KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

N.T.ライト著『新約聖書と神の民』の邦訳が出た!

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現代の代表的な聖書学者のひとりであるN.T.ライトの主著『新約聖書と神の民』(The New Testament and The People of God)の邦訳(上巻)が、この12月に出版されました。

新約聖書と神の民 上巻: キリスト教の起源と神の問題 1

新約聖書と神の民 上巻: キリスト教の起源と神の問題 1

セントアンドリュース大学神学部、ライト教授のもとで博士課程の研究をなさった訳者・山口希生氏のあとがきが、とても分かりやすいガイドになっています。

キリスト教を生んだ古代ユダヤ民族の世界観を知ることなしに、ユダヤ人であるイエスやパウロの教えを理解することはできない>(p.602)

<ライトの新約聖書研究の主眼は、新約聖書をその豊かな「ユダヤ的背景」から読み直すことにあります>(p.603)

新約聖書を理解するために、私たちは「1世紀のユダヤ人の世界観」を通じてテクストを読む必要がある>(p.606)

<聖書の個々のテクストを文脈から切り離して特定の教理の『証拠』として用いるのではなく、その歴史的な背景、さらに言えば聖書の「ストーリー」に照らして理解すべきだ>(p.606)

ーーというわけで、この上巻では、イエスやパウロが<生きたユダヤ的背景を描写することに全ての精力が注がれています>(p.606)

私は原著をペーパーバックと電子版(kobo)の両方で持っているのですが、この邦訳は訳文も版組もとても読みやすくて、ベリーグッドです!

邦訳は上巻だけでおよそ600ページ。訳者の御労に敬意と感謝を表したく思います。

NPP(New Perspective on Paul)の各論については、いろいろな批判があるようです。

www.ligonier.org

www.ligonier.org

Justification: God's Plan and Paul's Vision - Reformation21

Perspectives Old and New on Paul: The

Perspectives Old and New on Paul: The "Lutheran" Paul and His Critics

私も、E.P.サンダースのローマ書解釈やルター批判には疑問を感じます(サンダースは「自分はNPPとは関係が無い」と言っているらしいですが、与えた影響は大です)。

パウロ

パウロ

けれども、サンダースやジェイムス・ダン、N.T.ライト等が進めている新約聖書研究の方法論は重要です。

従来のプロテスタント神学では、ローマ書をはじめとするパウロの書簡のように、抽象性・普遍性の高いテクストを、教理の基準とする場合が多かった、と思います。しかし、聖書の諸々の物語文学にも、重要な神のメッセージが織り込まれています。その歴史的・社会的・文学的・神学的な背景を理解してテクストを読み解き、その使信を掘り出すことが、重要でしょう。

ただし、逆に聖書全体をナラティブとして扱うことについては、伝統的正統的な救済史理解から大きく外れていく危険性もあるでしょう。

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二王国論は間違いか?

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Michelangelo "Viimne kohtupäev", Sixtuse kabeli lagi, 1536–1541

  1.二王国論とキリスト王権論

近年、日本で盛んになった福音派の社会運動に関して、問題の焦点がどこにあるのか、最近いくらか見えてきたように思う。なぜキリスト者・教会・超(協)教派団体が政治的な運動を行うのか、その神学的な根拠について問うことも、重要な問題である。

改革派のある牧師が、次のごとき思想を説いた。

神がこの世において霊的な支配と政治的な支配を分けて行っているという「二王国論」が宗教改革の頃からありました。しかし、それは霊と肉を分離する間違った考え方です。キリストの王権は、霊的な領域だけでなく、政治においても実現すべきものです。

「キリストの三職=王・祭司・預言者の役割を、キリストの体である教会が果たす」という教理は、聖書に根拠のある正統的なものである。

あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを闇の中からご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためです。(第一ペテロ2:9)
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方です。(黙示録1:5-6)

基本的な問題は、この教理における「王」とは何か、である。イエス・キリストは「わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18:36)と仰せられた。それゆえ、「神は為政者を用いて世俗の領域を治めておられ、同時に教会を用いて霊的な領域を治めておられる」とルター派では理解している。これを「二王国論」と言う。

カルヴァン派にも二王国論を支持する人たちがいるが、今、日本の福音派で政治運動をしている人たちの中には「キリストの王権」という教理を支持する人もいる。これは「霊的な王国(教会)も世俗の国(国家)も、キリスト者が聖書の教えに従って統治すべきだ」という教理である。これは帝国主義を生んだ思想と近似したものであり、現代では政治的な原理主義につながる思想である。果たして、これは聖書が教えていることだろうか。
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キリストの王権 - Wikipedia

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日本宣教と天皇
https://www.wlpm.or.jp/pub/?sh_cd=1587


  2.聖書の世界観

「王」の解釈に決定的な影響を与えるのは、聖書の世界観をどのように理解するか、という問題である。神は、人間が営む地上の歴史・国々の興亡をすべて支配しておられ、国々の支配者も神の御心に従って立てられ、倒される、と聖書は教えている。

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。(使徒17:26)
神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。(ダニエル2:21)
ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。(ダニエル5:21)

聖書の霊的世界観は、天と地上(この世)と地下(ハデス、よみ)という三層構造になっている。ハデスは堕落した天使たち、すなわち悪魔(サタン)悪霊の牙城となっている(マタイ16:18)。「この世」は御子イエスによって造られた(ヨハネ1:10)。ところが、人類が神に背いて悪魔の声に従ったために、悪魔・悪霊が「この世」を支配している(エペソ2:1-2、6:12)。それでもなお、神は独り子を賜ったほどに「この世」を愛してくださった。それは御子によって「この世」が救われるためである(ヨハネ3:16-17)。

御子イエス・キリストは十字架の死によって人類の罪を贖い、ハデスの勢力を征服した(マタイ16:18, エペソ4:8-10, コロサイ3:12-13, Ⅰペテロ3:18-19,22)。キリストによってもたらされた「神の王国」は、「この世」のすべてを悪魔の支配から取り返して、神のもとに集める霊的な勢力である(ダニエル7:13-14, マタイ12:28-29, エペソ1:10, コロサイ1:13,20, ロマ8:21)。ただし、それが完成するのは、イエス・キリストが再臨される時である(第一コリント15:24)。

  3.ルターの教説

マルティン・ルターは二王国論に関して次のように説いている。

■『この世の権威について、人はどの程度までこれに対し服従の義務があるのか』1523 年
ここで私たちはアダムの子ら、すなわちすべての人間を二つの部分に分かたねばならない。第一は神の国に属する者、第二はこの世の国に属する者である。神の国に属する者はキリストのうちにあり、キリストのもとにある真の信仰者すべてである。なぜなら、キリストは神の国における王、また主でいたもうからである。ちょうど詩篇二篇[六節]と全聖書が語っているとおりである。( 『ルター著作集第 1 集 第 5 巻』146 頁)
この世の国、あるいは律法のもとには、キリスト者でないすべての者が属している。(上掲書148 頁)
それゆえ神は二つの統治を定めたもうた。キリストのもとで聖霊によってキリスト者、すなわち信仰深い人々を作る霊的統治と、キリスト者でない者や悪人を抑制して、欲しようが欲しまいが外的に平和を保ち、平穏であるようにするこの世の統治とである。(上掲書148-149 頁)
それゆえ、この二つの統治を熱心に区別して、両者とも存続させなければならない。一つは義たらしめるものであり、一つは外的に平和をつくりだし、悪事を阻止するものであって、この世ではどちらを欠いても十分ではないのである。(上掲書150 頁)

■『奴隷的意志について』1525 年
(私は言うが)、彼らは互いにきわめて激しく戦っている二つの国が世にあることを知っている。その一方はサタンが支配しており、そしてこの支配のゆえに、彼はキリストにより「この世の君」[ヨハネ12:31]と言われ、パウロにより「この世の神」[第二コリント4:4]と言われている。(中略)また一方の国はキリストが支配しておられる。そして、この国は絶え間なくサタンの国に抵抗し戦っている。(『第 7 巻』479-480 頁)
相互に、絶え間なく、争いの状態にある神の国とサタンの国の中間には国はない。(上掲書391-392 頁)

■『農民に対するきびしい小著についての書簡』1525 年
二つの国がある。一つは神の国であり、他の一つはこの世の国である。(中略)神の国は、怒りや罰の国ではなく、恵みとあわれみとの国であり、そこにはゆるし、いたわり、愛、奉仕、善行、平和、喜びといったことのみが存在する。しかし、この世の国は怒りと厳格さとの国であり、そこに存在するのは、罰、抑圧、さばきと判決、すなわち、悪しき者への強制と、信仰あつき者への保護といったことのみである。(『第 6 巻』386 頁)

■『軍人もまた救われるか』1526 年
神は、二種の統治を人間の間に設けられた。一つは剣によらないで、言による霊的なものであり、これによって人は信仰を得て義なる者となり、その義とともに、とこしえの命を得るのである。(中略)もう一つの統治は、剣による現世の統治で、言によって信仰を得て義となり、とこしえの命に至ろうと望まない人も、現世に対しては温順で正しいものであるように、この現世の統治によって強制されるためなのである。(『第 7 巻』386 頁)

聖書の世界観では、イエス・キリストを信じないこの世の人々を支配するサタンでさえも、神の支配下にある(ヨブ2:1-6)。そのサタンの支配下にある人々を、御子イエス・キリストの贖いによって解放し、神の王国に移すことが伝道・救霊である(使徒26:18)。これは神学的には「特別恩恵」と呼ばれるが、この恩恵にあずかっていない人々に対しても、神は恵み深くあられる(マタイ5:45、使徒14:17)。これは「一般恩恵」と呼ばれる領域である。地上のレベルでは善と悪の二元的な戦場があるように見えても、宇宙的なレベルで見れば、すべてが神の一元的な支配の下にある。

  4.宗教改革者の諸相

その牧師が説いた「キリストの王権」はカルヴィニズムの思想の一種である。日本の「福音派」の人たちはプロテスタントの信仰や実践について歴史的に論じるときにしばしば、ルターをすっ飛ばしてジャン・カルヴァンから始めてしまう。下手をするとカルヴァンさえすっ飛ばして、カルヴィニズムからあるいは敬虔主義から始めてしまう。
(a)宗教改革第一世代であるルター
(b)宗教改革第二世代であるカルヴァン
(c)テオドール・ド・ベーズ以降のカルヴィニズム
この三者の思想の違いを理解することが重要である。

まず、宗教改革において西欧で生まれた「キリスト者の抵抗権」という思想が、すでにキリスト教化された世界の内部で起きた現象であることに、注意しなければならない。これをすっ飛ばして、「キリスト者の抵抗権」に関する諸説を直接、異教国・日本に適用するのは、無理がある。

丸山忠孝「抵抗権ーー宗教改革史上の一考察」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/005-2_in_printable.pdf

マルティン・ルターをはじめ宗教改革者たちがプロテストした相手は、俗権(皇帝、王、領主)に対する優位を主張するローマ教皇・ヴァチカンである。

(1)急進改革派は、「キリストをかしらとするキリストの国」と「悪魔をかしらとするこの世の国」が存在しており、人間はどちらか一つにしか属しえない、と考えた。善悪二元論的な世界観である。実践においてこれは二つに分かれる。一方でチューリッヒの再洗礼派やメノー派はこの世の権力を蔑視して、政教分離や絶対平和主義を唱えた。もう一方ではトーマス・ミュンツァーのように直接世直しの戦闘に走る過激派がいた。

(2)ルターは、「神の右手の国」(霊的支配)と「神の左手の国」(世俗的支配)は区別されるべきだが、どちらも「神の良い国」であって、キリスト者は教会と国家、二つの国の市民であらねばならない、と教えた。いわゆる二王国論(二統治説)である。ルターにとってこの世は、神の秩序に属する領域である。それゆえルターは、キリスト者は自分のためでなく隣人のために、この世の務めは果し、この世の秩序の維持に努めるべきだ、と説いた。ルターは、信徒が信仰のゆえに皇帝に対して武力抵抗する権利を認めている。それは皇帝が教皇の兵士に過ぎず、皇帝の戦争が実は教皇の戦争だからである。

(3)カルヴァンはルターの思想を継承しつつ、神の言葉が教権と俗権の両方に持つ主権性を主張した。そして暴君に対する合法的抵抗を認めた。

  5.この世の王権

聖書は全体的に王政について肯定的な見方を示している。創造主なる神「主」は秩序を愛し、法を重んじるお方であり、アナーキー(無政府)な状態を最も嫌っておられる。そこでは神の正義が軽んじられて、強者によって弱者が虐げられるからである。

神は無秩序の神ではなく、平和の神である。(第一コリント14:33)

王の即位から年を数える「元号」は古代オリエントにもあり、旧約聖書ではイスラエル王国ユダ王国でも使用されている。

ダニエルはメド・ペルシャの王にこう言った、

「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように」(ダニエル6:21)。

君が代は千代に八千代に」と同じではないか。
ネヘミヤもこう言っている。

王よ。いつまでも生きられますように。(ネヘミヤ2:3)

また、聖書は次のように教えている。


すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。(ローマ13:1)
あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果たしなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。(ローマ13:7)
すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。(第一テモテ2:1)
あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従いなさい。(テトス3:1)
王を尊びなさい。(第一ペテロ2:17)

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私たちキリスト者は、天皇であれ誰であれ人間を神として礼拝することはできない。けれども、聖書と良心に照らして「罪」とされることでなければ、できる限り私たちは王を敬い、為政者に従い、国民としての務めを誠実に果たすべきだろう。

  6.プロテスタントの社会倫理

次に、プロテスタントの信条から社会倫理に関する代表的な二つのテクストを引用する。

アウグスブルク信仰告白
第十六条 公民生活について
公民生活について、われらの諸教会は、かく教える。
正当な公民規定は神の善き御業である。すなわちキリスト者が、公職につき、裁判に列し、現行の国法や他の律法によって諸事件を決定し、正しい刑罰を定め、正しい戦争に従事し、兵士として行動し、法定取引や契約をし、財産を所有し、裁判官の要求の際宣誓をし、妻をめとり、或は子女を婚姻させることは正当である。
われらの諸教会は、アナバプテスト派を排撃する、彼らはキリスト者に、以上の公職を禁じる。われらの諸教会はまた、福音的完成をば、神の畏れと信仰とにおかないで、公職を放棄することにおくひとびとを排撃する。なぜなら福音は、心の永遠の正しさを教えるからである。
同時に、福音は国家或は家族の秩序と管理とを破壊しないで神の秩序としてそれを保持し、また、このような制度の中で、愛を実践することを特に要求する。それゆえ、キリスト者は、その為政者や、法律に従わねばならない。
ただし、彼らが、罪を犯すことを命令する時は、この限りではない。なぜなら、その時はキリスト者は、人に従うより神に従わねばならないからである(使徒5:29)。

アウグスブルグ信仰告白

ウェストミンスター信仰告白
第23章 国家的為政者について
1 全世界の至上の主また王である神は、ご自身の栄光と公共の益のため、神の支配のもと、民の上にあるように、国家的為政者を任命された。そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行なう者を擁護奨励し、また悪を行なう者に罰を与えさせておられる(1)。
  1 ロマ13:1-4、Ⅰペテロ2:13,14
2 キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは、合法的であり(1)、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので(2)、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行なうこともありうる(3)。
  1 箴言8:15,16、ロマ13:1,2,4
  2 詩2:10-12、Ⅰテモテ2:2、詩82:3,4、サムエル下23:3、Ⅰペテロ2:13
  3 ルカ3:14、ロマ13:4、マタイ8:9,10、行伝10:1,2、黙示17:14,16

ウェストミンスター信仰基準

  7.現代日本社会への適用

このような信条を、我々が生きている現代の政治的・経済的・社会的・宗教的な文脈において、どのように適用していくか。その答えは一様ではなく多様であろう。

最初に紹介した牧師の二王国論を否定するその主張は、突き詰めていけば、立憲君主制天皇制の否定、共和制=大統領制の肯定、非キリスト教徒による政治の否定となるのではないか。ずいぶんラディカルな思想である。その牧師は「聖書がハッキリとそのように教えている」と主張した。私の聞き違いではないと思う。果たして、それは聖書や正統的なキリスト教の教義から出てきた思想だろうか。私には、そうは思えない。

キリスト者の平和論・戦争論 (21世紀ブックレット40) (21世紀ブックレット 40)

キリスト者の平和論・戦争論 (21世紀ブックレット40) (21世紀ブックレット 40)

その思想の根拠は、国家が持つ「」的性格らしい(黙示録13章)。戦前戦中の国家神道天皇崇拝を、これに関係付けて理解しているのだろう。それは、どこまで適用可能な聖書解釈だろうか。この世の終末期に「荒らす忌まわしいもの」(マタイ24:15)、「不法の者」(第二テサロニケ2:3-12)、「獣」(黙示録13章)が強大な王権を持ち、自らを神として、人々に礼拝を強要すると、聖書は教えている。しかし、安易にこれを今ある王に適用すべきではない。

やはり二王国論こそ聖書に忠実な教理であり、キリスト教社会倫理の現実的な基盤を成す教理である。

kanai.hatenablog.jp
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李良浩(越後屋朗訳)「ルター神学の構造」The Structure of Luther’s Theology
https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/4570/640207.pdf

江口再起「ドゥフロウのタイポロギーについて一 ルターの「二王国論」再考」
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110000192383.pdf?id=ART0000558304

丸山忠孝「教会史に見る『教会と国家』――序論的考察」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers10.html

倉沢正則「国家と諸権力、そして教会――聖書による一考察」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers19.html

橋本 龍三「福音宣教における天皇制の問題」
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers21.html

キリスト教倫理

キリスト教倫理

現代キリスト教倫理 (ボンヘッファー選集)

現代キリスト教倫理 (ボンヘッファー選集)

キリスト教と民主主義―現代政治神学入門

キリスト教と民主主義―現代政治神学入門

心の貧しい人は幸いか

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ルドルフ・イェーリン「シュヴァルツバルトの山上の説教」
 

  【比較研究】

 マタイによる福音書5章3節の和訳について

 

https://biblehub.com/interlinear/matthew/5-3.htm

http://www.bbbible.com/bbb/bbbmt05a.html

<Greek>

Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.

<KJV, RSV, ASV, NIV, ESV> 

Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

 <繁體中文和合本>

虛 心 的 人 有 福 了 . 因 為 天 國 是 他 們 的 。

<明治訳>

心の貧しき者は福(さいはひ)なり 天國は即ち其(その)人の有(もの)なれば也

<大正改訳>

幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。
天國はその人のものなり。

<口語訳>

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

<新改訳第3版>

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

<新改訳2017>

心の貧しい者は幸いです。 天の御国はその人たちのものだからです。

<新共同訳>

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

<聖書協会共同訳>

心の貧しい人々は、幸いである

天の国はその人たちのものである。

(注)霊において貧しい人々


<岩波訳>

幸いだ、心の貧しい者たち、天の王国は、その彼らのものである。

フランシスコ会新訳>

自分の貧しさを知る人は幸いである。
天の国はその人たちのものである。

<塚本虎二訳>

ああ幸いだ、神に寄りすがる「貧しい人たち」
天の国はその人たちのものとなるのだから。

<前田護郎訳>

さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。

田川建三訳>

幸い、霊にて貧しい者。天の国はその者たちのものである。

 

  ★ポイント

 

(1) 主要な英訳、大正改訳、岩波訳、塚本訳、前田訳、田川訳は、ギリシャ語テクストの始めにある「Μακάριοι」(マカリオイ)の訳語を始めに置いている。詩文の始めに倒置法で「Μακάριος」(マカリオス)を置く用法は、70人訳聖書の詩篇でたびたび見られる(詩篇1:1, 32:1, 112:1, 119:1, 128:1)。大正改訳がせっかく詩文調にして語順を工夫したのに、口語訳は散文調に戻してしまった。
 

(2) 「Μακάριοι」はここでは、神の「祝福を受ける」という意味である。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。

 

(3) 和訳聖書では明治訳から新改訳第3版、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。原文で問題とされているのは「霊」(プニューマ)、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。そもそもこれを「心」と訳したのは、モリソンの漢訳聖書(1814年、新約聖書)であり、中国や日本ではそれを今日までひきずってしまった。フランシスコ会新訳、塚本訳、前田訳、田川訳は「心」としない工夫を凝らしている。

 

(4) 福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。「ἡ βασιλεία」(へー バシレイア)は「王国」が正確な訳であり、その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。岩波訳はこれに配慮している。

 


 【釈義】

 

<金井試訳> 
恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから。(マタイ5:3)


「天の王国」とは何か。「霊において貧しい人たち」とは何か。これを、マタイによる福音書のコンテクストと、紀元1世紀前半のユダヤ社会というコンテクストから考察した私見を、以下に述べる。

  1.神の王国の福音

 主イエスは、ヨルダン川で洗礼をお受けになった(マタイ3:13-17)。その時、<天から>御声が聞こえた。


「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」


これは、イエスの存在とわざと言葉が、神に由来することを証しする、公的な宣言である。この<神の子>イエスが、霊の戦いである宣教と十字架の死を経て、復活し、完全な勝利者となる。イエスは、<天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている>王となる(マタイ28:18)。

 「ἡ βασιλεία」は「王国」が正確な訳であり、その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。

 さて、洗礼の後、<神の子>イエスは<荒野>で<40日40夜>、<悪魔の試み>を受けて、それに打ち勝たれた(4:1-11)。この場所と期間の設定は、シナイの荒野を旅して、シナイの<山>で<40日40夜>を過ごし、神から<律法>を授かったモーセと、イエスを関係付ける役割を担っている(出エジプト24:18)。

 その後イエスは、ガリラヤ湖畔の町カペナウムを拠点として、宣教を開始された(マタイ4:12-17)。その使信は次のものであった。

 

「時は満ちた、神の王国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)
「悔い改めなさい。天の王国が近づいたから」(マタイ4:17)


福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。


  2.律法と福音

 漁師であったペテロやヨハネなどを、イエスは<弟子>となさった(マタイ4:18-22)。

 そしてイエスは、ガリラヤ全土を巡って、人々に神の<王国の福音>を伝え、<あらゆる病気>をいやされた(マタイ4:23)。そのうわさがシリヤ全体に広まって、人々は<さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者など>をイエスのみもとに連れてきた。イエスは彼らを癒された(マタイ4:24)。

 この病の癒しと悪霊からの解放は、神の恵みに満ちた直接的な<支配>が、すでに現実的に始まっていることを、証しする(マタイ12:28)。古代ユダヤ教では<律法>の規定に従って、病人や障がい者、悪霊に憑かれた人は「穢れ」を持つものとして、神殿やシナゴーグから排除されていた。ここで重要であるのは、彼らが宗教的・霊的に回復されたということである。それはまた、宗教と社会が一体化した古代ユダヤにおいては、社会的交わりへの復帰でもあった。

 イエスの驚くべきみわざのうわさは、ガリラヤ、ユダヤ、その他の地方に広まり、大勢の群衆が集まってきた(マタイ4:25)。

 この群衆を見て、イエスは湖畔の小高い<山>に登って、<弟子たち>に教えを説かれた(マタイ5:1-2)。1300年(後期説)あるいは1500年(前期説)ほど前に、<主>はシナイの<山>でモーセを通してイスラエルの民に<律法>=<契約の書>をお与えになった(出エジプト24:1-8)。この「山上の説教」は、<主>が、その<律法>を<成就する><福音>を説き明かされたものである(マタイ5:17-18)。

  3.霊において貧しい人たち

 イエスは、この「山上の説教」の冒頭で、八つの<幸い>について語っている
 その第一(マタイ5:3)。


<心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである>(新共同訳)
<恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから>(金井試訳) 

 和訳聖書では明治訳から新改訳第3版、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。原文で問題とされているのは、「霊において τῷ πνεύματι」(トー プニューマティ)、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。「あなたは心が貧しいわね」と言われて、喜ぶ人がいるだろうか。日本語では「心が貧しい」と言う場合、十中八九、悪い意味ではないか。逆説的な教えだとしても、それが「幸いです」となるだろうか。

 「幸いです」と訳された「Μακάριοι」は、ここでは、神から「恵みを受ける」「祝福される」という宗教的な意味を持っている(参照 マタイ6:26,32-33, 7:11)。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。「恵まれている」が適切な訳ではないか、と筆者は考える。

 自らが神の御前に立つにふさわしくない<罪人>であり、霊的に<貧しい者>であることを認めて、へりくだる者に対して、神は憐れみ深くあられる。

 

  4.神の王国に入るのは誰か

 マタイによる福音書に登場するユダヤの王、祭司長、学者など権力・財力・知力を持つ者たちは、イエス・キリストを受け入れなかった。エルサレムの神殿を拠点として活動した貴族=「サドカイ派」や、各地のシナゴーグ(会堂・会衆)で民衆を指導した「ファリサイ派」も、イエスを神の子キリストとして認めない。

 ところが、彼らがユダヤ教から排除した<罪人>たちは、イエスのもとに来て、救いを求め、それを得るのである。
 イエスは<祭司長、民の長老たち>に向かって、こう言い放つ。

「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちの方が、あなたがたより先に神の国に入っているのです」(マタイ21:31)。

 このような<罪人たち>こそ、
<霊において貧しい人たち>(5:3)
<嘆き悲しむ人たち>(5:4)
<柔和な人たち>(5:5)
<義に飢え渇いている人たち>(5:6)
<憐れみ深い人たち>(5:7)
<心の純粋な人たち>(5:8)
<平和を造る人たち>(5:9)
<義のために迫害されてきた人たち>(5:10)
である。
神の御子イエスの宣教、すなわち神の王国の到来は、人々の間に「大逆転」を引き起こすのである。

  5.心の純粋な人たち

 従来「心のきよい者」(マタイ5:8)と訳されてきた部分を、筆者は<心の純粋な人たち>に変えた。この「きよい καθαρὸς」(カサロス)という語には次のような意味がある。


①器などが汚れていない清潔な状態 
②律法の清浄規程に従って、死者や異邦人、病人、血などに触れて穢れていない状態(参照:レビ記11〜15章)
③倫理的に心が汚されていない純粋な状態

 ①はこの語の原義であり、②は古代ユダヤ教の最も重要な価値観である。これを背景として、主イエスは③の意味で「きよい」者は幸いだ、と言われた。

 当時、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で指導していたファリサイ派の人たちは、②の「穢れ」を避けることに執心していた。「ファリサイ」には「分離する」という意味がある。そのためユダヤ人でも、病人、障がい者、売春婦、取税人、行商人、羊飼い、牧畜人、皮革業者、ホームレス、女性、子どもなどは、ユダヤ教の礼拝に参加できなかった。それはエルサレムの神殿でも同様である。

 ところがイエスは、会堂の礼拝で聖書の解説をする教師(ラビ)でありながら、この山上の説教の後、ガリラヤの町々で、病人に手を触れて癒し、異邦人と交流し、悪霊に憑かれた人を解放し、取税人を弟子とした(マタイ8〜9章)。

 イエス・キリストが触れたものは皆、<きよい>ものに変えられる。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」からである(マタイ8:17)。

 マタイ5:8において「きよい」(καθαρὸς)とは、完全無欠な律法遵守という外面的な行いではなくて、イエス・キリストに触れられた者が持つ<心>の<純粋な>状態を指している。

<恵まれている、心の純粋な人たちは。彼らは神を見るから>(マタイ5:8)

  6.憐れみ深い人たち

 イエスは、このような清浄規定に反する<罪人>たちを迎えて、共に食事をした。それを見て、ファリサイ派の人たちはイエスを非難した(マタイ9:11)。

 イエスはお答えになった。


「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ9:12-13)

 この<罪人>に対する<純粋な>愛こそ、神の御心である。

<恵まれている、憐れみ深い人たちは。彼らは憐れみを受けるから>(マタイ5:7)