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福音派の礼拝は、なぜ貧しいのか(2)

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        Juan de Juanes(1523-1579) : The Last Supper

 

kanai.hatenablog.jp

 

今回は礼拝の内容について考察してみましょう。

 

  1.神に献げる犠牲か、神から受ける賜物か

 

まず、聖餐論から始めます。主の晩餐=聖餐の礼拝は、初代教会において、ユダヤ教キリスト教を分けた決定的な相違点でした。聖餐論はキリスト教の根幹に関わる重大な問題です。


ローマ・カトリック教会は「聖体の秘蹟」(聖餐)を、「キリストが司祭たちによってご自分をお献げになること」と理解しています(トリエント公会議)。ミサ(聖餐礼拝)は、司祭が、信徒の罪の赦しのために、キリストを犠牲として繰り返し神に献げる行為なのです。

 

マルティン・ルターは、「ミサの行為が死者の魂を煉獄から救う功績になる」という教えに、強く反対しました。「聖餐とは、我々が約束の保証としてキリストの肉と血を神から受けることであり、神の救いの賜物である」。これがルターの主張でした。聖餐の方向性と性格が正反対なのです。それゆえ、ルターは礼拝を「神の奉仕」(Gottesdienst)と呼びました。

 

  2.キリストの実在か霊的な現臨か

 

「聖餐のパンとぶどう酒を、キリストの肉と血そのもの実体)として受ける」という信仰においては、東方正教会ローマ・カトリック教会も同じです。ただし、ローマ・カトリック教会が「パンとぶどう酒の実体が、キリストの肉と血の実体に変化する」という実体変化説化体説)をとるのに対して、東方正教会では「それらは真のパンとぶどう酒であって、なおかつ真の聖体と聖血である」と理解しています。

 

改革派においては、ツヴィングリは聖餐のパンとぶどう酒を「象徴」として、信徒たちの内に宿るキリストの臨在を説きました(象徴説)。ジャン・カルヴァンは、聖餐のパンとぶどう酒にキリストが霊的に現臨する(real presence)、と教えました(霊的現臨説)。

ルターは、聖餐のパンとぶどう酒にキリストが実在すること(true presence)を信じました(共在説)。ルターは「これはわたしの体である」、「これはわたしの血である」というキリストによる聖餐の設定辞を重視して、それをそのまま信じて受け取ることを良しとしました。それがどのようにしてなのか、ローマ・カトリック教会のように説明をしません。それは神秘のままでよいのです。キリストの肉と霊を分離して考えないのがルターの特徴です。

ローマ・カトリック教会が信徒にパンしか与えなかったのに対して、ルターはパンとぶどう酒の両方を信徒が受けられるようにしました(二種陪餐)。 

 

宗教改革において、ルター派と改革派は、この聖餐論において妥協することができず、分かれたままでした(メランヒトンは例外です)。 

 

筆者は、関西聖書神学校では小畑進師から礼拝学を学び、神戸ルーテル神学校では正木牧人師から礼拝学を学びました。小畑師の聖餐論はカルヴァンの霊的現臨説、正木師の聖餐論はルターの共在説でした。

 

キリスト教の救いの最終目標は体の復活であり、その根拠は、キリストの受肉十字架の死と復活にあります。イエス・キリストは肉体をもって復活されました。聖餐はまさに、そのキリストにある救いを具現化したものです。それゆえ霊と肉を分離して考えるのは二元論的であり、不適切ではないでしょうか。

 

新約聖書において、ヨハネの神学は、まさにその点においてグノーシス主義あるいはその原形の思想と対決したものでありましょう。

 

すると、ユダヤ人たちは、
「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」
と言って互いに議論し合った。
エスは彼らに言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、
あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
永遠のいのちを持っています。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、
わたしも彼のうちにとどまります」
ヨハネ福音書6:52〜56)

 

筆者の所属する日本イエス・キリスト教団は、聖公会〜ウェスレー〜ホーリネス運動の流れから生まれています。聖公会イングランド国教会)は、神学や礼拝様式において、ローマ・カトリック教会に近い立場からプロテスタント教会に近い立場まで、広い幅があります。聖餐論に関しては、パンとぶどう酒の実体変化を認めず、「ふさわしい信仰を持って拝領するときに、キリストの肉と血にあずかることになる」とする立場が主流となっています。ジョン・ウェスレーの聖餐論は、カルヴァンに近い霊的現臨説と言われています。

 

  3.礼拝の中心は、説教と聖餐か、説教のみか
 

ここで、礼拝の構造について具体的に考察してみましょう。


<伝統的なルーテル教会の礼拝式次第の例>
入祭歌、招詞、十戒、ざんげ、キリエ、罪の赦しの宣言、グロリア、祈祷、讃美、聖書朗読(旧約聖書使徒書、福音書)、説教、感謝の歌、信仰告白、奉献、奉献唱、奉献の祈り、主の祈り、サンクトウス、パンの設定辞、パンの配餐、杯の設定辞、杯の配餐、アグヌスデイ、祈祷、頌栄、祝福

 

ルーテル教会の礼拝は、「説教」と「聖餐」という二つの中心を持っています。この両者は、楕円を造るのではなく、「語られるみことば」と「食されるみことば」として同心円になります。礼拝の全体が神のみことば=「律法と福音」を伝えているのです。

 

これに対して、カルヴァン派福音派の礼拝は「説教」のみを中心としており、「聖餐」の重要性は二次的かそれ以下になっています。

 

両者の内容の違いは、ローマ・カトリック教会サクラメント秘蹟)に対する考え方の違いから生まれています。ルーテル教会は、ローマ・カトリック教会の伝統から明らかに福音の教えに反するものだけを切り捨てて、それ以外はできるだけ残しました。これに対して、改革派教会は、明らかに聖書が教えているものだけを残して、他はほとんどすべて切り捨てたのです。

 

カルヴァンルーテル教会に近い礼拝式次第を保っていました。しかし、時代が下るにつれて改革派や長老派では、説教を中心としたシンプルな礼拝式に変わっていったようです。その変化には、正統主義敬虔主義リバイバリズム等の影響があったと思われます。現代の福音派の教会では、その変化がさらに進んでいます。

 

  4.「霊的な」恵みをどのようにして確保するか

このような歴史的事情があるため、聖餐を欠いた礼拝を行う教会では、キリストの「肉的実在」は、そもそも信じられておりません。そして、キリストの「霊的現臨」を確保する「恵みの手段」としては、「説教」に依存する割合が圧倒的に高くなります。

 

そうすると、礼拝が会衆にとって「霊的な」「恵まれた」ものになるかどうかは説教次第となります。「霊的である」とか「恵まれる」とか言うのは、どういう意味内容を指しているのか、という問題はありますが、今日、一般的にそのような表現で説教が評価されることが多いようです。

その結果、説教を語る牧師への期待が高くなり、プレッシャーも大きくなります。しかし、そもそも「霊的である」とか「恵まれる」とかいうものは極めて主観的な個人の知的満足や感情的満足を表している場合が多いので、説教に対する評価は不確かなものとなります。

 

牧師に学位を出す学校がやたらに増えたり、説教塾が流行ったり、燃え尽き症候群でリタイアする牧師が増えたり、といった現象の背景には、その「不確かさ」があるように思われます。牧師がカリスマ化して、教会がカルト化する問題も、同じ根から発生しているのかもしれません。

 

改革派教会長老教会の場合は、信仰告白カテキズムの伝統があり、それがこのような問題を防いで、教会の健全性を保ってきた面があるでしょう。 信条・信仰告白文・教理問答書は、客観的な恵みの確かさを備えることができます。聖餐という客観的な恵みの手段を欠いた場合にも、これらがその不確かさを補っているのです。

 

ところが、いわゆる福音派には、信仰告白やカテキズムの伝統を受け継いでいない教会も多数あります。そういった教会では近年、礼拝において音楽が占める割合が広がっているようです。 もちろん音楽はキリスト教の歴史において最初から用いられてきた方法です。しかし、現代の音楽は人間の感性に訴えるものが多く、これが客観的な恵みの確かさを提供できるかどうか、よくよく検討すべきでしょう。

 

人間にも教会にも完全ということはありません。それゆえ、互いに学び合い、分かち合うことが必要です。それが「キリストの体」として生きるということではないでしょうか。

 

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