カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

律法と福音 ー ルター神学の根本原理 ー

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  序論 二つの原理=律法と福音

 

和協信条・根本宣言・第5条

このように二つの教えが並んでいるのであって、両者はまた並行して、しかも一定の秩序のうちに、正しい区別をもって、与えられなければならない。

 

 すべての人が経験する人生の根本問題は「」と「」である、と聖書は教える。「罪」と「死」は、人間の霊と心と体を蝕み、社会を蝕む「」の力である。それは、人間の創造主であり「至聖」にして「命」の本源である「」に敵対し反抗する力である。その力によって、すべての人は神から離れて、永遠の滅びへ向かっていく。

 人はどうしたら、罪と死から救われることが、できるのか。聖書は二つの原理を教えている。

 一方では、聖書はこう教えている。

わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。(レビ18:4)

もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。(中略)「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ19:17、18)

これは「律法」の行いによって得られる救いである。

 他方、聖書は次のようにも教えている。

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)

これはイエス・キリスト「福音」を信じる信仰を通して与えられる、神の恩恵としての救いである。

 この正反対の教えは、どちらも神の言葉である。律法と福音はそれぞれ固有の働きを持ちつつ有機的に関係しているのだが、混同されやすい。マルティン・ルターは、律法と福音を正しく区別して併用することが、聖書の解釈と適用における最も重要な鍵であると考えた。

 なぜ二つの原理があるのか? 律法と福音はどのような関係にあるのか? 教会は律法と福音を、具体的にどのように教えれば良いのか? 以下、こうした「律法と福音」の問題について考察したい。

 

  1.律法の三つの用法

 

和協信条・梗概・第6条 律法の第三用法について 

論争の問題点・この論争の主要問題

 律法は、次の三とおりの理由で、人間に与えられている。第一に、律法によって、粗暴な者、不従順な者に対して外的な規律が保たれること、第二に、律法によって、人が罪の認識に導かれること、第三に、生まれかわったのち、なお、肉が固着しているので、そのためある規範をもち、それに従って、人が、その全生活を実践し、整えること。

 

和協信条・梗概・第5条 肯定

2.律法は、本来、何が正しく、神のみこころにかなうものであるかを教え、また罪と神のみこころに反するすべてのことを罰する神の教えである。(抜粋)

3.それゆえ、罪を罰するすべてのことは、律法の説教であり、律法の説教に属している。(抜粋)

7.「神の怒りは、すべての罪人に対して、天から啓示されるのである」(ローマ1:18)これによって、罪人は律法の中へと導かれ、すぐさまこれによってはじめて正しく自己の罪を認識するに至る。

(中略)神の子、キリストの受難と死とに関する説教は、真剣で恐るべき説教であって、罪に対する神の怒りを示すものであり、これによって、人ははじめて正確に律法へと導かれ、モーセのかのヴェールが、とり去られる。(抜粋)

 

和協信条・根本宣言・第5条

 彼(キリスト)はすべての罪人のうえにくだる「天からの神の怒り」を啓示し、これがいかに大きなものであるかを示す。これによってすべての罪人は律法を指し示され、これをもってはじめて、自分の罪を認識することを正しく学ぶのである。(中略)

 律法は本来神の教えであり、そこにおいて、神のみこころにかない、神に受け容れられるために人間はその本性、思い、言葉、行ないにおいてどのようにあらねばならないか、神の正しい、変わることのないみこころが啓示されている。また、律法はその違反者を、この神の怒り、一時的な罰と永遠の罰をもって脅かす。(中略)罪を罰するものは律法であり、律法に属する。その本来の務めは、罪を「罰し、罪の認識に導くこと」であるからである、ローマ人への手紙第3章[20節]と第7章[7節]。不信仰は罰せられるべきすべての罪の根であり源であるから、律法は不信仰をも罰する。(中略)

 このように人が神のことばを信じないならば、律法はその不信仰を罰する。さて、キリストを信じることを本来教え、命じる唯一のものである福音は、神のことばであるから、聖霊は律法の務めをとおして、福音が唯一、救いに至らせるキリスト信仰について教えているそのキリストを信じない不信仰をも罰するのである。

 

 律法は人間に対する不変的な神のみこころを示す神の教えである。

 

ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。(ローマ2:17~18)

 

たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。(ローマ2:14~15) 

 

 「律法の第一用法」は共同体・社会を乱す悪を抑えて、正義と安全を確保する機能であり、これは「市民的用法」と呼ばれる。律法は全人類に対する普遍的な規範である。

 

見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。(申命記11:27~28)

 

律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。(第一テモテ1:9~10) 

 

  「律法の第二用法」は不信仰者に対するものであり、「神学的用法」あるいは「教育的用法」と呼ばれる。律法によって初めて、人は罪を正しく認識し、罪と死の力に対する自らの無力さを悟る。そして人は、神が遣わされた唯一の救い主イエス・キリストに救いを求めるようになり、悔い改め信仰告白へと導かれて、洗礼による新生を体験するに至る。

 

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。(ローマ3:19~20)

 

律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。(ガラテヤ3:24)

 

 「律法の第三用法」キリスト者に対するものである。

 

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5:17~20)

 

 第三用法については後に詳述したい。

 

  2 福音とは何か

 

和協信条・梗概・第5条 肯定

4.(抜粋)福音は、本来、神の律法を満たさず、その律法によって断罪されるべき人間が、何を信ずるべきかを教える教えである。すなわち、キリストが、すべての罪をあがない、その代価を支払い、罪人のどのような功績もなしに罪のゆるしと神の前での義、永遠の命を得、獲得してくださったことを教えるものである。

5.(抜粋)しかし、福音という語は、聖書において、一つの意味に用いられていない(中略)。福音という語が、キリストがその教えの務めにおいて説き、また、使徒もまた説いたキリストの教え全体と理解されるとき、福音は、悔い改めと罪のゆるしの説教であると言われまた書かれるのは正しい。

しかし、(中略)律法と福音とが対立させられるならば、(中略)福音は、悔い改めあるいは、有罪を宣告する説教ではなく、本来、慰めの説教、またよろこばしい使信のほか何ものでもなく、律法の恐怖に対して良心を慰め、良心にキリストの功績のみを指し示し、キリストの功績によって獲得された神の恵みと愛顧のありがたい説教によって、良心を再び勇気づけるものである。

 

和協信条・根本宣言・第5条

 福音は、本来次のような教えである。(人間が神の律法を守らず、これに背反し、自らの罪に堕ちた本性と思いと言葉と行ないとをもってこれに反抗し、その結果神の怒り、死、すべての一時的な苦しみ、地獄の火の罰に服することになったあとで)、人が信じるべきこと、すなわち、人は神のもとで罪のゆるしを得ること、つまり、神の子、われわれの主キリストは律法の呪いを己が身に引き受け、担い、われわれの罪をすべて償い、贖ったので、このキリストをとおしてのみわれわれは神のもとで再び恵みに至り、信仰によって罪のゆるしを得、死と罪のすべての罰とから解放され、永遠に救われるということを教えるのである。

 すなわち、慰めを与え、律法の背反者に神の愛と恵みとを伝えるすべてのものは本来福音であり、福音と呼ばれる。これは、神が罪を罰することなく、キリストのゆえにゆるしてくださるという、喜ばしい使信である。

 

 マルティン・ルターにとって「福音」は何よりも「罪の赦し」を与えるものであった。

 ローマ・カトリック教会では「告解の秘跡」が行われる。信徒は司祭に対して、自分が犯した罪をすべて告白しなければならない。告白の後、司祭は告白された罪について赦しの宣言をする。すると、忘れてしまった罪は告白できないので、赦されないことになってしまう。これでは信徒は救いを確信することができない。

 若い頃、ルターは厳しい修道生活をしながら毎日、罪を告白して悔い改めた。それでも救いの確証が得られなかったので、ルターは苦悩し続けた。これは罪の告白や禁欲的苦行という「行い」が救いの条件となってしまっている悪しき例である。福音を伴わない律法の教えと行い、これこそルターがプロテストして戦い続けたローマ・カトリック教会の根本問題である。その結果は、偽善と傲慢または絶望と滅亡である。そこに救いは無い。

 1512年10月にルターはヴィッテンベルク大学の聖書学教授となった。その後ルターは大学で「詩編講義」(1513年8月~1515年秋)、「ローマ書講義」(1515年冬~1516年9月7日)、「ガラテヤ書講義」(1516年10月27日~1517年3月13日)、「ヘブライ書講義」(1517年4月21日~1518年3月26日)を行った。この時期にルターは、パウロの説く「律法と福音」「信仰義認」について理解を深め、神学的な確信を得たと思われる。

 

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1:16~17)

 

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ3:22~24)

 

そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。(ローマ3:22~25)

 

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(ローマ3:27~28)

 

  3.律法と福音の並行

 

和協信条・梗概・第5条 肯定

1.律法と福音との区別は、特別に明るい光として教会において、とくに真剣に保持されるべきであり、これによって神のことばは(パウロのすすめによれば)正しく分かたれるのである。(抜粋)

5.罪の啓示に関しては、(中略)律法の説教のみを聞いて、キリストについて何も聞かず、こうして自分の罪を律法によって正しく認識するに至らないで、パリサイ人のようにおごりたかぶる偽善者となるか、あるいは、ユダのように絶望するかどちらかである。(抜粋)

8.これらのすべて(すなわち、キリストの受難と死)が、神の怒りを説教し、人を恐れさせるかぎり、それは、厳密に言って、まだ福音の説教ではなく、モーセと律法の説教であり、したがって、それは、キリストの非本来的な働きである。それをとおして、キリストは、恵みを説教し、慰めを与えまた生かすという本来の職務に赴かれる。これこそが、本来、福音の説教である。(抜粋)

 

和協信条・根本宣言・第5条

 聖なる福音の慰めある説教はキリストの功績を、律法の説教によって恐れを与えられて悔い改めようとするすべての罪人にさし出すのである。なぜなら福音は、無関心な、安全そのものの心に対してではなく、「打ちひしがれた者」、悔い改めようとする者に罪のゆるしを説くからである。ルカによる福音書4章[18節]。(中略)

 キリストなしの律法だけの説教は、外的な行ないをもって律法を充たすことができると考えるごうまんな人々を作り出すか、全く絶望に落とし入れるかである。(中略)

 キリストの霊は慰めるだけではなくて、律法の務めをとおして「罪についてこの世を罰する」[ヨハネ16・8]のであり、こうして新約にあっても、(預言者が言うとおり)、本来的な働きをするために非本来的な働きをする、すなわち、慰めるとか、恵みについて説教するなどといった本来の働きに至るまで、(罰するという)非本来的な務めを果たさねばならないのである。(中略)

 いつ、どのように行なわれるにしても、われわれの罪と神の怒りについて説教するものはみな、律法の説教である。逆に、福音とは、キリストにある恵みとゆるし以外のなにものをも示し、与えないような説教である。(中略)まだ自分の罪を認めず、神の怒りに打たれていない人人において律法の説教を認め、これを始めているのは、真であり、正しい。(中略)いや、み子キリストの苦しみと死以上に、罪に対する神の怒りの、どんなに深刻で恐るべきものであるかを示す説教があるだろうか。(中略)

  このようなことを「シュマルカルデン条項」も言っている。「新約は律法の務めを保ち、行なって、罪と神の怒りとを啓示するが、このような務めに加えてすぐさま、福音による恵みの約束を行なう」。また、「アウグスブルク信仰告白の弁証」はこう言っている、「正しい有益な悔い改めのためには、律法だけを説教するのでは十分ではない。福音もそれに加わらねばならない」。このように二つの教えが並んでいるのであって、両者は並行して、しかも一定の秩序のうちに、正しい区別をもって、与えられなければならない。律法の説教を教会から閉めだして、律法によってではなく、福音のみによって罪を罰し、悔い改めと痛みとを教えるようにしようとする反律法主義者、律法の転覆者は断罪されてしかるべきである。(中略)

 律法はその教えともども、福音によって説明され、解き明かされる(中略)

 このような二つの教えがこの世の終わりまでいつも熱心に、しかもここに述べたよい区別をもって、神の教会の中で教えられるべきであると、われわれは信じ、告白する。こうして、新約の務めのなかで、律法の説教と脅しとによって、悔い改めのない人間の心が恐れにみたされ、自分の罪の認識と悔い改めに導かれるのである。しかし、それは、彼らが意気阻喪し、絶望してしまうようなぐあいにではない。むしろ「律法は、われわれが信仰によって義とされるために、われわれをキリストに導く養育掛である」ガラテヤ人への手紙第3章[24節]から、つまり、キリストからではなく、「律法の終わり」であるキリストを指し示し、導くのだから、ローマ人への手紙第10章[4節]、彼らはわれわれの主キリストについての聖なる福音の説教によって再び慰められ、強められるのである。

 

和協信条・根本宣言・第6条

 このように彼らに訓戒しても、彼らが肉のゆえになまけ、怠り、強情であれば、聖霊は彼らを律法によって罰する。このように聖霊は二つの務めをあわせもつ。すなわち、「殺し、また生かし、よみにくだし、また上げる」[サムエル上2・6]。その務めは慰めるだけではなく、罰しもする。聖霊がくるとき、「それは罪と義とさばきとについて世(そこにはアダムも含まれる)を罰するであろう」と書かれているとおりである(ヨハネ16:8)。(中略)

 罰することは律法の本来の務めである。それだから信仰者は、つまずくたびごとに、神の霊によって律法をもって罰せられ、また、同じ霊によって再び立てられ、聖なる福音の説教をもって慰めを受けるのである。

 

 律法と福音は次のような相互的協力関係にある。

 

a. 律法は行為の基準を示すが、それに従う力は与えない。福音がそのを与える。

b. 律法は完全な遵守を要求する。福音は無条件で恵みを与える。

c. 律法は罪を示して絶望へと導く。福音はキリストの義が我がものとなる喜びを与える。

d. 律法は死の使いであり、福音は平和の使いである。

 

 それゆえ律法と福音を並行して教えることが.極めて重要である。

 

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 ところが、ローマ・カトリック教会は人々に福音を教えないで、自らの功績によって救いを獲得する道を教えた。ルターがヴィッテンベルクで聖書講義を行っていた頃、ローマ・カトリック教会は「贖宥状」(いわゆる免罪符)を販売して、「これを買えば罪が赦される。煉獄に囚われた魂も解放される」と人々に教えたのである。それはサン・ピエトロ大聖堂の建設資金と教皇らの浪費をまかなうために行われた大事業であった。

 これはイエス・キリストの「福音」とは正反対の教えであり、行いである。これは、人類の罪の代価を贖うために御自身を犠牲としてくださったキリストに対する、恐るべき冒涜である。その結果、人々を救いから遠ざけてしまう。

 それゆえルターは「贖宥の効力を明らかにするための討論」(いわゆる95箇条の提題)をヴィッテンベルク城教会の扉に掲示して、問題提起を行ったのである(1517年10月31日)。この『提題』には、福音に生きていないローマ・カトリック教会の誤りが明確に述べられており、ルターの福音理解が表出し始めている。この「提題」が期せずして宗教改革の口火を切ることになった。

 

マルティン・ルター『贖宥の効力を明らかにするための討論』(抜粋)

1.わたしたちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ……」[マタイ4・17]と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。

2.この言葉が秘跡としての悔悛(すなわち。司祭の職によって執行される告解と償罪)についてのものであると解することはできない

6.教皇は、神から罪責が赦免されたと宣言し、また確認するか、あるいは、もちろん自分に留保されている事項について――これらの事項を軽侮したら、罪責はまったく残ることになろう――赦免する以外には、どのような罪責をも赦免することはできない。

21.したがって、教皇の贖宥によって、人間はすべての罰から赦免され、救われると述べるあの贖宥説教者たちは誤っている。

26.鍵の権限によってではなく(彼はそうしたものをもっていない)、代祷の方法によって魂に赦免を与えることが、教皇として至当なことをしているのである。

27.箱の中へ投げ入れられた金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がると言う人たちは、人間を宣べ伝えているのである。

32.贖宥の文書で自分たちの救いが確かであるとみずから信ずる人たちは、その教師たちとともに永遠に罪に定められるであろう。

36.真実に痛悔したキリスト者ならだれでも、贖宥の文書がなくても彼のものとされているところの、罰と罪責よりの完全赦免をもっている。

37.真実のキリスト者ならだれでも、生きている者も死んでいる者も、贖宥の文書がなくても神から彼に与えられたものである、キリストと教会とのすべての宝にあずかっているのである。

62.教会の真の宝は、神の栄光と恵みとのもっとも聖なる福音である。

68.しかし、それら《贖宥》は神の恵みと十字架の敬虔とに比較すると、実際もっとも小さいものである。

76.これに反して私たちは、教皇の贖宥は、小罪のうちのもっとも小さいものでも、罪責に関するかぎりでは、これを除去することができないと言うのである。

78.これに反して私たちは、現教皇もまたどの教皇も、贖宥より大きいもの、すなわち第1コリント12章[28節]にあるように、福音、諸力、いやしの恵みなどをもっていると言うのである。

 

 現代のキリスト教においては「必要なのは福音だけであり、律法は不要である」という誤解や、「信仰者は罪を犯さなくなる」という誤解がしばしば見られる。人間はどこまでも深く罪に染まっている。「律法は不要である」とか、「きよめられた信仰者は罪を犯さなくなる」などと言う人たちは、その実存理解が欠けているのである。

 心のいやしが現代人の大きな課題となっているが、キリスト教のカウンセリングにおいては律法を語ることも必要である。

 律法と福音は常に並行して語らなければならないのである。

 

  4.律法と福音の区別

 

和協信条・梗概・第5条 否定

 それゆえに、われわれは、次のように教えられるならば、不正で有害なものと考え、これを斥ける。すなわち、福音は、本来、悔い改めと罰との説教であって、単に、恵みの説教のみではないとする。これによって、福音は再び、律法の教えとされ、キリストの功績と聖書とはあいまいにされ、キリスト者は正しい慰めをうばい去られ、教皇制に再び門戸が開かれるのである。(抜粋)

 

和協信条・根本宣言・第5条

律法と福音との区別は、神のことばが正しく区分され、聖なる預言者と使徒の書が正しく説明され、理解されるのに役立つ、特に明るい光である。この区別は特に熱心に保って、この二つの教えが互いに混ぜ合わされたり、福音が律法にされて、キリストの功績があいまいにされ、聖なる福音においてもちうる慰めを不安な良心から奪ったりすることのないようにすべきである。福音が正しく純粋に説かれるならば、人々は最もきびしい試練の中にあっても律法の恐怖を免れることができる。(中略)

 律法は「文字によって殺し」、「断罪を告げる務め」[第二コリント3・6、9]であり、福音は「信じるすべての者を救う神の力」[ローマ1・16]であって、「義を説教し」[第二コリント3・9]、「霊を与える」[第二コリント3・8]ものである。(中略)福音からくるものと、律法によって教えられ、学ぶところとでは、全く別の神認識である。(中略)

 これら(律法と福音の)二つの説教は、この世界の始めから神の教会において並んで、いつでも正当な区別をもって行なわれてきた。(中略)

 それだからといって彼らは神の恵みを誤り用い、それをあてにして罪を犯してはならない。パウロがコリント人への第二の手紙第3章[7-9節]で、律法と福音の区別を、基本的かつ強力に教えているとおりである。

この理由で、また、律法と福音というこの二つの教えが混ぜ合わされたり、混同されたり、一方に属していることがいま一方に帰せられて、教皇制において起こっているように、キリストの功績と恵みの行ないとがたやすくあいまいにされ、福音が再び律法の教えに変えられ、キリスト者は、律法の恐れに対して福音においてもつ正しい慰めを奪われ、神の教会において再び教皇制への扉が開かれるということがないために、次のようにしなくてはならない。すなわち、律法と福音の真の、正しい区別が、努力を傾けて教えられ、保たれて、律法と福音の混同にいたる原因、すなわち、律法と福音という二つの教えが混乱し、一つの教えにされるような原因を与えそうなものが、熱心に警戒されなければならないのである。だから、律法とは区別されて、本来福音と呼ばれている、福音そのものを、悔い改めと罰の説教としてしまうことは、危険であり、正しくないことである。

 

 神の真理を正しく理解しない、その無知や誤解、反抗のために、多くの人々は律法と福音を区別することができず、福音の恵みを受けられなくなっている。

 そもそも律法とは、「人間はいかなる存在であるか、いかに生きるべきか」という問題について答を与えるものである。

 律法は次の二つの戒めに要約される。

 

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:37、39)

 

 人間は神との交わり、隣人との交わりの中で生かされる存在である。けれども、人間は自力では律法を全うすることができず、常に破れを負っている。ただキリストの福音がもたらす新しい命、内住の聖霊、神の愛が、律法を全うする力を与えるのである(ガラテヤ5:22~23、6:2)。それゆえ、人が神の律法無しに自力で立ち得るという理解は、全くの誤解である。それにもかかわらず、人間はこの根本規定を否定しようとする。それこそ罪の力による倒錯であり、人間の自己神化である。

 

 律法と福音が混同されるならば、福音は福音として宣べ伝えられず、人々は律法主義や反律法主義、無律法主義に陥ってしまう。これはルターがローマ・カトリック教会や同時代の人々に見た現実である。律法と福音が混ぜ合わされたり、福音の説教が律法の説教に変質するときに、それのみで十分であるはずのキリストの功績があいまいにされて、人々は慰めを奪われ、恐れて、再び律法主義に向かう。こうして教皇制あるいはその如き教団が出現するのである。

 

  5.キリスト者の二重性

 

和協信条・梗概・第6条肯定

3.(抜粋)なぜなら、彼らは、生まれかわり、またその心の霊において新たにされているのであるが、しかも、このような新生と更新とは、この世においては、完全ではなくて、まだはじめられたばかりであり、信仰者は心の霊において、その肉に対し、すなわち、死に至るまでわれわれのうちに固着する腐敗した本性と性向[ガラテヤ5・17、ローマ7・21、23]に対して常にたたかうものなのである。人間の知力と意志とすべての能力のなかに、なお固く宿っている古いアダムのゆえに、主の律法が、いつも人間の前を照らしていることが必要である。それは、人間的な信仰にゆえに、かって気ままな自分好みの礼拝を行なうことのないようにするためである。

 

和協信条・根本宣言・第6条 律法の第三用法について(抜粋)

 しかし、信仰者はこの世にあっては完全に新たにされるということはなく、古いアダムが墓に入るまで彼にとりついているのだから、彼らのうちにも霊と肉との戦いが存在し続ける。だから、彼らは内的人間としてはたしかに神の律法に対して喜びをもつが、肢体の律法が心の律法と相争うことになる。だから彼らは律法なしでいることはなく、たとえ律法のもとに服しはしないにしても、律法の中にあり、主の律法のうちに生き、歩むのであるが、しかも律法に動かされてはなにひとつのことも行なわれない。

 しかし、彼らにとりついている古いアダムに関しては、律法をもってだけではなく、罰をもってしても駆り立てられねばならない。古いアダムはすべてのことを自らの意志に反し、強制されて行なうのであって、信仰のない者が律法の脅迫によって動かされて、服従させられるのと、あまり変わりがない。コリント人への第一の手紙第9章[27節]、ローマ人への手紙第7章[18-19節](中略)

 このように律法の教えも信仰者のよい行ないにおいて、またよい行ないのさいに必要なのである。そうでなければ人間は、自分の行ないや生活が全く純粋で完全であるとすぐさま思い込んでしまいがちだからである。だが神の律法は信仰者によい行ないを指示して、同時に鏡のごとくに、この生においてはわれわれのよい行ないはまだ不完全で不純であることを示し、教えるのである。(中略)

 だがそれでもなお彼らは古いアダムとずっと戦いを続ける。

 なぜなら、手に負えない、不従順のろばである古いアダムは、信仰者にもまだ一部残っているので、律法の教え、訓戒、駆使、脅迫をもってばかりでなく、またしばしば罰と悲惨の棍棒をもってキリストへの服従へと強制し、罪の肉を全く脱ぎ捨てて、人間が復活において完全に新たにされるまで、これを続けるべきである。

 

 「律法の第三用法」の教説の前提となっているのは、「新生したキリスト者のうちにも罪の法則と御霊の法則が終生、働き続ける」という理解である。

 使徒パウロはローマ書第6章から第8章にかけて、キリスト者の内面に存在するこの複雑な二重性の現実について教えており、第7章7~25節でパウロは自らの内なる罪の現実について述べている。これがルターの解釈である。

 キリスト者は「同時に義人であり罪人である」。この二律背反の逆説的真理こそ、ルターの神学を理解する鍵である。

 

私たちは、すべてのキリスト者が霊的と身体的という二種類の性質を持っていることを記憶しておかなければならない。魂の面では彼は、霊的な新しい内的な人と呼ばれ、血肉の面では、身体的な古い外的な人と呼ばれる。

出典:マルティン・ルターキリスト者の自由について』1520年

 

 ルターの救済論においてローマ書第7章が極めて重要な意味を持っていることは、彼の著作を見れば明らかである。

 

 7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。12 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。

 13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。(ローマ7:7~25)

 

 ローマ書第7章7~25節の「わたし」とは誰を指すのか。これについては以下のように解釈が分かれており、神学的に重要な問題となっている。

 

(1) 個人的な「わたし」

a)回心以前のユダヤ教徒パウロを指す

b)回心以後の一時期のキリスト者パウロを指す

c)現在のキリスト者パウロを指す

 

(2) 典型としての「わたし」

d)キリスト者の回心以前の状態を指す

e)キリスト者の回心以後の一時期の状態を指す

f)人間一般を指す

 

(3) 虚構の「わたし」

g)修辞的な虚構、神学的・ドグマ的な理論である

 

 文脈を考察すると、ローマ書第7章も、神の人類に対する救済計画について説き明かす論理の一過程と見ることができる。しかし、これをロジックやレトリックに過ぎないと片付けるには無理がある。これは、パウロが自分自身の内的な経験を基点として、それを拡張し、普遍的に見られるキリスト者心理的状態を表したものである、と筆者は考える。ただし、どこまでがパウロの個人的な告白であるか、一線を画すことができるようなものではない。

 このように考える理由を述べよう。

 

 第一に、一人称単数「わたし」を主語とする叙述は最も直接的で説得力のある文体であり、レトリックの域を超えた私的・個人的な肉声、「実感」を読者に感じさせずにはおかないからである。特に14~25節で一人称単数の現在形が用いられていることに注意したい。

使徒がこのテキスト(7:7)から7章の終わりまで、自分に即して、しかも霊的な人間として語り、決して<単なる>肉的な人間として語っていないことを、聖アウグスティヌスは……断固として主張している。

出典:マルティン・ルター『ローマ書講義』(著作集)

 

パウロはここに、単なる人間の本性そのままのものを論じようとは意図していないのである。むしろ、かれ自身を例として引いて、信仰者の持つ弱さがいかばかり大きいかを述べているのである。

出典:ジャン・カルヴァン著『新約聖書註解 ローマ書』

 

パウロはここで自伝的に語っているのであって、「私」は単に劇的な効果のためのものではない。
出典:F.F.ブルース著『ローマ人への手紙』(ティンデル聖書注解)

          

 第二に、この書の直接の受け取り手が、紀元57年にローマにいたキリスト者たちであったからである。

 ローマにおける最初のキリスト者の群れはユダヤ人が中心であったが、ユダヤ人は紀元49年にクラウデオ帝の勅令によりローマから追放された(使徒18:2)。54年にクラウデオ帝が死去したため、ユダヤキリスト者たちはローマに戻ることができた。しかし、57年に至ってもなお、ローマの教会では異邦人が多数を占めていたのである(ローマ11:18)。

 当時の世界の中心となっていたこの巨大なコスモポリスに暮らす人々の文化的背景は、多種多様である。この「わたし」を単なるレトリック=虚構だと理解できる人が、この手紙の受け取り手にどれほどいただろうか。

 

 第三に、この書が聖書の正典に含まれるように、神の霊感を受けて書かれたものだからである。
 ローマ書の原典は現存しないが、それがギリシア語の大文字が隙間無く綴られた文書であり、単語や章節の区切りが無いものであったことはわかっている。この書が2000年にわたって世界中の諸言語に翻訳され、多種多様なコンテクストに生きる諸民族・諸部族に読まれて、各地に教会が形成されていく。これが神の計画であり、それは実現されてきたのである。キリスト教教理の根幹を成すローマ書が、レトリックを理解できる教養の高い一部の人たちにしか理解できないような文書であったはずはない、と筆者は考える。

 

 タイセンは『パウロ神学の心理学的側面』で宗教心理学的釈義としてこう述べている。

論理的には矛盾であっても、心理的には共存するという場合がある。われわれの生活の意識される側面がその無意識の意図とは矛盾することがあるというのが、深層心理学的認識の出発点となることが多いのである。するとこの場合のテーゼはつぎのようになる。ピリピ3:4~6はキリスト者となる前のパウロの意識を再現し、これに対してローマ第7章のほうは、その当時は無意識だったが、後になって始めて意識されるようになった葛藤を述べたものである」(324~325頁)。「パウロキリスト者となる前の生活についてのもっとも重要な二つのテキスト、ピリピ3:4~6とガラテヤ1:13~14を見ていると、律法との無意識の葛藤があったという考えが湧いて来るのである」(327頁)。

 

 パウロは「律法の義については非の打ちどころがない者」(フィリピ2:6)と誇ることができたが、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(第一コリント15:9)、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」(第一テモテ1:15)という罪責意識も持っていた。律法に対する熱心が彼をその迫害に駆り立てたのだから、律法に関する彼のジレンマ、悩みは深いものであった。その内的経験が無ければ、ローマ書第7章ほど深い人間の内面の表現はできるものではない。

 

 キリスト者は、聖霊に満たされた状態にあること、すなわち、キリストの御霊によって動かされている状態にあることが望ましい。そのような時にはキリスト者は、ローマ書第8章に表されている完全な解放を喜びつつ、自発的・積極的に神のみこころに従うことができるのである。それが私たちキリスト者の常態であることが望ましいのだが、残念ながら現実にはそうはなっていない。パウロのように外面的には律法を完全に守り行っていると言い得る人であっても、自分自身の内面においては肉の法則=力と御霊の法則=力の葛藤を経験するのである。

 すなわち、ルターがパウロから学び、自ら経験し、説いた人間の内なる現実は、ローマ書第7章と第8章の状態が併存し、葛藤し、反復するのである。それゆえパウロは信徒たちに、「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と説いたのである(ローマ6:11)。

 

パウロは、キリストがこられて、時が成就することに言及している。しかし、あなたはこれを時に適応するだけでなく、心にも適応するがよい。なぜなら、キリストがこられて、歴史的に、時間的に起こったこと、すなわち、律法を廃し、自由と永遠のいのちを光のもとにもたらしてくださったことは、どのキリスト者においても、ひとりひとりに霊的に毎日起こることである。キリスト者においては律法の時と恵みの時がくり返し、交互に到来するものである。

出典:マルティン・ルター著「ガラテヤ大講解・下」(著作集第二集第12巻75頁)

 

 敬虔で誠実なキリスト者ならば、誰しもその葛藤を正直に認めるであろう。「私にはそのような葛藤は無い。私の内においては肉の働きは常に完全に死んでいる」という人があるならば、その人はよほどきよめられた人であるか、あるいはよほど己を知らぬ人であろう。「私は完全にきよめられている」と自認して、「私には誤りが無い」と主張し、悔い改めることの無い「キリスト者」ほど危険なものは無い。私たちは、その危険を経験的に知ることがある。

 

  6.律法の第三用法

  

和協信条・梗概・第6条 律法の第三用法について 

論争の問題点・この論争の主要問題

 律法は、次の三とおりの理由で、人間に与えられている。第一に、律法によって、粗暴な者、不従順な者に対して外的な規律が保たれること、第二に、律法によって、人が罪の認識に導かれること、第三に、生まれかわったのち、なお、肉が固着しているので、そのためある規範をもち、それに従って、人が、その全生活を実践し、整えること。

 

和協信条・梗概・第6条肯定

1.(抜粋)正しく信じ、真実に神に立ち帰った人たちは、キリストによって、律法の呪いと束縛とから解放され、自由にされているが、それだからといって、律法なしではいない。かえって、これらの人たちは、日夜神の律法において自らを修練するようにと[詩119・1以下]、神のみ子によってあがなわれたのである。

2.(抜粋)律法の説教は、信ぜず、まだ悔い改めない者に向けてなされるばかりでなく、正しく信じ、真実に回心し、生まれかわり、信仰によって義とされた者にも、熱心に説かれるべきである。

5.(抜粋)聖霊の実は、次のような行ないである。信仰者のうちに宿る神の霊が、生まれかわった者をとおしてはたらく行ないであり、信仰者が、生まれかわっているかぎり、どのような戒めも脅威もまた報酬も知らないかのように、信仰者によって行なわれる行ないである。この意味において、神の子らは、律法のなかで生き、神の律法に従って歩むのである。この生き方を、聖パウロは、その書簡のなかで、キリストの律法また心の律法と呼んでいる。このように神の子たちは、「律法のもとにではなく、恵みのもとにある」ローマ人への手紙第7章[23節]、第8章[1節と14節、また6・14]。

6.(抜粋)律法は神の不変の意志である。これに服従するというかぎりにおいて、区別は人間の側にのみある。(中略)しかし、信仰者は、新たに生まれた者であるかぎり、強制されることなく、自発的な霊によって、いかなる律法のおびやかしも強要することのできないようなことを行なうのである。

 

和協信条・根本宣言・第6条 律法の第三用法について(抜粋)

なぜなら律法は神のみこころにかなうことが本来描き出されている鏡であって、これを信仰者にいつでも示し、絶えまなく熱心にこれを突きつけるべきだからである。

(中略)

この生にあっては正しい信仰をもつ、選ばれ、生まれかわった神の子らは、肉のこのような欲のゆえに、律法の日ごとの教えと勧告、警告、威嚇を必要とするばかりか、しばしば罰をも必要とする。目ざめさせられて、神の霊に従うようになるためである。

(中略)

 律法はたしかに、われわれが新しい生活をすることが神のみこころであり、意志であると告げはするが、われわれがそれを始め、行なうことのできるような力と能力を与えてはくれない。律法によってではなく、福音の説教によって与えられ、受けとられる聖霊が(ガラテヤ人への手紙第3章[2、14節])心を新たにするのである。そのあとで聖霊は律法を用いて、生まれかわった人を律法によって教え、彼らに十戒を示し、なにが「神の喜ばれる、神のみこころ」であるか(ローマ人への手紙第12章[2節])、彼らがどのような行ないをして「日を過ごすようにと、神があらかじめ備えてくださった」のか(エペソ人への手紙第2章[10節])を教えるのである。

(中略)

人が神の霊によって新たに生まれ、律法から自由にされているならば、すなわち、この(律法という)御者から解放されて、キリストの霊によって動かされているのならば、彼は、律法に示されている神の変わることのないみこころに従って生き、新しく生まれた者としてすべてのことを自由な、喜ばしい霊をもって行なうのである。このようなものは、もともと律法の行ないと呼ばれているのではなくて、霊の行ないと実と呼ばれており、また、聖パウロが呼んでいるように、心の律法であり、キリストの律法である。

(中略)

こうして律法のこのような教えもまた、信仰者が自分の聖さや信仰深さに依り頼み、神の霊のみせかけのもとで、神のことばや命令なしに自分で選んだ礼拝をうちたてることのないようにするため、信仰者にとって必要なのである。

(中略)

 こうして、パウロは新しく生まれた者によい行ないについて訓戒し、彼らにはっきりと十戒を示している、ローマ人への手紙13章[9節]。

(中略)

律法は、神のみこころにかなおうとするには全く完全な服従を求めているからである。だが、福音は、われわれの「霊的な献げもの」が「信仰により」、「キリストのゆえに」神に受け容れられていることを教える。こういうわけで、キリスト者は律法のもとにおらず、恵みのもとにいる。人は、キリストを信じる信仰によって律法の呪いと断罪から自由にされているからであり、そのよい行ないは、たとえ不完全で不純であっても、キリストによって神に受け容れられているからであり、彼らは律法の強制によらず、聖霊が心を新たにするがゆえに、喜んで、強制されずに、内的人間として新たに生まれたままに、神のみこころにかなうことを行なうからである。

(中略)

それゆえ、律法は上に述べられたような仕方と程度で、キリスト者や正しい信仰の者たちに課せられるのではなくて、不信仰者や非キリスト者や悔い改めのない者だけに課せられるのだと教えられるならば、われわれはこれを、有害な、キリスト教的訓練やまた真の信仰の妨げになる誤りとして斥け、断罪するものである。

 

 「和協信条」(1577年)には「律法の第三用法」が明記されているが、20世紀前半に起こった「ルター・ルネッサンス」においては、「ルターは律法の第三用法について教えていない」と主張する神学者たちもいた。しかし、その主張は誤りである。「律法の第三用法」という用語はメランヒトンが著した『神学要綱』の第2版(1535年)で初めて正式に使用されたのだが、その内容は宗教改革の初期からすでにルターが教えていたことであった。

 まず、1518年のマルティン・ルター著「ハイデルベルク討論」を見てみよう。

 

このようにキリストは信仰によって私たちのうちにいまし、確かに私たちと一つになりたもうからである。そしてキリストは義なるかたであり、また、神のすべての戒めを満たしたもうかたである。それゆえに信仰によって《キリストが》私たちのものにされるかぎり、私たちもキリストによってすべての戒めを満たすのである。

(命題26の証明)

 

なぜなら、キリストが私たちの中に信仰によって住みたもうやいなや、彼は彼のみわざに対する、かの生ける信仰によって、私たちをわざへと動かしたもうからである。それゆえ彼自らなしたもうみわざというのは、私たちに与えられた神の戒めを信仰によって満たすことであり、私たちが注意深くみると、私たちはキリストのわざにならおうとするようになる。

(命題27の証明)

 

 宗教改革の初期にルターは「信仰義認の教えは善い行いを否定して、キリスト者の倫理を破壊するものである」と批判された。それに対するルターの答えが『善い行いについて』(1520年)という文書である。この書においてルターは、キリスト者がいかにして「十戒」を実践していくべきであるか、を教えている。

 

第9 見よ、これが第一戒の行いである。そこでは「あなたは他の神々を持ってはならない」と命ぜられている。それは「私だけが神なのだから、あなたは私だけにあなたの全信頼と誠実と信仰とをおくべきであって、ほかのなにものの上にもおいてはいけない」と言われるのに等しい。(中略)この信仰と誠実、心の底からのこの信頼、これこそ第一戒を真実に満たすところのものである。これを欠いては、第一戒を満たしうるいかなる行いもほかにはない。この戒めが第一の最大最善のものであって、この戒めから他のすべての戒めが流れ出て、その中を流れ、これに従って整えられ、はかられるのと同じように、その行い(すなわち神の恵みに対する常住不断の信仰と信頼)も第一の最大最善のものであり、他のいっさいの行いはそれから流れ出て、その中を行きその中にとどまり、またそれに従って整えられ、はかられねばならないのである。

(中略)

第11 このように義が信仰に基づくものであるならば、信仰だけがすべての戒めを満たし、すべての戒めの行いを義とすることは明らかである。なぜならば、神のすべての戒めを行うのでないならば、何びとも義とはなりえないからである。反対に信仰がなければ、いかなる行いも神の前に人を義とすることはできない。

 

 この時すでにルターは、キリスト者の生活における律法の規範的機能について十分に教えていたのである。

 1522年の『ローマ人への手紙序文』では、この思想が発展して、さらに豊かな内容を持っている(以下に抜粋)。

 

 神の霊こそが人間を律法と等しくし、人間が心から律法を好み、これからは恐れや強制からではなく、自由な心からすべてを行うようにしてくださるのである。このように律法は霊的であり、霊的な心をもって愛され、成就されることを欲するのであり、そのような霊を求めるのである。

 

 律法を成就するとは、あたかも律法や罰などないかのごとくに、喜んで愛をもって律法の行いをなし、律法の強制なしに自由に神のみこころに適うよい生き方をすることである。だが、自由な愛のこのような思いは、聖霊が心の中に与えてくださるものである。(中略)だが聖霊は……イエス・キリストを信じる信仰において、その信仰とともに、その信仰をとおしてのみしか与えられない。そしてキリストが神の子であって人であり、私たちのために死んで復活したというようにキリストを説教する、神のことば、すなわち福音のみによるのでなければ、信仰はないのである。

 ここからして、信仰のみが義とし、律法を充たすこととなる。なぜなら、信仰のみがキリストの功績による霊をもたらすが、この霊が、律法が要求しているようなことを喜んで行う自由な心を造るからである。

 

 しかし恵みは、私たちが律法を愛するようにする。こうしてそこには罪がもはやなくなり、律法はもはや私たちに逆らわなくなり、私たちと一つになる。

 これこそ罪と律法からの真の自由であって、これについて彼はこの章の終わりまで書いて、これこそ律法の強制なしに、意欲と正しい生活とをもって、よいことのみを行う自由であると教える。それゆえこの自由は霊的な自由であり、律法を廃棄することなく、律法によって要求されていることを意欲と愛とをもって起こすものにほかならない。 

 

 ルターの「小教理問答」(1529年)では最初に「十戒」が教えられている。これは第二用法(糾弾的用法・教導的用法)として人を絶えず悔い改めに導く機能を持っているが、それと共に、むしろ第三用法としてキリスト者の生活を神の御心にかなった道へと導く機能をより強く持っている(以下に抜粋)

 

第一部 十戒

われわれは、神を恐れ、愛すべきです。

神は、これらの戒めにそむくすべての人をさばくと、警告なさいます。それゆえ、われわれは神の怒りの前に恐れおののいてこれらの戒めにそむかないようにするべきです。しかし神は、これらの戒めを守るすべての人々に、恵みと幸いとを約束されます。それゆえわれわれもまた、神を愛し、信頼し、神の戒めに従って喜んで行動すべきです。

 

第三部 家訓

一般の人々に対して

「そのほかに、どんな戒めがあっても、結局『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』ということばに帰する」。ローマ人への手紙第13章[9節]。「すべての人々のために、願いと、祈りと、とりなしと、感謝をささげなさい」テモテへの第一の手紙第2章[1節]。

 

おのおのその教えを学びなさい。

そうすれば全家に幸いがあるであろう。

 

 このようなルターの思想は、メランヒトンの手による「アウグスブルク信仰告白」(1530年)にも表されている(以下に抜粋)。

 

第6条 新しい服従について

そのような信仰は、よい実と、よい行ないとをもたらさずにいない。また人は、神が命じられたあらゆる種類のよい行ないをしなければならない。

 

第20条 信仰とよい行ないについて

 われわれの教師たちは、よい行ないを禁じていると、誤った非難を受けている。

 よい行ないはなされるべきであるし、なされなくてはならない。われわれが、それによって恵みを獲得するようにそれに依存するからではなくて、神のみ旨を行ない、また神をほめたたえるためである。
 信仰によって聖霊が与えられるときに、心はよい行ないをするように動かされる。それ以前、すなわち聖霊がないときには、心は弱すぎる。そればかりでなく、悪魔の力の中にある。

 そうした高い、正しい行ないは、キリストの助けなしにはなしとげえない。それは、彼ご自身がヨハネによる福音書第15章[5節]に「わたしを離れては、あなたがたは何事もすることができない」と言われるとおりである。

 

 メランヒトンの弟子が関わった改革派の「ハイデルベルク信仰問答」(1563年)では「律法」が第一部と第三部に分けて教えられており、特に後者に力点がある。これは明らかに律法の第三用法を意識した配置である。

 

 以上のように、律法の第三用法は、生まれかわった神の子ら=キリスト者に適用される。新生したキリスト者も、肉の欲のゆえに、日毎に律法の教えと勧告、警告、威嚇を必要としており、しばしば罰をも必要とする。パウロは「自分の体を打ちたたいて服従させます」と言っている(第一コリント9:27)。それは魂が目ざめさせられて、神の霊に従うようになるためである。律法の光に従う真摯な悔い改めとその実を結ぶことが、キリスト者には終生、必要なのである。

 では、キリスト者は霊的に成長することなく、同じ霊的な高さにとどまるべきなのか? 否、そんなことはない。回心の時の「悔い改め」は一度きりであり、その後に生涯続く「悔い改め」とは区別すべきである。私たちキリスト者は霊的に「幼子」の状態でとどまっていてはいけない(第一コリント3:2、ヘブライ5:12~14)。

 キリスト者の悔い改めと聖化について、ルターは次のように教えている。

 

 この悔い改めは、キリスト者において、死に至るまで継続する。なぜなら、彼らは肉にとどまっている罪と生涯戦うからである。それは、聖パウロがローマ人への手紙第7章[23節以下]に、彼はその肢体の律法と戦うと証言しているとおりである。そしてこの戦いは、自分自身の力によってではなく、罪のゆるしに続いてくる聖霊の賜物によってなされる。この賜物は、残っている罪を日ごとにきよめ、人をほんとうに純粋で聖なる者にするのである。

出典:『シュマルカルデン条項』第3部「教皇派の偽りの悔い改めについて」1537年) 

 

 聖霊によって新たに生まれた人は、聖霊によって動かされるようになる。聖霊に満たされているときに、その人は自発的に喜んで、律法に示されている神の変わることのないみこころに従って生きるのである。

 

  結論

 

 ルター神学は他の教派の神学者から誤解を受けやすいようであるが、ルターの書いたテクストを読むならば、ルターの「律法と福音」の教説は、「信仰義認」だけではなく、「キリスト者の聖化」についても大変豊かな内容を持っていることがわかる。ルターは、パウロがローマ書において説いた「義」が法廷的な意味を持つだけではなく、実効的な力を持つものであり、義認と聖化に連続性があることを、十分に理解して、教えていたのである。

 ただし、ルター神学には、他の教派の神学に比べて特別に強調されている人間観がある。それは人間の罪性の深さであり、キリスト者の生涯に根強く残る罪の力である。すなわち、キリスト者はみな「霊的かつ肉的」、「義人であり罪人」、「善人であって悪人」なのである。このキリスト者が持つ二重性は逆説的であるが、我々キリスト者が経験する現実である。

 なぜこのような二重性があるのか? それは、「神の国」が「すでに」到来したものであると同時に「いまだ」完成していないという、終末論的な緊張関係のただ中に我々が生きているからである。この二重性の現実ゆえに、パウロは、キリストが再臨して自らの体が贖われる時を切実に待ち望んでいたのである。

 このような理解ゆえに、「キリスト者はその生涯において最後まで悔い改めを続けるべきである」とルターは教えた。その悔い改めにおいて、キリスト者は日々、義認と新生を与える洗礼の恵みを更新させていただくのである。

 

私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めなさい……」[マタイ4章17]と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。

出典:マルティン・ルター「贖宥の効力を明らかにするための討論」提題一

 

  なお、律法の第三用法は、キリスト者の聖化に深く関わる重要な教説であり、もっと教会で信徒に対して教えるべきであろう。律法はキリスト者生活の規範であり、導き手なのである。ただし、律法は道を示すだけである。キリスト者にその道を歩む力を与えるのは福音であり、聖霊である。もし、福音を抜きにして律法の第三用法を語るならば、律法主義に戻ることになってしまう。これは聖化を強調する人たちが陥りやすい罠である。律法と福音は並行して、かつ区別して教えなければならない。

 実に、神は、矛盾を内包する人間、二重性を持つキリスト者を十全に救うために「律法と福音」、この二つの原理を与えてくださったのである。

 

 【参考文献】

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竹森満佐一訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、1961年

アンドレ・ペリー『ハイデルベルク信仰問答講解』新教出版社、1971年

蓮舫氏の戸籍公開記者会見について

 7月18日午後、民進党蓮舫代表が党本部で記者会見を行い、台湾(中華民国)籍と日本国籍の「二重国籍」疑惑を晴らすべく、戸籍謄本の一部など関係書類を公開した。果たしてこれで疑惑は晴れたのか。

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【ノーカット】民進党・蓮舫代表が戸籍資料公開 台湾との「二重国籍」問題で

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戸籍謄本には、本人が日本国籍選択を宣言した日として「2016年10月7日」と明記されている。今年6月28日付で東京都目黒区で交付されたという。台湾籍離脱を証明する書類として、台湾当局から16年9月13日付で交付された「国籍喪失許可証書」も公表した。(時事通信

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【事実関係】蓮舫氏は、台湾人の父謝哲信さんと日本人の母斉藤桂子さんの長女として、1967(昭和42)年東京都で生まれた。出生時は中華民国であり、中華民国名は「謝蓮舫」(Xie Lien-Fang)、通称名は「斉藤蓮舫」(さいとう れんほう)であった。1984年の国籍法改正で父母両系血統主義になったために、1985年日本国籍を取得し、中華民国と日本国の二重国籍となった。1994年にフリージャーナリストの村田信之さんと結婚して、本名(戸籍名)は「村田 レンホウ」、通称名は「村田 蓮舫」となった。 「蓮」は1990年に法務省令によって人名用漢字に追加されたが、「舫」は現時点(2017年7月)では人名用漢字に選定されていないため、日本では本名に使用できない。

 蓮舫氏は2004年7月参議院議員となり、 2010年6月行政刷新担当大臣となった。以後、内閣の要職を歴任して、国政の中枢に参与した。 2015年1月に野党第一党である民主党代表代行となり、 2016年9月民進党代表となった。

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 蓮舫議員の「二重国籍」疑惑は、蓮舫氏が民進党代表戦に正式に立候補した2016年9月9日の直前、8月29日から始まった八幡和郎氏の「アゴラ」での記事連発がきっかけとなり、テレビ等に広がった。

蓮舫にまさかの二重国籍疑惑 – アゴラ

 その渦中の9月8日に蓮舫氏は、フェイスブックに次のように書いている。

私は、生まれたときから日本人だという気持ちが強いのですが、法律的には、女子差別撤廃条約の締結を目前にして改正国籍法が施行(昭和60年1月1日)された直後の昭和60年1月21日、日本国籍を取得しました。17歳のときでした。
日本法の下で適正な手続きを行い、国籍の届出を行いました。私は、日本人です。
私が台湾法において、籍があるのかというご指摘がありました。
高校生の時、父親と台湾の駐日代表処に赴き、台湾籍放棄の手続きを行ったという記憶があります。私は、台湾籍を放棄して今日に至っているという認識です。
この点について、今般、確認を行いましたが、いかんせん30年前のことでもあり、今のところ、確認できていません。
今後も確認作業は行いたいと思いますが、念のため、台湾の駐日代表処に対し、台湾籍を放棄する書類を提出しました。

蓮舫 - 私は日本人です。 日本で生まれ、日本で育ち、日本の風土で育てられ、日本で結婚し双子を育ててきています。... | Facebook

 国籍法には次の規定がある。

第十四条  外国の国籍を有する日本国民は、外国及び日本の国籍を有することとなつた時が二十歳に達する以前であるときは二十二歳に達するまでに、その時が二十歳に達した後であるときはその時から二年以内に、いずれかの国籍を選択しなければならない
2  日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法 の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言(以下「選択の宣言」という。)をすることによつてする。

第十六条  選択の宣言をした日本国民は、外国の国籍の離脱に努めなければならない

国籍法

 蓮舫氏はこれまで「17歳の時に父親が台湾籍離脱の手続きをしてくれていたと思っていた」。「高校生の時、父親と台湾の駐日代表処に赴き、台湾籍放棄の手続きを行った。1985(昭和60)年1月日本国籍を選択したので、それ以降は台湾籍を放棄したと思っていた」と説明してきた。しかし、今回の記者会見で公開された蓮舫氏の台湾発行旅券(パスポート)は、1987年7月4日で期限切れのものだ。蓮舫氏は当時このパスポートを見た時に、1985年より後も台湾籍を持っていることを自覚していたはずだ。

【更新】蓮舫代表は国籍離脱について嘘をついている – アゴラ

旅券法第23条  
次の各号のいずれかに該当する者は、五年以下の懲役若しくは三百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。 
一  この法律に基づく申請又は請求に関する書類に虚偽の記載をすることその他不正の行為によつて当該申請又は請求に係る旅券又は渡航書の交付を受けた者

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論点1】記者会見で蓮舫氏は、二重国籍のまま国会議員であったことは過失であったかのように、弁明した。これは本当に過失と言えるのか

 

 公職選挙法235条によれば、職業もしくは経歴などに関し虚偽の事項を公にした者は、2年以下の禁錮又は30万円以下の罰金が課される(虚偽事項の公表罪)。

公職選挙法235条1項
(虚偽事項の公表罪)
当選を得又は得させる目的をもつて公職の候補者若しくは公職の候補者となろうとする者の身分、職業若しくは経歴、その者の政党その他の団体への所属、その者に係る候補者届出政党の候補者の届出、その者に係る参議院名簿届出政党等の届出又はその者に対する人若しくは政党その他の団体の推薦若しくは支持に関し虚偽の事項を公にした者は、2年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処する。

 この規定は故意犯のみを対象にしている。過失犯(虚偽と認識していなかった場合)は、処罰の対象にならない。したがって、仮に公表事実が虚偽であっても、そのことを本人が認識していたことを検察が裁判で立証できないと無罪となる。

 

 まず、朝日新聞の1992年6月25日夕刊には、蓮舫氏への取材をまとめた「自分の中にアジアを感じる ゆくゆくは報道を」と題する記事がある。その記事には、こう記されている。

父が台湾人、母が日本人。十九歳のとき、兄弟の就職もあって日本に帰化した。東京で生まれ育った身にとって暮らしに変化はなかったけれど、「赤いパスポートになるのがいやで、寂しかった」。 
父や祖母を通して触れた台湾、アジア。自分の中のアイデンティティーは「日本」とは違うと感じる。

 「赤いパスポート」とは、日本のパスポートのことだ。

 

 蓮舫氏は1993年にニュース番組「ステーションEYE」のメインキャスターに起用されると、「在日の中国国籍のものとしてアジアの視点にこだわりたい」と抱負を語った(Wikipedia)。

蓮舫 - Wikipedia

 

 文藝春秋の女性誌「CREA」1997年2月号では、北京大学に留学中の蓮舫氏が、インタビューに答えて次のように述べている。

私は中国人の父と日本人の母の間に生まれたんですが、父親が日本人として子どもを育てたので日本のことしか知らないし、日本語しか話せない。それが自分の中でコンプレックスになっていました。だから自分の国籍は台湾なんですが、父のいた大陸というものを一度この目で見てみたい、言葉を覚えたいと考えていました。 

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 以上から明らかなように、蓮舫氏は自身が台湾(中華民国)籍を持つ在日中国人であることを明確に意識していた。それゆえ、蓮舫氏の二重国籍問題は、「過失」とは言えないのではないか。

news.livedoor.com

 2016年9月の民進党代表選を前にして二重国籍疑惑が問題化するまで、蓮舫議員は「台湾籍から帰化した」と公言していた。

民進党蓮舫代表は18日の記者会見で、日本国籍と台湾籍の「二重国籍」の状態のまま立候補した平成16年の参院選選挙公報で「日本国籍のみ」と読み取れる経歴を表示していたことについて「(台湾籍離脱を)故意に怠っていたわけではない。台湾籍を放棄していたと思っていた」と釈明した。(産経新聞

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 この選挙公報の「プロフィール」欄には「1985年、台湾籍から帰化」とある。

 

論点2】公職選挙法には重国籍者を排除する規定が無い。しかし、蓮舫氏が二重国籍のまま国会議員であったことの政治責任は、免れないのではないか。

  

 そもそも、公職選挙法に重国籍者を排除する規定が無いことに、大きな問題がある。これは改正すべきだが、ここでは蓮舫氏の問題に専念したい。

 公職選挙法235条1項の「虚偽事項の公表罪」の時効は3年であり、蓮舫氏の場合、時効が成立していると考えられる。

 しかし、国民の代表として立法を行う国会議員、そして法律に基いて行政を行う大臣が、国籍法によって義務づけている国籍選択の宣言を行っていなかったことや、有権者に対して自らの国籍を偽ってきたことは、決して軽い問題ではない。刑事責任は問えないとしても、蓮舫氏の政治責任は重く、免れないものだ。

news.yahoo.co.jp 1992年に参院選で当選した民社党の新間正次議員は、学歴詐称の嫌疑で在宅起訴され、有罪判決が確定したため、当選無効となった。 2003年の衆院選で当選した民主党古賀潤一郎議員は、学歴詐称の嫌疑で刑事告発され、自ら議員を辞職した。
 ちなみに最近オーストラリアで、二重国籍のまま議員活動をしていた国会議員の辞職が相次いでいる。

オーストラリアの野党・緑の党に所属するスコット・ラドラム上院議員(47)は14日、二重国籍と知らずに過去9年間、議員活動をしていたとして、議員辞職した。(時事通信

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オーストラリアの野党・緑の党の副党首、ラリッサ・ウオーターズ上院議員(40)は18日、二重国籍だったことが判明したとして、議員辞職した。(時事通信

 

論点3】記者会見で蓮舫氏は「共生社会・多様性を強調する民進党として、国籍に関する法律の規定を改正する方向で議論を進めたい」と語った。北朝鮮・中国・ロシアによって国際関係の緊張が生じている東アジアで、これは適切だろうか。

 

 今回の記者会見の最後に、蓮舫氏は次のように述べた。

民主党時代から、国籍選択制度の見直しは政策として掲げられていました。複数のルーツを持つ人たちから、「両国間を往来することもあるため、重国籍を容認してほしい」「ダブルのアイデンティティを認めてほしい」といった要望があったからです。今回の件を受けて、民進党内でも国籍法について改めて議論していきたい

人・モノ・金が国境を越える時代にいまの法律が合わないのであれば、改正をする必要がある民進党は先陣を切りたい。

「今回、選択宣言の日付を公開し、台湾籍が残っていないことをお伝えしたが、こうした開示は私で最後にしてもらいたいと思います。全て国民は法の下に平等だ。人種性別社会的身分などで差別をされてはいけない。親や本人、子供の国籍髪や肌の色名前など、日本人と違うところを見つけて「違わないということを戸籍で示せ」と強要することがない社会をしっかりとつくっていきたいと思っています。

多様性の象徴でもある私が、自らの経験をもって差別を助長することのない社会、多様性を認め合う共生社会を、民進党代表としてつくっていきたいということを最後に強く申し上げたいと思います。

 この記者会見で蓮舫氏は、自身の二重国籍問題をグローバリゼーション民族差別に関係づけようとしている。しかし、それは不当な問題の混同であり、国会議員としての責任をごまかすものでしかない。 

 

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【結論】第一野党党首は、総選挙で与野党が逆転すれば、国政のトップ=内閣総理大臣にも成り得るポジションである。外交官になる者は、外国籍を離脱することが条件とされている。ましてや、国籍のあいまいな者が、外交の最高責任者であり、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣になることなど、あってはならない。

 ちなみに、オーストラリアは重国籍者が非常に多い国だが、<緑の党は対策として、候補者の国籍保有状況を事前に確認する仕組みを導入する考えだ>(時事通信)。国会議員は一国の命運に関わる重責を担うのだから、これは当然だろう。
 この問題の処理を誤れば、民進党政権担当能力を疑われるばかりか、解党の危機に至る危険性さえあるだろう。

 蓮舫氏はまだ若い。筆者と同じ49歳だ。ここは潔く民進党代表辞任して、議員辞職し、「村田 レンホウ」として国政選挙に再挑戦し、国民の審判を仰ぐのがよろしいのではないか。

キリスト教終活・葬儀の宣教的ポテンシャル

 今、急速に進行する少子高齢化=人口減少によって、日本社会の様々な領域で危機的な変化が起こっている。男性・女性ともに平均寿命が80歳を超えて、今や日本は世界に冠たる長寿国である。そして、一年間の死亡者数が130万人以上という「多死時代」を迎えている。一年間の出生者数は100万人を割り込んでおり、人口減少は止められない。

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 「多死時代ならば、僧侶は忙しいはず」と思われようが、直近のわずか数年の間に、驚くほど日本人の「寺離れ」が進んでいる。今や関東圏では、伝統的な葬儀は3分の1しかない。家族葬が3分の1、残る3分の1は直葬やごく簡単な一日葬である。東京都内には、数千基が納骨できる「無宗教式永代供養」の巨大な「納骨堂」が10棟以上もあり、これがどんどん増えている。

無葬社会 彷徨う遺体 変わる仏教

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  一方、地方圏では地域住民の高齢化と若年層の大都市圏への流出によって、伝統的な血縁共同体である「イエ」と地縁共同体である「ムラ」社会が次々と瓦解している。イエとムラに支えられてきた寺院と神社は、住職も神主も不在となり、実質的に消滅している。

寺院消滅

寺院消滅

 

  今や「寺院消滅」「無葬社会」(鵜飼秀徳)の時代である。これは、日本のキリスト教にとって、どのような意味を持つのか。我々キリスト者・牧師・教会は、具体的にどのようにこの状況に対処すべきだろうか。

データブック日本宣教のこれからが見えてくる キリスト教の30年後を読む (いのちのことば社)

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  日本におけるキリスト教の宣教には数多の障壁がある。その中でも歴史的に最大の障壁となってきたのは、いわゆる檀家制度(寺請制度)である。江戸幕府は、日本中のすべての家に仏教寺院の檀家となるように強制した。これはキリシタン禁制政策として創られた制度であった。檀那寺(菩提寺)は宗旨人別帳を作り、寺請証文(寺請状、寺証文、宗旨手形)を発行して、その家が檀家であること、すなわちキリシタンではないことを証明した。仏壇の無い家は「邪宗門」として告発する定めがあった。

キリシタン禁制と民衆の宗教 (日本史リブレット)

キリシタン禁制と民衆の宗教 (日本史リブレット)

 

  また、幕藩体制の下で、民衆は近隣ごとに五戸前後を一組として「五人組」を組織させられた。その目的の一つは、民衆がキリシタンにならぬよう相互に監視させることであった。組からキリシタンが独りでも出たら、組全員が連座制で処刑される。これによって、日本人は相互に監視し合い、いつも他人の目を意識する縮み志向が身に付いてしまった。明治維新廃藩置県によって五人組は法的に消滅したが、「隣組」にその組織は受け継がれた。それが、地縁による住民自治組織である「町内会」「自治会」の基礎となった。

  伝統的な血縁共同体と地縁共同体が瓦解し、檀家制度が崩壊しつつあることは、キリスト教宣教にとっては「障壁」が崩れるのであるから、好機であろう。しかし、宗教学者島田裕巳は、――現代の日本に起こっているのは世俗化であり「宗教消滅」である――と論じている。教会が寺院や神社、町内会自治会等の担ってきた役割を正しく評価し、それを代替あるいは補完できるのでなければ、教会もまた消滅していく危険性が高いのである。

  最近、巷では終活、エンディングノートが大変なブームとなっている。葬儀への関心も非常に高まっている。昨年秋に、私が部長を務めていた日本イエス・キリスト教団兵庫教区婦人部でも、終活セミナーを開催した。209名の参加者があり、大変好評であった。この問題の本質は死生学であり、キリスト教こそ「解決」を持っている、と我々は信じている。終活、エンディングノートターミナルケア、葬儀に関して今、キリスト者・牧師・教会が取り組むべきことは何だろうか。それにどのような宣教的ポテンシャルがあるのだろうか。

キリスト教の終活・エンディングノート(ブルー)

キリスト教の終活・エンディングノート(ブルー)

 

  筆者の父親の実家は新潟・直江津で代々、浄土真宗大谷派の寺院の熱心な信徒であった。その家宅は、親鸞が船で上陸した浜の近くにあった。父と伯母と祖母がクリスチャンとなり、一度は金井の本家は檀家を止めた。その頃に、家督を継いだ伯父が、寺から返された金井家の「過去帳」を筆者に見せてくれた。その伯父は若い頃には熱心なキリスト教の求道者だったが、結局、キリスト者とならず、葬式をその菩提寺で行ってもらい、金井家の過去帳は寺院に返却することとなった。日本で伝道・牧会をしていると、このような問題にしばしば直面する。

冠婚葬祭のひみつ (岩波新書)

冠婚葬祭のひみつ (岩波新書)

 

  筆者は横浜市の行政職員として勤務していた時期に、自治会町内会連合会の事務局と商店街連合会の事務局を務めたことがある。その関係で、地域社会の実態を実務的に経験することとなった。自治会町内会や商店街は、イエ社会・ムラ社会を代表する組織であり、神社や寺院との関係が深い。おかげで筆者は、いろいろな宗派の葬儀を経験させてもらった。人が人にふさわしい生活・人生を送るために、イエやムラが果たしてきた役割は絶大なものであり、寺院や神社が持っているソーシャル・キャピタルとしての有用性もまた絶大なものである。それが失われていくことを惜しむ思いが、筆者にはある。それはこの国の基盤が揺らぐことでもある。

人口減少社会と寺院: ソーシャル・キャピタルの視座から

人口減少社会と寺院: ソーシャル・キャピタルの視座から

 

  役所を退職してから筆者は、日本伝道隊の運営する関西聖書神学校で学び、卒業後、日本イエス・キリスト教団の三つの教会で14年余り伝道牧会に従事してきた。筆者の任地は北海道・関東・関西と移ってきたが、どの地においても寺院や神社等の伝統宗教の存在は、伝道の大きな障壁となった。しかし、地方消滅・寺院消滅の時代にあって、「キリスト教にはチャンス到来だ」と火事場泥棒のごとく喜ぶようでは、決してキリスト教は日本人の心をとらえることができまい。

「異教としてのキリスト教」からの脱却

「異教としてのキリスト教」からの脱却

 

  筆者は牧会において、様々な人たちの人生のエンディングに立ち会い、葬儀を行ってきた。葬儀で伝道説教はしないが、自然にそれは福音を伝える良い機会となる。エンディング・葬儀は誰もが自らの死を考えさせられる厳粛な場であり、魂が目覚める。終活・葬儀が持つ宣教的ポテンシャルの大きさについて考えていきたく思っている。

心に残るキリスト教のお葬式とは―葬儀の神学序説 (NCC宗教研究所双書)

心に残るキリスト教のお葬式とは―葬儀の神学序説 (NCC宗教研究所双書)

 

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