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同性愛行為は罪か?(2)

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「同性愛行為は罪か?」という問題について、ここでは新約聖書の「コリント人への第一の手紙」6章 9-10節 のテクストから考察してみようと思います。

 

■新改訳2017

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。(第一コリント6:9-10)

 

1 Corinthians 6:9 Interlinear: have ye not known that the unrighteous the reign of God shall not inherit? be not led astray; neither whoremongers, nor idolaters, nor adulterers, nor effeminate, nor sodomites,

 

問題となるのは ーー「男娼となる者」「男色をする者」がどのような人たちであったのか。このパウロの警告が、現代に生きる我々において、どのように適用されるのかーーということです。

 

「コリント人への第一の手紙」は使徒パウロが第3回宣教旅行の途中、紀元後55年の初め頃にエペソで執筆したものと考えられます(使徒19章、第一コリント16章)。

 

パウロは第2回宣教旅行の途中、50年の秋から52年の春までコリントに滞在して、宣教活動を行い、教会を形成しました。その教会に分裂が起こっており、また、信徒たちの行いが乱れていたことを知らされて、パウロはこの手紙を書き送ったのです。

コリントス - Wikipedia

 

この書簡では πορνεία(porneia)「(あらゆる種類の不法な性交渉による)不品行」という語が5回(5:1, 5:1, 6:13, 6:18, 7:2)、πόρνος(pornos)「(性的に)不品行な者」という語が4回(5:9, 5:10, 5:11, 6:9)、πόρνη(porné)「売春婦」という語が2回(6:15, 6:16)πορνεύω(porneúō)「(性的な)不品行を行う」という語が3回(6:18, 10:8, 10:8)繰り返して出てきます。それはコリントの信徒たちに顕著な罪でした。

 

旧コリント市にあった女神アプロディーテーの神殿には神殿娼婦が1000人以上もいました。国際港湾都市として栄えた「コリント」は「淫蕩」の代名詞となっていました。

アプロディーテー - Wikipedia

ギリシャへの扉: アクロコリント アクロコリントス

 

このような文脈において第一コリント6:9-10の悪徳表が存在します。

 

パウロは「性的な不品行(淫らな行い)」と「偶像崇拝」を同一視しています(6:9, 6:18)。すなわち「性的な不品行」を社会的な倫理の問題としてよりも、霊的な問題として扱っているのです。

 

15 あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。

16 それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。

17 しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。
18 不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。

(第一コリント6:15-18)

 

第一コリント6:9の μαλακός(malakos)「男娼の者」とἀρσενοκοίτης(arsenokoites)「男色をする者」は、このような文脈で出てくる語であることに注意する必要があります。

 

■「男娼の者」μαλακός(malakos)(6:9)

この単語は形容詞であり、「柔らかい、柔和な、柔弱な、女々しい」という意味ですが、第一コリント6:9においては「同性愛の受け身となる唾棄すべき柔弱な奴」という意味であり(『ギリシア新約聖書釈義事典』参照)、「異常な猥褻行為のために自分の体を提供する少年や男子」を指しています(Thayer's Greek Lexicon 参照)。

 

■「男色をする者」ἀρσενοκοίτης(arsenokoites)(6:9)

この単語は「少年または男性と淫らな行為をする者」という意味です(『ギリシア新約聖書釈義事典』参照)。ἀρσην(arsen)は「男性の、雄の」という意味であり、κοίτη(koite)には「寝床、同衾、性交、肉欲、精液」といった意味があります(岩隈直著『新約ギリシャ語辞典』参照)。

 

「男娼の者」と「男色をする者」は、男性の同性愛行為をされる側する側を示していると考えられます(レオン・モリス参照)。

 

和訳の聖書は皆 μαλακός(malakos)(6:9)を「男娼」と訳し、ἀρσενοκοίτης(arsenokoites)(6:9)を「男色をする者」と訳しています。
大辞林』によれば、「男娼」の意味は「男色を売るもの。陰間(かげま)」とされ、「男色」の意味は「① 男の同性愛。鶏姦。衆道(しゆどう)。だんしょく。② 男色を売る若衆。かげま」とされます。


しかし、英訳の聖書ではいろいろな訳語が見られます。

◇ King James Bible
nor effeminate, nor abusers of themselves with mankind,

◇ American Standard Version
nor effeminate, nor abusers of themselves with mankind

◇ New American Standard Bible
nor effeminate, nor homosexuals,

◇ New International Version
nor men who have sex with men

◇ English Standard Version
nor men who practice homosexuals

◇ Christian Standard Bible
or males who have sex with males,

◇ Good News Translation
or homosexual perverts

◇ Contemporary English Version
or is a pervert or behaves like a homosexual

◇ Holman Christian Standard Bible
or anyone practicing homosexuality,

◇ NET Bible
passive homosexual partners, practicing homosexuals,

◇ New Living Translation
or are male prostitutes, or practice homosexuality,

◇ International Standard Version
male prostitutes, homosexuals,

◇ World English Bible
nor male prostitutes, nor homosexuals,

 

King James Bible 等で使用されている「effeminate」は「〈男・男の態度が〉男らしくない,めめしい、柔弱な」(研究社 新英和中辞)という意味ですから、μαλακός(malakos)の訳語として適切です。

さらに、NET(New English Translation) Bible は第一コリント6:9のコンテクストを考慮して、明確に「同性愛行為の受け身となる人たち」と「同性愛行為の実行者たち」を示しています。

NET(New English Translation) Bible
passive homosexual partners, practicing homosexuals,

ゲイの人たちは前者を「ネコ」「ウケ」、後者を「タチ」「セメ」と言うらしいです。ただし、男性の同性愛行為は肛門性交とは限らず、股間を使用する場合が少なくないようです。

和訳の聖書は皆 μαλακός(malakos)(6:9)を「男娼」と訳しており、英訳聖書でも NLT, ISV, WEB が male prostitutes (男娼)と訳しています。

紀元後1世紀中葉のコリントではアポロン神殿に職業的な男娼がいました。

コリントス アポロン神殿

しかし、パウロがこの書簡で警告している対象はコリント教会の信徒たちです。この悪徳表に挙げられている他の罪はいずれも、職業的に定義付けられたものではありません。よって、このμαλακός(malakos)は職業的男娼に限らず、もっと広く男性の同性愛行為者を指している、と考えられます。

第一コリント6:9の「男娼となる者、男色をする者」と和訳されてきた部分は、「受け身の男性同性愛行為者、攻め手の男性同性愛行為者」と訳す方が正確でしょう。

 

この第一コリント6:9-10のテクストを見ても、やはり同性愛行為が「罪」であることは否定できないと思います。ただし、聖書が教える「罪」にはいくつかの意味があります。根本的には「罪」とは、神が造られた創造の秩序から人間が外れている状態です。次に「罪」とは、神の意志に背こうとする人間の性質です。第三に「罪」とは、神の意志に反して人間が行う悪しき言動です。

性同一性障害の方々にこれを適用することは、適切ではないでしょう。また、自らの意志に反して同性愛行為の被害にあった場合は、その当人が罪意識を感じたり、自分を責めたりする必要はありません。

 

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