理的、社会的性(ジェンダー)
すべての人にとって三つの性が同一とは限りません。
胎内で脳も生殖器官も1とは別の性に形成される場合があります。その場合は1と2は異なります。たとえば、染色体情報は男性でも女性器を持つ方、あるいは両性の外性器を持つ方が現実にいます。そのように外性器から性別を判断できない方々は「インター・セックス・チルドレン(半陰陽)」と呼ばれます。また、3は先天的にも、後天的にも1と別の性に向うことがあると考えられます。3は「心の性」と表現してもよいかも知れません。心の性が必ずしも肉体の性と一致するとは限らないのです。
自らの生物学的性、あるいは戸籍上の性に違和感を持ち、それとは異なる性を生きる事を希望する方がおられます。そのようなケースは「性同一性障害」と呼ばれ、日本にも一定数の性同一性障害者がいると推定されています。
GID|NPO法人性同一性障害支援機構 | 性同一性障害(GID)
どうか手術を受けないでください。男は女になれません! | 性別適合手術を受けないでください。後悔します。僕は男に戻りました。
性行為を伴わない同性愛者の共同生活はどうでしょうか。
ヘンリ・ナウエンは同性愛者でありつつ、それを秘めて孤独感に悩みましたが、その中で深い霊性が彼の内に形成されました。
「傷ついた預言者 ヘンリ・ナウエンの肖像」を読み終えて - 久保木牧師のきらきら探訪〜ゆるりと生きる〜 - Yahoo!ブログ
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性的なタブーを冒した者に対して、主イエスはどのような態度をとられたでしょうか。
ヨハネ福音書4章に登場する「サマリアの女」は、5回離婚していて、主イエスに出会った時は婚姻関係に無い男性と同棲していました。主は彼女の問題を指摘されましたが、その罪を責めてはおられません(ヨハネ4:16-17)。聖書における「罪」とは基本的に、神の律法に違反するという意味です。罪の自覚と懺悔は必要なことですが、このケースではすでに本人の罪は明白であり、主がそれ以上、彼女を責める必要が無かったのでしょう。むしろ彼女が、今対話をしているお方が「メシア」(キリスト)であることを悟ることの方が、重要でした。イエスは「エゴー・エイミ」( I am that I am の意)という神ヤーウェ以外は使えない神聖な言葉を用いて、贖い主である御自身を強くお示しになりました。
ヨハネ福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられて、石打ちの刑に処されようとしている女性が登場します。この女性を取り囲む人々に対して主イエスはこう言われました。
「あなたがたの中で罪の無い者から、この女性に石を投げなさい」(7)
するとその場にいた全員が去り、イエスはこう言われました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」(11)
主は罪を許容されませんが、ご自身の贖罪のゆえに、罪人を赦して、受容し、コミュニケーションを持って、彼らの霊と心と体を癒やされました。本質的な問題は、その人と神の関係が壊れていて、その人の霊と心に埋められない空洞があったことです。主イエスはまず人の本質的な霊の問題を解決してから、それを心と体、社会的な関係の癒やしにつなげたと言えるでしょう。
主イエスは、社会的に弱い立場にいる少数者(マイノリティー)に対して、特に大きな憐れみを示されました。主イエスは積極的に、ユダヤ教のシナゴーグから排除されていた「罪人」の「友」となり「仲間」となられました。
イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、
「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイ9:10-13)
見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ。
(ルカ7:34)
そのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。
そこでイエスは彼にむかって言われた、(中略)
「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。
すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。
(ルカ7:37-40,47-50)
よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
(マタイ21:31)
主イエスが、ひとりの男性とひとりの女性が結ばれる結婚を尊ぶように、と教えておられることも、もちろん忘れてはいけません。
創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。
(マタイ19:4-6)
しかし、一つの型にはまった生き方ができる人しか救われない、ということでは決してありません。
同時に主イエスは、独身であることも人のノーマルなあり方の一つである、と教えておられます。
母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい。
(マタイ19:12)
主イエスが血縁や性別を超えた新しい「家族」の共同体を形成しておられたことにも、注目したく思います。
主イエスが宣教をしておられた時に、イエスの母と兄弟たちが訪ねてきました。すると、主はこう仰せになりました。
「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」。
「見なさい、これがわたしの母、わたしの兄弟だ。神の御旨を行う者はだれでも、わたしの兄弟、わたしの姉妹、わたしの母なのだ」
(マルコ3:33-35抜粋)
「無縁社会」と呼ばれる「孤人主義」の時代にあって、教会は、またキリスト者の交わりは 代替家族としての役割を期待されているのではないでしょうか。
あなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
(エペソ2:19)
律法と福音の原理によって
こういった問題を扱う場合に根本的に重要なことは、どのような世界観・人間観・人生観・倫理に立つかでしょう。
プロテスタント=福音主義の信仰に立つなら、律法主義でもリベラリズムでもヒューマニズムでもなく、「律法と福音」の原理によってこの問題を考え、対処すべきでしょう。いわゆる律法の三用法です。
和協信条・梗概・第6条 律法の第三用法について
論争の問題点・この論争の主要問題
律法は、次の三とおりの理由で、人間に与えられている。
第一に、律法によって、粗暴な者、不従順な者に対して外的な規律が保たれること、
第二に、律法によって、人が罪の認識に導かれること、
第三に、生まれかわった後、なお肉が固着しているので、規範を持ち、人がそれに従って全生活を行い、整えること。
これを金井流に適用しますと、
【1】人は皆、神によって神に似せて造られた特別な良い存在です。我々はまず、これを理解する必要があります。それゆえに我々は、神が我々に与えた律法に従う義務があります。
律法は、我々が人間にふさわしく生きるために、神が与えてくださった規範です。神を信じない人も含めて、すべての人は心に神の律法を持っています(ローマ2:14-15)。
しかし、神から離反して堕落したために、あまねく人は心に刻まれた律法がわからなくなり、悪い思いをいだいて、神の御心に反する行いをするようになりました。
このような人類に対して、神は、人間の本来あるべき姿と人間が行うべき務めを教える文書として、律法=聖書をお与えになりました。
男性と女性の本来あるべき状態について、創世記は次のように教えています。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(1:27)
そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。(2:21-25)
【2】人類の始祖は神の戒めを破り、悪魔の声に従って善悪を知る者となり、神の園エデンから追放されました。そこから人類の堕落が始まりました。男性と女性という人間の根本的な有り様にも、大きな変化が起こりました。ローマ人への手紙には次のように記されています。
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。(1:21-27)
【3】このような堕落は同性愛者や両性愛者だけの問題ではありません。異性愛者も含めてすべての人が、罪の力に支配され、堕落し、滅びるべきものとなっています。夫婦の関係や性行為に関して、誰もが完全ではありえず、破損している部分を認めざるを得ないはずです。
大切なことは、律法の光に照らされて、その自らの現実に気づき、神の前に罪を悔い改めて、イエス・キリストにあって与えられる赦しと再創造=新生の恵みを受け取ることです。これが福音です。
悔い改めと再創造=聖化の恵みは、キリスト者が生涯を通じて常に経験すべきものです。どのような性的指向を持つ人であれ、神の言葉である律法と福音が我々を癒やし、造り変えて、真の人の道に導いてくれます。そこに希望をおいて、我々は共に歩んでいくのです。
平良愛香 - Wikipedia
「キリストの風」集会 公式HP
mentoringservant.hatenablog.com
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LGBTQ を嫌悪する福音派プロテスタント教会の声明に対する LGBTQ クリスチャンの側からの反対声明 | LGBTCJ
tocana.jbunshun.jp
大澤 健「科学の目で見る男性の歴史と未来」
(ブライアン・サイクス著『アダムの呪い』書評)
http://www.eco.wakayama-u.ac.jp/ritornello/article.php?vol=21&num=1