カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

激動する朝鮮情勢と日本

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  1.三・一独立運動、提岩里事件から100年

 

提岩里(ていがんり、チェアムリ)事件が起きてから今年で100年になる。これは1919年4月15日、朝鮮京畿道水原郡郷南面提岩里(現在の華城市郷南邑提岩里)で日本の軍隊によって29人の住民が殺害された痛ましい事件である。三・一独立運動の影響で住民が暴徒化し、放火事件や巡査殺害事件などが起こっていたことが、この事件の背景にある。

三・一運動 - Wikipedia

提岩里教会事件 - Wikipedia

次の記事は各種の資料を比較して、真実に迫っている。

blog.goo.ne.jp

次の歴史的文書では、三・一独立運動は「朝鮮騒擾」と呼ばれている。

www.digital.archives.go.jp


三・一独立運動と堤岩里(チェアムリ)事件

三・一独立運動と堤岩里(チェアムリ)事件

 

 

2月27日に日韓親善宣教協力会所属のキリスト教徒17人が、提岩里の三・一運動殉国記念館を訪れ、提岩教会の礼拝堂で床にひざまずいて謝罪した。彼らは宗教的信念に基づいて、純粋に善かれと思ってしているのだろう。

headlines.yahoo.co.jp

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しかし、「善い」と思ってしたことが「善い」結果を生むとは限らない。韓国の反日運動が度を越して、日韓関係が危険な状態になっているこのタイミングで、火に油を注ぐようなことをするとは! 韓国は国民の約3割がキリスト教徒の国である。そのため、多くの日本人には理解しがたいほど、このような行動が大きな影響を与える。このような暴走を止められない日本のキリスト村を、筆者はその一員として残念に思う。

 

日韓親善宣教協力会の活動は、筆者の恩師・森山諭牧師が中心となって始めたものである。筆者は森山牧師から提岩里事件についてよくお聞きした。森山師は戦後一貫して、韓国国民への謝罪と日韓友好の活動を続けておられ、堤岩里の教会の再建にも協力しておられた。

eiko-church.com

夕べ雲焼くる -主恩寵の軌跡-

夕べ雲焼くる -主恩寵の軌跡-

 

 
戦後70年を超えた今日、韓国でも日本統治時代を経験していない国民が大半となった。今では「歴史認識」や「歴史教育」が新たな反日運動を惹き起こしている、と言える。それが日韓両国民にとって良いことかどうか。最近の韓国の政府と国民の状態を見るに、大いに問題を感じざるを得ない。

  2.北朝鮮は日本人拉致被害者を早く返せ!

提岩里で日本のキリスト教徒たちが謝罪を行った日の前日、2月26日に東京の皇居で宮中茶会が開催され、西岡力(にしおか つとむ)氏(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会・略称「救う会」会長)は皇后陛下から次のお言葉を賜った。

長いことご苦労さま。
拉致被害者のご家族は年を取られていますね。
希望を持ちましょう。
何もできませんが、解決を願っています。


美智子さまは、ずっと絶えることなく拉致被害者とその家族、救出活動に携わる方々を慮(おもんぱか)り、拉致被害者の解放・帰還を祈っておられる。高齢となったご家族が希望を失ってはいないか、とご心配くださっているのである。まさに国母であられる! 日本人の鑑(かがみ)である。

www.sankei.com

www.sukuukai.jp

www.fnn.jp以下は FNN PRIMEの報道「米朝会談で拉致問題が議題に 日米首脳が電話会談」からの引用である。

 

安倍首相は28日夜、アメリカのトランプ大統領と電話で会談し、米朝首脳会談拉致問題が議題になったことを明らかにした。

安倍首相は「日本にとって、重要な拉致問題については、昨夜の1対1、通訳を交えての1対1の会談で、わたしの拉致問題についての考え方を(トランプ氏から)金正恩(キムジョンウン)委員長に伝えていただいた」と述べた。

拉致問題について「首脳間で真剣な議論が行われたと聞いている」と強調するとともに、トランプ大統領が金委員長に対し、2度にわたり、拉致問題を提起したことも明らかにした。

横田早紀江さん「これからですよね。ようやくここまで来たという感じ。わたしにとっては。長いこと、北の様子をずっと見て闘っている。生半可に、すんなりいくわけないと思っていた。今回は、前のめりにならなくてよかった」と話した。

 

天皇皇后両陛下、皇室、日本政府、拉致被害者のご家族、救う会関係者、日本国民皆の切なる思いが、北朝鮮の為政者と国民に届いて、拉致被害者の方々が早急に解放され、無事に帰国されることを、筆者も信じ祈るものである。

北朝鮮による日本人拉致問題 - Wikipedia

 

  3.米朝首脳会談は決裂

 

headlines.yahoo.co.jp

 

2月27日から28日までベトナムハノイで開かれた2回目の米朝首脳会談は、合意文書への署名が取りやめとなり、事実上決裂した。

金正恩(キム・ジョンウン)委員長が今回出したカードは、

「北西部にある寧辺(ヨンビョン)の核施設を廃棄する」
「核実験や弾道ミサイル実験をしない」
「その見返りとして、米国による経済制裁の全面解除を求める」

というものだった。

これに対してトランプ大統領は、

「彼らが非核化すると提案した地域は、制裁の全面解除に見合わなかった。彼らの提案を拒否せざるを得なかった」

と述べた。

寧辺は1980年代から北朝鮮の核開発の中心地となり、90年代初めにはここで、核爆弾の原料となるプルトニウムを抽出する作業が行われた。寧辺には黒鉛減速炉や核燃料の再処理施設、ウラン濃縮施設など多数の核施設が集中しているが、その多くは老朽化している。

ja.wikipedia.org

北朝鮮政府は寧辺以外の地域に秘密裏に核施設を建設しており、核ミサイル開発を継続している。

www.jiji.com

今回、金委員長が出した提案では、寧辺以外の核施設やこれまでに製造された核兵器が温存されることになり、トランプ大統領が求める非核化とは程遠い内容だった。

金委員長もトランプ大統領も、今回の会談で成果を得られなかったことが、国内での求心力低下につながる恐れが多分にある。そのため、今後も協議を継続するとしているが、具体的な目途は立っていない。

今回の米朝首脳会談によって、核大国をめざす北朝鮮政府の意志に変わりはないことが、明らかになった。強力な軍事力を背景に持ってこそ、国際社会で有利な地位が得られ、東アジアにおける覇権を握ることができるという金委員長の信念に変わりはないだろう。

文在寅(ムン・ジェイン)大統領が率いる韓国政府はこれまで、北朝鮮政府にすり寄って反日運動をエスカレートさせてきた。我々日本国民は、この南北両政府の動向を今後も注視することが必要だろう。現実を見ようとしない楽観的で無責任な言論には注意したい。

  4.中国政府の対北朝鮮政策は?

 

北朝鮮は、「米国本土への核ミサイル攻撃の能力があるぞ」と、まだ不確かな武器によって、米国を脅してきた。しかし、米軍は一日で北朝鮮全土を滅亡させることが可能な軍備を持っている。それなのに金正恩委員長は無茶苦茶背伸びをして、トランプ大統領と対等に交渉しようとするのだから、そもそも今回の米朝首脳会談で合意することは無理だったのだろう。

www.sankei.com

 

北朝鮮が持つ核ミサイルは、北京や上海、香港をも脅かすものである。北朝鮮が核大国として東アジアで覇権を握ることを、中国は許さないだろう。

 

長い歴史的な観点から見れば、中国大陸の支配者は皆、朝鮮半島の支配を望み、様々なアプローチをしてきた。それは中国共産党が君臨する現代においても変わらない。南北朝鮮が統一されて、統一朝鮮が核ミサイルを保有する軍事大国として東アジアで覇を唱えることを、中国は恐れているはずである。

 

中国政府の内部では、扱いづらくリスクの高い金正恩政権の存続を望まない声も、小さくないだろう。しかし、「ポスト金正恩」という大問題がある。金正日(キム・ジョンイル)総書記(在世時)の長男である金正男(キム・ジョンナム)氏がいれば、中国も大胆な手を打てたのだが、2017年2月13日に正男氏が暗殺されて、その企みは躓いた。

金正男 - Wikipedia

 

中国政府は、戦争や政変によって北朝鮮や韓国の政治・経済・社会が極度の混乱に陥ることは、望んでいないはずである。中国と韓国の経済的相互依存性は大きなものであり、韓国経済の混乱は中国経済にも影響が大きいからである。中国の輸出相手国として韓国は第5位で 4.5パーセントを占めており、中国の輸入相手国として韓国は第2位で 9.7パーセントを占めている(2017年)。

www.meti.go.jp

 

  5.自由朝鮮

 

米朝首脳会談から一夜明けた3月1日、衝撃のニュースが世界に伝わった。金正男氏の息子・ハンソル氏を保護する自由朝鮮という団体が、金正恩体制の臨時政府を樹立する声明を発表したのである。

 

news.livedoor.com

www.chosunonline.com

ja.wikipedia.org

 

激動する朝鮮情勢にどのように対応していくのか。米国も中国も日本も、難しい判断を迫られる場面が続きそうである。すべての人の人権が守られ、尊重されることを最優先の基準として、南北朝鮮と東アジアの問題解決が進んでいくことを、筆者は祈る。(終)

 

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現代において使徒を称することが、なぜ問題なのか

   1.新しい使徒宗教改革

 

近年、使徒を称するリーダーと教会の運動が世界的に広がり、日本にもその波が押し寄せています。フラー神学校の教授、教会成長運動の研究者、聖霊の第三の波(力の伝道)の指導者として著名なピーター・ワグナー氏は1994年に、その著書『使徒的教会の到来』の中で、NAR (New Apostolic Reformation: 新しい使徒宗教改革)という呼称を提唱しました。彼はその定義を次のように述べています。

新しい使徒宗教改革とは、21世紀の始まりに向けて、世界中のプロテスタント教会に少なからぬ変化をもたらしている神の働きである。過去500年ほど、教会は何らかの形で教団教派という枠組みの中に属しながら成長してきた。兆しは1900年代の初頭から現れ、特に1990年代に明確になってきたが、地域教会の牧会、教会間の関係、経済管理、伝道、宣教、祈り、指導、訓練、超自然的な力の現われ、礼拝などの重要な分野において、新しい形態と方法が現れてきたのだ。それらの教会のいくつかは伝統的な教団に属し、他の大部分はより緩やかな使徒的ネットワークに属している。世界のほぼ全域において、新しい使徒的教会は最も急速に成長している」(20ページ)。 

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この運動については、ウィリアム・ウッド氏が詳しく解説し、警告を発しているので、参照していただければと思います。

日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント –NARに関する警鐘を鳴らす– | 真理のみことば伝道協会

 

ウッド氏が主だった自称使徒として挙げているのは

ピーター・ワグナー氏(2016年死去)

ベテル教会ビル・ジョンソン

ハーベスト・インターナショナル・ミニストリーチェ・アン

モーニング・スター・ミニストリーリック・ジョイナー

キャッチ・ザ・ファイヤー・トロントジョン・アーノット

です。

1999年から毎年、 “Apostolic Council of Prophetic Elders” (預言者的長老たちの使徒的協議会)が開かれています。この運動の根本的な問題の一つは、「使徒」「預言者」が新しい啓示を行っていることです。

 

現代において「使徒」を称することが、なぜ問題なのか。ここで筆者は、その運動の根本的な問題について啓示論正典論のコンテクストにおいて簡単に論じたく思います。

 

  2.使徒とは何か

 

そもそも「使徒」とは何でしょうか。新約聖書では.第一に、主イエスと共に宣教活動を行って、主イエスによって直接選ばれ、遣わされた12弟子を「12使徒」と言います。

 

さて、エス山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せたので、彼らはみもとに来た。エス十二人を任命して、使徒と呼ばれた。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。こうして、イエス十二人を任命された。シモンにはペテロという名をつけ、ゼベダイの子ヤコブヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。次に、アンデレピリポバルトロマイマタイトマスアルパヨの子ヤコブタダイ、熱心党員シモンイスカリオテユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。(マルコ3:13-19)

 

使徒」の原語 ἀπόστολος(希:アポストロス)は「遣わされた者」という意味です。「12人」というのは、イスラエルの12部族に対応した数です。

 

まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、私に従ってきたあなたがたも12の座に就いて、イスラエル12の部族を治めます。(マタイ19:28)

 

12使徒のひとりイスカリオテのユダが欠けたため、使徒たちはその欠員を補う人物を選びました。その選出の条件とされたのは次の三つです。

(1) 人間となられた主イエスと共に生活したこと
(2) 主イエスや12使徒たちといつも共に宣教活動を行っていたこと
(3) 復活された主イエスを直接、体験的に知っていること

 

「ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間いつも私たちと行動を共にした人たちの中から、誰か一人が、私たちと共にエスの復活の証人とならなければなりません」(中略)そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が11人の使徒たちの仲間に加えられた。(使徒1:21-22,26)

 

 

第二に、最初期のキリスト教会において、神から特別に召しをいただいて、立てられた指導者を「使徒」と言います。すなわち主の弟ヤコブバルナバパウロです。 

 

それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに15日間、滞在しました。しかし私は、主の弟ヤコブは別として、他の使徒たちには誰とも会いませんでした。(ガラテヤ1:18-19)

これを聞いた使徒たちバルナバパウロは、衣を引き裂いて群衆の中に飛び込んでいき、叫んだ。(使徒14:14)。

 

1世紀中葉には、ペテロとヨハネと主の弟ヤコブが、エルサレムを中心とするヘブライスト・ユダヤ人教会の指導者でした。それと並んで、バルナバパウロは、アンテオケを中心とする、ヘレニスト・ユダヤ人と異邦人の教会の指導者でした。

 

第三に、1世紀中葉には「使徒」と呼ばれた無名の人物が、他にも数人いたようです。

 

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケファに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様なにも、現われてくださいました。私は使徒たちの中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。(第一コリント15:3-9)

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。(エペソ4:11 )

 

この無名の使徒たちには、12使徒や主の弟ヤコブバルナバパウロのような卓抜した権威は無かったようですが、彼らも復活された主イエスを直接知っている証人でした。

 

  3.使徒的権威と新約聖書正典

 

パウロは諸々の書簡において、自分が使徒であることを強調しています。それは、かつてイエスの弟子たちを迫害していたパウロ使徒となったことを、認めがたい人たちがいたからです。

 

人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって使徒とされたパウロと、私と共にいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。(ガラテヤ1:1-2)

 

ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒とされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした。(ガラテヤ2:8)

 

「天国の鍵」を預けられたトップリーダーである使徒ペテロは、パウロ使徒と認め、パウロが書いた書簡を聖書に加えることを認めました。

 

「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ていなさい。預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです」(第二ペテロ1:20-21)


「その手紙でパウロは、他のすべての手紙でもしているように、これについて述べています。その中には理解しがたいところがあります。無知で心の定まらない人たちは、他の聖書の箇所と同様に、それらを曲解して、自分自身に滅びを招いています」(第二ペテロ3:16)

 

パウロの書簡は、旧約聖書と同等の権威を認められていたのです。

 

神の「霊感」ゆえに、人の述べる言葉が「預言」となります。広義では霊感や預言は、古代イスラエルや最初期キリスト教において、聖書の範囲を超えて広く見られた現象でした。しかし、その中でも、聖書を生み出した「霊感」や「預言」は、特別な一回限りの啓示として区別すべきです

 

聖書はすべて神の霊感によるもので.教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。(第二テモテ3:16)

 

あなたがたは使徒預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエス自身がその礎石です。(エペソ2:20)

 

「聖書」は信仰・教理・実践の完全な基準、すなわち正典ですから、特別であり、他の文書と明確に区別しなければなりません。新約聖書の正典は使徒的な権威を基準として判別され、27書に限定されたのです。

 


  4.使徒的教会

ローマ教会の指導者クレメンスは97年頃に、次のように記しています。

 

使徒たちは、私たちのために主イエス・キリストから福音を聞かされた。キリスト・イエスは、神から遣わされた。それゆえキリストは神から、使徒たちはキリストから出ている。(クレメンスの手紙ーーコリントのキリスト者へ(I)42:1-2)

 

アンテオケ教会の二代目の監督イグナティオスは2世紀の初め頃に、次のように記しています。

 

主と使徒の教えに堅く立つように努めなさい。(イグナティオスの手紙ーーマグネシアのキリスト者へ 13:1)

 

使徒教父文書 (講談社文芸文庫)

使徒教父文書 (講談社文芸文庫)

 

 

使徒」は後1世紀、最初期の教会に限定されるべき用語であり、現代の人を「使徒」と呼ぶのは間違っています

では、使徒的権威を持つ教会はいつ頃まで存続したのでしょうか。それは.使徒たちを直接知っている世代まで、すなわち後2世紀初めまでと考えるべきです。なぜなら、新約聖書の正典となる27巻が、彼らの教会において生み出されたからです。

 

今日の日本社会において「霊感」という言葉は、いろいろな意味で使用されています。けれどもキリスト教では、聖書の各書巻の著者たちに導きを与えて、その記述を守った聖霊の働きを特別に霊感と呼んでいます。その「霊感」は歴史上、後1世紀末で完了したものと、正統的な教会は理解しています。

 

東方正教会ローマ・カトリック教会プロテスタント諸派が告白するニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)には、次の一文があります。

 

わたしは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます。

ニカイア・コンスタンティノポリス信条 - Wikipedia

 

代々のローマ教皇使徒ペテロの後継者である、とカトリック教会は主張していますが、プロテスタントはこれを認めていません。プロテスタントでは、使徒たちの教えを正しく継承している教会を、「使徒的教会」と呼んでいます。

 

  5.聖書のみ!

 

それなのに、現代において「使徒」を自認・自称あるいは認定する人たちがいるのは、非常に危険な現象です。なぜなら、主が1世紀の使徒たちと教会を用いて生み出した、キリスト教の「土台」である新約聖書」に並ぶ、あるいは代替する権威ある言葉を、現代の「(偽)使徒」たちが生み出してしまうからです。これは異端へと逸脱する危険性が極めて高い問題です。

  ウィリアム・ウッド氏は次のように述べています。

ジョイナー氏はモーニング・スター・ミニストリーズ内で絶対的な権威を持っており、その語る言葉は聖書と同等のものとして受け止められる。元教会員の証言によると、礼拝のメッセージは、聖書からのものではなく、ジョイナー氏の受けた「啓示」が中心だそうだ。だから、教会に聖書を持って来る人はいない。皆、ジョイナー氏をモーセのような存在と見なし、彼の指示や助言に頼るようになる。

 

最後にもう一度、警告します。

我々キリスト者の信仰の拠り所は聖書のみです。聖書が神の言葉であり、聖書以上あるいは聖書に並ぶ権威のある新しい啓示は、キリストの再臨=この世の終わりまでありません。

 

偽キリストたち預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。(マタイ24:24) 

 

現代の世界に使徒はいません。使徒」と称する者たちがしるしと不思議、奇跡を行っても、それに惑わされて、彼らを「使徒」と認めてはいけないのです。

 

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聖書信仰の問題ってナニ?

年末の26日に藤本満師が「『聖書信仰とその諸問題』への応答1」という連載ものの記事を山﨑ランサム和彦師のブログで発表されました。これは、日本の福音派の聖書学徒には、必読の重要なエッセイです。

『聖書信仰とその諸問題』への応答1(藤本満師) | 鏡を通して ―Through a Glass―

『聖書信仰とその諸問題』への応答2(藤本満師) | 鏡を通して ―Through a Glass―

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 藤本師が『聖書信仰 −−その歴史と可能性』を上梓されたのは 2015年11月です。それに先立って2014年11月に行われた日本福音主義神学会の全国神学研究会議で、藤本師は「聖書信仰 ―その「近代主義」を超えて」という発題を行っておられ、学会誌『福音主義神学』46号(2015年発行)に同名の論文が収録されています。

福音主義における聖書釈義について(JETS研究会議 感想) - カナイノゾム研究室

「聖書信仰 ―その「近代主義」を超えて」重要!

聖書信仰 その歴史と可能性

聖書信仰 その歴史と可能性

 

 『聖書信仰 −−その歴史と可能性』が出版されてからすぐに、藤本師は、この著書の内容をわかりやすく説いた記事を、山﨑師のブログで発表されました。

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その1) | 鏡を通して ―Through a Glass―

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その2) | 鏡を通して ―Through a Glass―

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その3) | 鏡を通して ―Through a Glass―

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その4) | 鏡を通して ―Through a Glass―

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その5) | 鏡を通して ―Through a Glass―

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その6) | 鏡を通して ―Through a Glass―

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その7) | 鏡を通して ―Through a Glass―


藤本師は「無謬か無誤か」という不毛な聖書論論争終結させるために問題提起をしておられるのだ、と筆者は理解しました。その背景にあるのは、『新聖書注解』(1970年〜1977年、いのちのことば社)が刊行された頃に起こった聖書論論争とその傷です。


問題の焦点は「聖書の記述には歴史的また科学的に誤りが有り得るか」であり、近代的な聖書批評学をどのように評価して用いるか、ということでした。榊原康夫師や村瀬俊夫師などは、それを「有り得る」とする「無謬説」に立ち、聖書批評学を用いることに積極的でした。しかし、津村俊夫師などは、歴史や科学の分野においても聖書に誤りは無いとする「無誤説」を堅持し、聖書批評学を用いることに慎重な立場でした。

 

福音主義神学第9号(1978年)
榊原康夫「五書解釈をめぐって」
津村俊夫「旧約批評学と榊原論文」

http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/009-4_in_printable.pdf


福音主義神学第17号(1986年)

津村俊夫「福音主義の聖書解釈──その方法論の確立をめざして」

http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/017-3_in_printable.pdf

福音主義神学第41号(2010年)
村瀬俊夫「聖書論論争をめぐる視点からの個人的所見」

http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/paper_in_printable/41-06.pdf

 

新約聖書と批評学

新約聖書と批評学

 

 

1978年に米国で保守的福音派が発した「シカゴ声明」が、日本の福音派における「無誤説」=「聖書信仰」という大勢を決しました。

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

 

その結果、村瀬俊夫師は日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)の機関誌『聖書信仰』の編集委員長から降板することとなられました。ところが当の米国では、アカデミズムを尊重して、「無謬説」を容認する「新福音派」が大勢を占めるようになり、今日では「新」が取れて「福音派」と呼ばれるに至っています。

 

Five Views on Biblical Inerrancy (Counterpoints: Bible and Theology) (English Edition)

Five Views on Biblical Inerrancy (Counterpoints: Bible and Theology) (English Edition)

 

 

藤本師はこのような日本の福音派の狭量さを反省しているのですが、聖書宣教会の教師会は『聖書信仰とその諸問題』で藤本師に反論し、聖書の「無誤性」を堅持すべきだと主張しています。

聖書信仰とその諸問題

聖書信仰とその諸問題

 

 

この問題について以下、勝手な私見を簡単に記します。

 

【1】日本基督教団信仰告白

 

日本のプロテスタントで最大の教団である日本基督教団の「信仰告白」は、自分たちの信仰を次のように表現しています。

我らは信じかつ告白す。

新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。
神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業(みわざ)を成就(じゃうじゅ)したまふ。

教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。

我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン。

(1954年10月26日第8回教団総会制定)


【2】日本福音同盟(JEA)信仰基準

 

日本で「福音派」を自覚する教会のおよそ半数が加盟している日本福音同盟(JEA)の規約第3条(信仰基準)には、以下のように記されています。

第3条 (信仰基準)
本同盟の信仰基準は次の通りである。
1.聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。
2.神はすべての造り主であり、唯一で三位一体のまことの生ける神である。
3.キリストはまことの神、まことの人であり、処女マリヤより生まれ、人間の罪のために十字架につけられて死に、全能の神の力によって復活し、神の栄光の御座にあってすべてを支配しておられる。
4.キリストによる救いは罪の束縛と死の力からの解放であり、信じるものは義とされ、聖霊によって新生し、きよめられ、栄化される。
5.教会はすべての信者が聖霊によって一つとされたキリストのからだであり、公同にして普遍である。
6.キリストは世界のさばき主としてふたたび来られる。キリストを信じた者は永遠の生命に、キリストを信じない者は永遠の刑罰に定められる。

(本規約の発効は1986年6月10日とする)

 

 

【3】日本プロテスタント聖書信仰同盟 (JPC) の信仰基準と宣言

 

日本プロテスタント聖書信仰同盟 (JPC) の「信仰基準」には、次のように記されています。

一 (聖書)

私たちは、旧新約六六巻が、十全霊感による誤りのない神のみことばであり、救い主である主イエス・キリストを示し、信仰と生活の唯一の基準であることを信じる。

日本プロテスタント聖書信仰同盟 (JPC) が1987年2月5日に出した「聖書の権威に関する宣言」には、以下のように記されています。

 JPCの信仰基準は「旧新約聖書六十六巻が、十全霊感による誤りない神のみことばである」と告白しています。この告白はJPCの生命線であり、一歩も後退させることはできません。 この「誤りのない」という言葉が何を意味しているかという点をめぐって多くの論争がなされてきましたが、JPCとして、この「誤りのない」をどう理解しているかを明らかにしたいと思います。

I 「誤りのない」とは、聖書が神のみことばであり、それが主張しているすべての点で絶対的権威を持っていることを告白した神学的表現である。

II この「誤りのない」ということは、人間の理性や学問によって検証することができると考えて告白しているものではない。人間理性は、聖書の権威を十分に弁証し、立証し尽くせるものではない。聖書の権威を私たちに究極的に確信させるものは聖霊の内的なあかしである。

III 「誤りのない」という表現において、聖書の内容を信仰的・教理的領域と歴史的・科学的領域とにあえて分け、その一方の領域においてのみ誤りがないことを主張するという立場をとらない。

聖書の理解においてこのように二つの領域に分けることはもともと不可能なことである。聖書はその書かれた目的にそって理解されるなら、それが主張しているすべての事柄において誤りがない。

IV 「誤りのない」ということが不可謬性(Infallibility)を意味するのか無誤性(Inerrancy)を意味するのかという点は、それらの用語の理解にかかっている。

ある人たちは不可謬性を「教理や信仰の領域でのみ真理である」と解釈する。もし不可謬性をそのような意味に解するなら、第III項に照らして、その意味での「不可謬性」の使用は適切ではない。ある人たちは無誤性を「誤りがないことが検証されうる」と解釈する。無誤性をそのように解釈するなら、第II項に照らして、その意味での「無誤性」の使用は適切ではない。従ってこれらの用語を使用するときは注意深く定義してから使うようにすべきである。

V 「誤りのない」という確信と主張は、聖書の正しい解釈を前提とするだけではなく、その解釈と適用への努力をも要請する。

この確信と主張は、聖書の統一性と真理性に堅く立ち厳密な歴史的・文法的解釈をほどこす責任、さらにその今日的意味をも明らかにする責任を私たちに課するものである。

もしこの責任をなおざりにし、その努力を怠るなら、「聖書は誤りのない神のことばである」との信仰告白は有名無実になり、空文化するであろう。

 

【4】聖書は無謬か無誤か

 

聖書観に関する日本基督教団福音派(JEA、JPC)の微妙な違いに気づかれたでしょうか。

[日基教団]聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
[JEA, JPC]聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。

(1) どちらも「聖書は神の言葉である」と告白しています。
(2) どちらも聖書が信仰と生活の規範であると告白しています。
(3) 前者は、聖書は神と救いについて完全な知識を与えるものであり、信仰と生活の規範として聖書は誤りが無い、と告白しています(聖書の無謬性)。
(4) 後者は、聖書のすべてにおいて誤りが無い、と告白しています(聖書の無誤性)。

 

「聖書は救いと信仰と生活についての誤り無き規範の書である」ということに、根本主義者、福音主義者、新正統主義者はみな賛成しています(聖書の無謬性:Biblical infallibility)。しかし、「聖書は歴史的にも科学的にも誤りが無い」という聖書の無誤性(Biblical inerrancy)については、意見や立場が分かれます。

【A】聖書は、古代のオリエント世界や地中海世界に起こった「事実」を「科学」的に正確に記録した「歴史」の書でしょうか。


【B】聖書は、古代のオリエント世界や地中海世界という特定の歴史的文化的コンテクストにおいて実行された神の業を経験した人々が伝えた「真実」=証言・信仰・神学の集大成でしょうか。

この設問に対する答には、次の5つが有り得るでしょう。
(1) Aであり、Bでもある。
(2) Aであり、Bではない。
(3) Aではなく、Bである。
(4) AでもBでもない。
(5) わからない。

 

しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それを誰から学んだか知っており、また幼い時から聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを、知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(第二テモテ3:14-17)

よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。(マタイ5:18)

 

【5】自由主義新正統主義福音主義根本主義


こうしたことが問題となった歴史的事情を以下、単純化して説明してみます。

 

19世紀から20世紀にかけて欧米のキリスト教世界では、合理主義・科学信仰・進化論によってキリスト教の基本的な信条を否定した自由主義神学Liberal theology, Theological liberalism)が猛威を振るいました。これに対抗して生まれた「根本主義」(Fundamentalism)の運動は、キリスト教の根本的な信条を守ろうとするものでした。

 

しかし今日では一般的に、聖書の無誤性を主張して、進化論に反対し、創造科学とディスペンセーション主義を説くプロテスタント保守派を「ファンダメンタリズム」(根本主義原理主義)と呼ぶ場合が多いようです。根本主義には分離主義と反知性主義の傾向がある、と言われます。聖書宣教会の先生方はアカデミズムにおいて超一流であられ、創造科学は支持しておられないでしょうから、いわゆるファンダメンタリストではないでしょう。

 

根本主義者も福音主義者も新正統主義者も、キリスト教の根本的な信条を信じ、告白しています。しかし、「聖書は歴史的にも科学的にも誤りが無い」という根本主義の主張(無誤性)に、新正統主義(Neo-orthodoxy)は反対します。新正統主義自由主義と共通する聖書批評学を重視しているからです。

 

今日の福音主義(Evangelicalism)は根本主義をルーツとしますが、アカデミズムを重視しており、「聖書の記述には歴史的また科学的な誤りが有り得る」と考える福音主義者もいます。聖書の「無誤性」の主張は、新正統主義者や自由主義者、非キリスト教徒との対話や交流の妨げとなり、今日の福音派を窒息状態に陥らせています。

 

新約聖書66巻はすべて、神の霊的な導きを受けた人たちが、書き記した歴史的文書です。神の言葉は、歴史的文化的な制約条件のある人間の中に受肉して、その人を通して語られ、口で伝えられ、記されて、聖書となりました。言われるがままに記者がタイプライターを打ったり、神がかりになってお筆先を記した、というようなことではありません。

 

聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきではないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。(第二ペテロ1:20-21)

また、私たちの主の寛容は救いのためであると思いなさい。このことは、私たちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。(第二ペテロ3:15-16)

命じるのは私ではなく主です。(中略)
その他の人々に対しては、主ではなく、私が命じます。(第一コリント7:10,12)

 

【6】ルターとカルヴァンの聖書論

 

 宗教改革の指導者であったマルティン・ルタージャン・カルヴァン聖書論は、どうだったでしょうか。以下にルターの教説を引用します。

「キリストは主であって、僕ではない。キリストは万軍の主、律法の主、あらゆるものの主である。聖書は、キリストに反する証しをたてることが許されず、キリストのために、またキリストとともに読まれるべきであり、解釈されるべきである。聖書は人をキリストとの関係に入れることができなければならない。そうでなければ、それはまことの聖書と考えられない」(WA39:47)

「聖書は書かれた神の言葉であって、いわゆる『文字の中に入れられた』ものであり、それはキリストがその人間性という衣に受肉した神の永遠のことばであるのと同じである。またキリストがながめられ、扱われたようなことがこの世においてキリストに起こるのと同じく、神の書かれたことばにもこのようなことがある。聖書は他の書物に比べると、書物ではなく虫である」(WA48:31)

「聖書は外見的な栄光をもたず、注目を引かず、美と飾りとをみな欠いている。だれがこのような神のことばに信仰を密着させようとするのか。あなたはほとんど想像することはできない。というのは、聖書は栄光もあるいは魅力ももたないからである。しかも信仰は、この神のことばから、どのような外的な美しさもない聖書の内的な力を媒介にしてくるのである。神のことばにわれわれの信頼を置くようにさせるのは、聖霊の内的な活動だけである」(WA16:82)

キリストを証しして人々を救うことが、聖書の最大の目的である。キリストを証しして人々を救うからこそ、聖書は神の言葉だと言えるのであるーー。これがルターの主張です。聖書はそれ自身が神の言葉であることを証ししているーー。これがカルヴァンの主張です。すなわち彼らは、人間理性による聖書の権威の証明を、必要とはしなかったのです。聖書が神の言葉であることを今日の人々に証しするのは、聖書の著者たちを導いた聖霊ご自身です(聖霊による照明)。

 

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、私について証しをするものである。(ヨハネ5:39)

こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身について記してあることを、説き明かされた。(ルカ24:27)

私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する。(ルカ24:44)

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。(ヨハネ14:26)

しかし、真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくださる。(中略)御霊は私の栄光を現す。私のものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。(ヨハネ16:13,14)

神は御霊によってこれを私たちに啓示してくださった。(第一コリント2:10)

 

ルターとカルヴァンは「隠れたる神」を尊重し、人間の理性による探求の限界について警告しています。カルヴァンは、『キリスト教綱要』で二重予定について述べているところで、「隠れたる神」にたびたび言及し、踏み越えてはならない「柵」を設けています。人間の理性によって冒してはならない神秘(奥義)の領域があるのです(カルヴァンキリスト教綱要』第3篇 第21章 旧版pp.187-188)。その「歯止め」を外した結果、近代の教会と世界はどのようなことになったでしょうか。我々は、人間理性の限界を自覚し、神の神秘と啓示に対する恐れを持つべきでしょう。

 

【7】神の言葉の神学

 

自由主義神学は近代的な科学を偏重して、「聖書の人言性」を強調し、歴史的信条を否定しました。「無誤性」を主張する根本主義の「聖書信仰」は、それに対抗するために生まれたものですが、これも近代主義の遺物です。神の神秘を冒そうとした点では、進化論を支持するリベラリズムも、創造科学を作ったファンダメンタリズムも、同罪です。

 

旧新約66巻の聖書正典はすべて、啓示の書であると同時に歴史の書であり、文学の書であり、信仰の書であり、神学の書です。そのような聖書の性格を理解して、それにふさわしいアプローチによって聖書を読み解いていかなければ、とんでもない勘違いがキリスト者キリスト教会に生じます。そのアプローチにおいては根本主義者も福音主義者も新正統主義者も重なるところが多いので、共に聖書を研究することが可能です。

 

筆者自身のポリシーは「聖書の証言を信じる」というものです。聖書に書かれているイエス・キリストのみわざは、人類の歴史において起こった事実である、と私は信じています。聖書に記されたその力強い確かな証言のゆえに、私はイエス・キリストが私の救い主であることを確信して、心が安らぎ、喜びをもって、その証しをしています。

 

兄弟たちよ。私が以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、私の宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。

私が最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、私自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたような私にも、現れたのである。(中略)

とにかく、私にせよ彼らにせよ、そのように、私たちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。(第一コリント15:1-8,11)

 

聖書の中心的テーマは「イエス・キリストが成し遂げられた人類の罪の贖い」であり、また、「それによって開始され継続されている神の国の形成」です。新約聖書はこれを「福音」と呼びます。これを信じない人は「福音派」を自称できませんし、実際にそのような人はいないはずです。新正統主義の立場においても、これらは同じはずです。ですから、福音派だけでなく新正統主義に立つ主流派の人たちも、本来の意味での「福音主義者」なのです。

 

「聖書はすべて神の言葉である。そして、説教において聖書は生きた神の言葉となって、人々に恩恵を与える」。聖書は「キリストの生の声(viva vox Christi)の聖なる道具」である(ルター)。ルターもカルヴァンも今日の福音派も、このように信じています。新正統主義を代表する神学者カール・バルトが説いた「神の言葉の神学」は、このルターの神学に近いものです。ただし、バルトは近代的な聖書批評学に依存しているために、「聖書はすべて神の言葉である」と言うことができず、「聖書は神の啓示に関する証言である」と説いたのです。

 

彼らは互いに言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、私たちの心は内に燃えたではないか」(ルカ24:32)

神の言葉の神学の説教学

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神の言葉の神学―バルト神学とその特質

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【8】近代主義の呪縛から解放されるべき時代

 

今、私たちは、近代主義の呪縛から解かれるべき時代に、生きています。

 

筆者は基本的に進化論を支持していません。科学の学説は証明されるまでは仮説に過ぎず、進化論ーーと言っても多様ですがーーは未だ証明されていない部分がほとんどです。種の中で起こる小進化=環境適応はありますが、別の種への大進化は証明されていません。

 

現代においては、近代科学の前提である経験主義・合理主義の世界観や方法論が疑問視され、その限界を露呈しています。ですから、科学の有用性を認めて、使えるものは聖書学・神学に利用したら良いのですが、創世記1〜3章を科学的に説明しなければならない必要性は、無いのです。

 

現代の多元宇宙論においては、超自然的な神の存在と働きを信じ、超自然的な啓示を信じることは何ら問題となりません。むしろ創造主無しに宇宙や生命、DNAの存在を説明することは不可能とさえ言えます。

 

筆者は、創造科学を支持する方々も、大進化を認める有神論的進化論を支持する方々も、同じ信仰を持つキリスト者であると思っています。創造科学が正しいとしても、あるいは大進化があるとしても、そのような驚異的な創造を為された神をほめたたえることでしょう。

 

kanai.hatenablog.jp

 このような状況において我々キリスト教会が近代主義の呪縛から解かれるのは、当然であり、必要なことです。JEDP説や史的イエス論など、聖書のテクストを細かく切り分けた近代の聖書批評学は、今や崩壊しつつあります。ロルフ・レントルフが「パラダイムの変化、希望そして恐れ」(1993年)で述べているように、「現在ある最終的な形においてあるがままにテクストに真剣に取り組むこと」が求められているのです。

 

【9】聖書のオリジナル・テクストの問題

では、現在ある最終的な形としての聖書のテクストとは何でしょうか。一般的には、ヘブライ語聖書(旧約聖書)はBHS(Biblia Hebraica Stuttgartensia)と、さらに新しいBHQ(Biblia Hebraica Quinta)が標準とされます。

ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア - Wikipedia

ビブリア・ヘブライカ・クインタ - Wikipedia

ギリシア新約聖書は ネストレ・アーラント(Nestle-Aland)による校訂本文が標準となっています。

ネストレ・アーラント - Wikipedia

 

歴史的に見ると、このヘブライ語聖書とギリシア新約聖書の間にある「70人訳聖書」(Septuaginta)が最初期キリスト教新約聖書に与えた影響が、特に重要な問題です。

最初期キリスト教が事実上「正典」として用いていたのは、
ヘブライ語聖書(ヘブライスト・ユダヤ人の聖書)
②70人訳ギリシャ語聖書(ヘレニスト・ユダヤ人と異邦人の聖書)
この両方でした。


新約聖書27巻はすべてギリシャ語で書かれました。ということは、新約聖書を生み出した使徒的権威を持つ教会は、70人訳聖書を主たる「正典」として使用する集団であった、と考えられます。よって、ヘブライ語聖書と多少異なる意味と分量を持つ70人訳聖書にも、正典的権威をもたらす「神の特別な霊感」が働いていた、と考えるべきでしょう。

秦剛平氏の偉業により70人訳聖書の和訳本が刊行されています。そのため、ヘブライ語聖書と70人訳聖書のテクストの違いが、日本人読者にもわかりやすくなりました。ヘブライ語聖書と70人訳聖書のテクストのズレは、「聖書」が「人言性」を持つことの証しです。聖書の「神言性」は、この「人言性」を持つ「御言葉」のダイナミックな働きの中で証しされ、確認されたのです。

 

Septuaginta: A Reader's Edition

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七十人訳ギリシア語聖書入門 (講談社選書メチエ)

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キリスト教聖書としての七十人訳―その前史と正典としての問題

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【10】「脱西欧近代」のキリスト教

 

このようなマクロな視点でのキリスト教の見直しは、日本人への伝道に非常に重要な意味を持っています。日本人には科学信仰が根強く残っていますが、今や日本人の世界観も大きく変わろうとしています。ところが、多くの人が聖書=キリスト教に答えを求めているのに、キリスト教会がそれに十分対応できていない現状があります。

 

もちろん我々のキリスト教信仰は、あらゆる人間の思想と活動を超えた神からの啓示に基づくものであり、時代の思潮に依拠するものではありません。けれども、ポストモダン的な変化は、世の人々への弁証において好機と言えるでしょう。

 

宗教改革500年」(1517年ー2017年)という時代は「西欧近代」の世界的拡張の時代でもあります。現代のポストモダン的状況は、「脱西欧近代」という巨大なパラダイム転換の開始を意味します。筆者はもともと経済や政治、エコロジーの視点から脱近代の問題に取り組んでいましたが、これはキリスト教の日本宣教においても本質的な問題に関係しているように思います。

 

宣教のパラダイム転換 上巻 聖書の時代から宗教改革まで (東京ミッション研究所選書シリーズ)

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宣教のパラダイム転換 下巻 啓蒙主義から21世紀に向けて (東京ミッション研究所選書シリーズ)

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