カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

第1章 千年王国をめぐる諸説

キリスト教の終末論と千年王国

 

彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
ヨハネの黙示録第20章4,6節)

 

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  第1章 千年王国をめぐる諸説

 

 キリスト教には、「千年」を区切りと考える歴史観が、古代からある 。ただし、キリスト教にも、ヨハネの黙示録第20章の「千年」については様々な解釈がある。まず、キリスト教2000年の歴史において千年王国的終末論がどのように展開されたか、確認しよう。

 

  1 千年王国的終末論の思想史

 

 紀元30年にエルサレムに最初の教会が誕生してからおよそ300年間、キリスト者ユダヤ人やローマ帝国などから迫害を受けた。その苦難の中で古代のキリスト者は、間もなくキリストが再臨され、究極的な勝利を収めてくださる、という希望に生きていた。ヨハネの黙示録は終始一貫して、患難に耐えて信仰を守り通すようにと、信者を励ましている。

以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。(ヨハネ黙示録22:20)

 

 157年頃にフルギヤのモンタノスは、新しい聖霊の時代が到来したと言って預言活動を始めた。モンタノスの熱狂的な聖霊運動は千年期説と結び付き、迫りつつある終末に備えて禁欲的な生活を実践する運動となって、急速に拡大した。 

モンタノス派 - Wikipedia

 

 リヨンの主教エイレナイオス(130年頃~200年頃)は『異端反駁』の最終巻に次のように書いている。「すなわち、回復された被造世界においては、主の現れに際して、義人がまず復活して、神によって父祖たちに約束された約束の相続を受け取り、彼らがそこにおいて統治するのである。その後に裁きが来る」。

エイレナイオス - Wikipedia

 

 カルタゴの教師テルトゥリアヌス(150年頃?~220年頃)は『マルキオンへの反論』の中で次のように述べている。「なぜなら、私たちはまた、地上において自分たちに王国が約束されていると信じているが、それは天国に先立つものである。またそれは復活の後であるから、この状態とは異なる別の状態においてである。それは千年の間続くものであり、神御自身がお造りになった都、天から降ってくるエルサレムにおいてであって……」 。テルトゥリアヌスは3世紀の初め頃にモンタノス主義の運動に加わった。
このように、キリストの再臨によって義人は復活し、地上に王国が樹立され、それが千年間続くという黙示録第20章の字義的な解釈は初期教父たちに広く見られる見解である。

テルトゥリアヌス - Wikipedia

キリスト教神学資料集〈下〉

キリスト教神学資料集〈下〉

 

 

 しかし、コンスタンティヌスによるキリスト教の公認(313年)とテオドシウス帝によるキリスト教国教化(392年)によって、キリストの再臨を待ち望む切なる思いは、キリスト者の中で後退していった。そして中世には、至福千年の思想は異端とみなされた。それでも千年王国論は絶えることがなかった。

中世の異端者たち (世界史リブレット)

中世の異端者たち (世界史リブレット)

 

 

 フィオレの修道士ヨアキム(1135〜1202年)は、三位一体になぞらえて歴史を父の時代、子の時代、聖霊の時代に分け、1260年に聖霊の時代=千年王国が始まると教えた。ヨアキムの終末論はフランチェスコ会聖霊に大きな影響を与えた。聖霊派の終末論は、世界の歴史を7つの時期に区分した。その第6期は聖霊派が生まれた13世紀中頃に始まっており、まもなく第7期として千年王国が始まって聖霊派が世界の主役になる、というものであった 。

フィオーレのヨアキム - Wikipedia

 

 ヨアキムが聖霊の時代が始まるとした1260年に、ジェラルド・セガレッリはパルマ使徒兄弟団を創設した。これは使徒たちに倣って、無所有の厳格な清貧生活を実践するセクトである。セガレッリは1300年に異端として火刑に処された。その後、指導者となったドルチーノは1300年に回状を書いて、独自の終末論を提示した。彼は歴史を、旧約聖書の時代、キリストからコンスタンティヌス帝までの時代、コンスタンティヌス帝から続く教会の肥大と腐敗の時代、3年以内に到来する至福千年の時代、の4つに分けた。しかし、3年経っても千年王国は到来しなかった。使徒兄弟団は異端とされ、教皇が派遣した十字軍によって壊滅させられた 。

ドルチーノ派 - Wikipedia

 

 1419年にフス派の保守派と分裂した急進派は、タボル派と呼ばれた。彼らは南ボヘミアの山中で原始教会に倣った共同生活を始めた。タボル派の多くの聖職者たちは、千年王国が間もなく到来する、と説いた 。タボル派は1434年にカトリック勢力の軍隊によって壊滅させられた。

フス戦争(1) - 反フス派十字軍: Zorac歴史エッセイ

 

 アウグスティヌス会の修道士であり、ルターの信奉者であったトーマス・ミュンツァー(1490頃~1525年)はタボル派の人々の影響を受けて、今、世界は終末に近づいている、と民衆に教えた。また、世界の終末の前に、トルコ人たちが世界を支配するが、神に選ばれた者たちがそれに対抗して、不信仰な者たちを皆殺しにする、と彼は教えた。1523年にアルシュテットで、ミュンツァーは市民と市参事会の支持を受けて独自の教会を形成した。1524年にミュンツァーは「神の永遠の契約団」を組織して、武装した。彼は武力によって地上に神の国を建てようとしたのである。ドイツの農民戦争(1524年5月〜1526年7月)では、農民の反乱が領主たちの連合軍によって鎮圧され、ミュンツァーは処刑された。

トマス・ミュンツァー - Wikipedia

トーマス・ミュンツァーと黙示録的終末観

トーマス・ミュンツァーと黙示録的終末観

 

 

 17世紀にはイギリスの神学者トマス・ブライトマンとジョゼフ・ミードが千年期前再臨説を主張した。彼らは、最後の審判の前に地上に樹立される文字通りの神の国として千年王国を理解した。彼らが「反キリスト」として想定したのは、ローマ教皇ローマ・カトリック教会であった。その影響を受けて、ピューリタン千年王国を夢見てピューリタン革命を遂行したのである 。1660年にピューリタンによる共和制政治が終わり、ステュアート王朝が復活すると、千年期前再臨説は後退していった。しかし、彼らの見解は18世紀の敬虔主義運動に引き継がれた。

 前千年王国説 - Wikipedia

千年王国を夢みた革命 (講談社選書メチエ)

千年王国を夢みた革命 (講談社選書メチエ)

 

 

19世紀には、ジョン・ダービィ等が「ディスペンセーション主義」という新しい千年期前再臨説を主張した。神の救いの計画を七つの聖約期(dispensation)に分割して、最後の7番目のディスペンセーションに千年王国を位置付ける教説である。ディスペンセーション主義は、20世紀にアメリカでファンダメンタリズムと結びついて、盛んになった 。古典的ディスペンセーション主義の聖書解釈を付した Scofield Study Bible がよく知られている。

ディスペンセーション主義 - Wikipedia

 

 日本では、ホーリネス教会の監督・中田重治(1870〜1939年)が再臨信仰を強調して、大きな影響力を持った。中田は米国のムーディー聖書学院でディスペンセーション主義を学んだ。

中田重治 - Wikipedia

 中田は次のごとき特異な主張をした。

「日本は聖書に預言された日いずる国であり(黙示録7:2)、失われたイスラエル十部族の末裔と思われる。日本は全世界を相手にして勝ち、イスラエルの救いにあたるという使命を神から託されている。それゆえ今は、キリストの再臨とユダヤ民族の回復のために祈りに専心すべきである。そうすれば、日本民族ユダヤ民族同様、一瞬にして救われるはずである」 。

聖書より見たる日本

聖書より見たる日本

 

 

 太平洋戦争中(1941~1945年)、ホーリネス系の教職者134名が官憲によって検挙され、そのうち7名が獄死した。彼らが弾圧されたのは、「キリストが再臨して地上に千年王国を樹立し、君臨する」という教えが、天皇を神とする国体観念を妨げる、と見なされたからである。

ホーリネス弾圧事件 - Wikipedia

 

 現代の教説については、以下に整理して確認しよう。

 
キリスト教神学〈第4巻〉

キリスト教神学〈第4巻〉

 

  

  2 千年期前再臨説(premillennialism)

 

 これは千年王国に先立ってキリストの再臨があるとする教説である。「千年」を字義どおりに考えるこの解釈は、初代教会において有力であり、現代でも支持する人が多い。

 

 ヨハネの黙示録では、終末時代は次の順序で書かれている。

 

 患難時代再臨千年王国最後の審判新天新地

(~18章)(19章)(20章) (20章) (21章)

 

 現代の千年期前再臨説は以下の三種に分類される。

 

  ① 患難時代前携挙説(pretribulationism)

 

 古典的ディスペンセーション主義の終末論を要約すると、以下のようになる。キリストは旧約聖書に預言されたとおりに「ダビデの子」、「ユダヤ人の王」としてこの世に来臨されたが、ユダヤ人はメシアとその王国を受け入れなかった。そのため、その王国の成就は延期され、その間に「異邦人の時」である教会時代が挿入された。やがてキリストは再臨して、ダビデの王国=イスラエルを回復される。この千年期にイスラエル旧約聖書に預言されたとおりにパレスチナを相続し、エルサレムの神殿を復興し、異邦の民を支配する。

 この立場では「患難時代には、キリスト者は既に天に引き上げられていて、難を逃れ、イスラエルは地上に残される」という。キリストの再臨は、空中再臨と地上再臨の2回にわたる。この教説の支持者はキリスト再臨のしるしを熱心に探し、終末についての聖書の預言を現在の世界情勢に当てはめて解釈する傾向がある 。

 

空中再臨→信者の携挙
→→→→→→→→→→→患難時代→地上再臨→千年王国最後の審判→新天新地

 

津久野キリスト恵み教会

レフトビハインド - Wikipedia

 

  ② 患難時代後携挙説(posttribulationism)

 

 これは「キリスト者は患難時代を耐え抜いた後に天に挙げられる」という教説である。患難時代後携挙説は初代教会から現代に至るまで、最も広く支持されている

 ヨハネの黙示録で「千年王国」について言及しているのは20章1~7節だけであるのに対して、3年半(11:2,3,12:6,14,13:5)と思われる「患難時代」については6章から18章まで詳細に述べられている。これは、患難時代がキリスト者にとって重大な意味を持つからであろう

 

患難時代→再臨→信者の携挙→千年王国最後の審判→新天新地

  

終末論

終末論

 
改訂版 小羊の王国 (いのちのことば社)

改訂版 小羊の王国 (いのちのことば社)

 
ヨハネの黙示録注解~恵みがすべてに~

ヨハネの黙示録注解~恵みがすべてに~

 

  ③ 患難時代中携挙説(midtribulationism)

 

 これは、キリスト者は患難時代の途中で天に引き上げられる、とする教説である。これを支持する者は少数である。

 

     空中再臨→信者の携挙
患難時代→→→→→→→→→→→→地上再臨→千年王国最後の審判→新天新地

 

  3 千年期後再臨説(postmillennialism)

 

 これは、教会の宣教によってキリスト者の霊的道徳的影響力が増して、地上に千年王国が実現し、その時代の後にキリストが再臨するという、楽観的・進歩主義的な教説である。
 アウグスティヌス(354~430年)は、天地創造の六日間と神が安息された一日をこの世の七つの時代にあてはめて教えた 。

 

  第一の時代 アダムからノアまで
  第二の時代 ノアからアブラハムまで
  第三の時代 アブラハムからダビデ王まで
  第四の時代 ダビデからバビロン補囚まで
  第五の時代 バビロン補囚からイエス・キリストの生誕まで
  第六の時代 イエス・キリストの生誕から再臨まで(教会の時代)
  第七の時代 イエス・キリストの再臨以降(安息)
  第八の時代 主の永遠の第八日(永遠の王国)

 

教えの手ほどき (キリスト教古典叢書 (4))

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 このアウグスティヌス歴史観は、「主のもとでは、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」(第二ペトロ 3:8)という聖書の言葉に由来するものである。
アウグスティヌスは、『神の国』(DE CIVITATE DEI)の第20巻第7章・第8章・第9章において、ヨハネの黙示録第20章の千年王国について彼の見解を述べている 。

 

ところで、一千年間、悪魔が拘禁されているのであるが、そのしばらくのあいだ、聖徒たちはキリストと共にこの一千年間を支配する。それは、同じ意味において、そして、同じ時――すなわちキリストの最初の到来によって現実にはじまった時――を示すものとして解されるべきである。(中略)そうでなければ、「教会」がいまもキリストの王国とよばれたり、天の王国とよばれたりすることはまったくありえないであろうからである。

 

神の国 1 (岩波文庫 青 805-3)

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神の国 2 (岩波文庫 青 805-4)

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神の国〈5〉 (岩波文庫)

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 アウグスティヌス「教会」と「神の国」、「千年王国」を同一視して、現在の契約期 the present Christian dispensation の中にこそ至福千年を求めるべきである、と説いた 。ただし、彼は「千年」を文字通りではなく、「時の充満があらわされる」 象徴的な数字と見ている。「『千年の期間が終わるまで』といわれているのは、第六日目――それは一千年から成り立っている――の残りのことであるか、それとも、つづいてこの世が通過されていくために存する年のすべてのことであろう」 と彼は述べている。アウグスティヌスの象徴的・神秘的解釈法は、中世全体を通じてローマ・カトリック教会の標準となった。

 

 宗教改革時代の神学者は、ルター派カルヴァン派英国国教会もみな、ヨハネの黙示録第20章をアウグスティヌスの線に沿って解釈した。急進派がヨハネの黙示録を重視したのに対し、ルターは福音書パウロ書簡を重視して終末論を考えた。ルター派と改革派は急進派の終末論と運動を厳しく批判した。

 

 「アウグスブルク信仰告白」(1530年)にはこう記されている。

われわれの諸教会は、罪を宣告された人々と悪魔に対する刑罪にも終わりがあるであろうと考える再洗礼派を、異端と宣告する。また、現在ユダヤ的な見解を流布して、死人の復活に先立って、敬虔な人々がこの世の国を支配し、不敬虔な者たちはあらゆる所で制圧されるであろうと説いている人々をも、異端と宣告する。(第17条)

 

 近代においては啓蒙思想と進化論の影響によって、楽観的・進歩主義的な歴史観がより強固になった。しかし人類が、二つの世界大戦、核戦争の危機、地球環境問題、難民問題、テロリズムといったグローバルな難問を経験した20世紀には、このような楽観的な見方をとることは難しくなった。

 

千年王国(→患難時代)→再臨→信者の携挙→最後の審判→新天新地

 

  4 無千年王国説(amillennialism)

 

 これは、千年期は無い、キリストの地上支配は無い、という教説である。キリストの再臨に続いてすぐに最後の審判が行われ、新天新地に移行する、という見解である。「千」は数値ではなくて、完全の象徴と考える。

 

 千年期後再臨説と無千年王国説は近代に至るまで区別されなかったようである。両者の違いは、キリストの地上支配の有無にある。第一次世界大戦以降、千年期後再臨説を主張することが難しくなったため、無千年期説がこれに取って代わるようになった、というのが実情らしい 。

 

 無千年期説を支持する者は、ヨハネの黙示録の展開を、時間の経過と見るのではなく、同じ時、すなわち教会史全体についての異なった視点からの叙述と見る。

 

 患難時代→再臨→信者の携挙→最後の審判→新天新地

 

叢書新約聖書神学 15 ヨハネ黙示録の神学

叢書新約聖書神学 15 ヨハネ黙示録の神学

 

 

  5 解釈の問題

 

 これまで見てきたように、千年王国についての理解は、それぞれの時代の歴史的社会的条件に大きく影響されている。ヨハネの黙示録は象徴的な表現が多いため意味を特定しづらく、解釈の幅が広がってしまい、解釈者はヨハネの黙示録のテキストに自分自身の状況を読み込んでしまいがちなのである。そこで「千年王国とは何か」という問題を解くためには、ヨハネの黙示録という黙示文学をどのように解釈するか、まず解釈の方法論を確立する必要がある、ということになる。

 

 中世のローマ・カトリック教会の聖書解釈は、通常、一つの本文に四つの意味がある、という前提に立っていた。すなわち、文字的解釈、比喩的解釈、道徳的解釈、寓喩的解釈である。「文字は事実を語り、比喩は信じるべきことを、道徳は為すべきことを、霊的なものは希望を教える」と言われる。

 

 マルティン・ルターはこれに反対して、聖書の意味は四つではなく、ただ一つであり、歴史的文法的な意味だけである、と主張した。ジャン・カルヴァンも同じ立場に立った。ルターの解釈原理は、今日に至るまで正統的なプロテスタントの解釈原理として認められてきた、と言ってよいだろう。

 しかし、この解釈原理はヨハネの黙示録の解釈にあたっても十分な方法論と言えるだろうか。カルヴァンは見事な新約聖書の註解を残しているが、ヨハネの黙示録の註解だけは書かなかった。ルターもヨハネの黙示録の研究には消極的であった。

 

 聖書66巻には様々な著作の状況があり、それぞれに固有の目的があり、文学類型も多種多様である。我々はそれぞれの時代状況と目的と文学類型を理解して、それに適合した方法を用いて解釈をすべきだろう。そうでなければ、的外れな解釈になりかねない。

 

 筆者は、ヨハネの黙示録第20章1〜6節に記された「千年王国」の解釈にあたっては、次の5つの方法を用いるのが良い、と考えている。

(1) 歴史的な解釈(執筆当時の歴史的社会的状況におけるテキストの意味を探究する)
(2) 文学的な解釈(著作の目的・文学形式・文体・構造からテキストの意味を探究する)
(3) 正典的な解釈(聖書全体及び各書との関係においてテキストの意味を探究する)
(4) 預言的な解釈(未来に属する出来事が救済史において持つ意味を探究する)
(5) 実存的な解釈(現代を生きる我々に対してそのテキストが持つ意味を探究する)

 

 第2章では、ヨハネの黙示録の思想的前提となっている聖書の歴史観と終末論について考察したい。そして第3章では、聖書の終末論の基本的な構造をふまえて、以下の5つの視点からヨハネの黙示録を読み解き、「千年王国」が意味するものを明らかにしたい。

(1) ヨハネの黙示録の展開は時代の流れを意味するのか
(2) キリスト者は患難時代を最後まで経験するか
(3) 教会を千年王国と同一視できるか
(4) キリストは地上に再臨して、地上世界を支配されるのか
(5) 千年王国は字義どおり千年間続くのか

 

序論 千年王国的終末論を問う

キリスト教の終末論と千年王国
 
彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
ヨハネの黙示録第20章4,6節)

  

  目 次
 
序論 千年王国的終末論を問う

本論

第1章 千年王国に関する諸説
1 千年王国的終末論の思想史
2 千年期前再臨説
3 千年期後再臨説
4 無千年期説
5 解釈の問題

第2章 聖書の歴史観と終末論
1 「初め」から「終わりへ」
2 螺旋的な歴史観
3 民族宗教から世界宗教への普遍化
4 「既に」到来し、「未だ」完成しない神の国
5 神の支配VS悪魔の支配
6 ダニエル書の終末論

第3章 千年王国が意味するもの
1 ヨハネの黙示録の展開は時代の流れを意味するのか
2 キリスト者は患難時代を最後まで経験するのか
3 教会を千年王国と同一視できるか

結論 終末の時代にいかに生きるか

 

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  序論 千年王国的終末論を問う 

 

 2001年1月1日に我々は新しい千年紀(millennium)を迎えた。その記憶はお互いにとってまだ、さほど古くはないだろう。その頃、世界中の人々がこの大きな時代の節目を意識した。この世の「終末」について考えた人も少なからずいたようである。


 筆者は1980年頃に、当時流行していた「ノストラダムスの大予言」に関する本を読み漁ったことがある 。この世の破滅を予言していると言われた彼の詩は、曖昧な表現ばかりで、どうにでも解釈できるいい加減なものであった。しかし、やはり私も「1999年」には、その「予言」を思い出した。

ノストラダムスの大予言 - Wikipedia

 

 地下鉄サリン事件(1995年)で世界を震撼させたオウム真理教 が、「ハルマゲドン」と呼ばれる世界最終戦争が間もなく起こると喧伝していたことは、よく知られている。仏教系の新興宗教が、新約聖書ヨハネの黙示録」第16章16節に書かれている「ハルマゲドン」という地名を殊更に重視するのは、奇妙である 。これは明らかにアメリカのキリスト教の影響である 。日本でも1983年に公開されたアニメ映画『幻魔大戦』の宣伝で「ハルマゲドン接近」というキャッチコピーが使用されていたので、聖書を読まない日本の若者にも何となく意味が通じたのだろう。

オウム真理教 - Wikipedia

ハルマゲドン - Wikipedia

幻魔大戦 : 角川映画

 

 この世紀末に蔓延した終末気分には基本的に、破滅的、悲観的、厭世的な性格があった。これにはキリスト教の一部が保持する「千年王国的終末論」(millennialism)が大きく関係している。「千年王国的終末論」とは、この世の終末においてキリストが再臨して、千年にわたって地上を統治する、という終末論である。その根拠とされるのはヨハネの黙示録第20章1~6節のテキストである。はたして千年王国的終末論は、本来、聖書が伝えようとしている使信に合致したものだろうか。

 

1 わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。

2 この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、

3 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。

4 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。

5 その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。

6 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。

ヨハネの黙示録20:1-6)

 

 教義は、信者の信仰と生活を規定し、教会や国家、国際社会を動かす力を持っている。とりわけ終末論はキリスト教的世界観・歴史観の根幹であり、我々がこの世界に生起する現在の問題と将来の問題にどのように向き合っていくか、という倫理に深く関わっている。

 

 例えば、レーガン政権以降、米国ではセンセーショナルな千年王国的終末論を説くファンダメンタリズム原理主義)の教会や団体が信徒を増やして急成長し、その指導者たちは政治の中枢に深く関与するようになった 。そのため、彼らが説く千年王国的終末論が世論を動かし、アフガニスタンクウェートイラク、イラン等、中東におけるアメリカの軍事行動に大きく関係するようになったのである。アメリカの同盟国である日本は、この問題に無関係ではいられない。とりわけ日本の福音派教会は誕生時から今日に至までアメリカのファンダメンタリズムと深い関係にある 。

 

伝道・福音派・福音主義 (1983年)

伝道・福音派・福音主義 (1983年)

 


www.wlpm.or.jp

 

 話は30年ほど前に遡るが、私は大学生の頃、日本の再臨運動の指導者として有名な森山諭師が牧会する教会に通い、森山師の教えを一所懸命に学んだ。森山師の立場は千年王国的終末論-千年期前再臨説-患難時代前携挙説であった 。現代のアメリカの福音派において多数の支持者を持つ教説である 。

http://www.eiko-church.com/old/annai/archives/000017.php

 森山牧師は時々次のようなことを言われた。

キリストが空中再臨されたら 、ひとりは引き上げられ、ひとりは取り残されます。今晩キリストが空中再臨されたら、あなたはどちらになりますか。

まさに目が覚まされる、厳しい問いかけである。「空中再臨」の根拠とされるテキストは、テサロニケの信徒への手紙二第4章16~17節である。

16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、

17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。

(第一テサロニケ4:16-17)

 

 キリストの空中再臨の時に信者が空中に「引き上げられる」ことを「携挙」(Rapture)という。きよめ派(ホーリネス派)では、この「空中再臨」の教えにいわゆる「きよめ」の教えが結合されている。ーー携挙のためには「聖霊バプテスマ」を受けて全くきよめられていることが必要だ、「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」 からだーーというのである。この再臨の教えに私が感じたのはプレッシャーと恐怖であって、慰めや喜び、平安、希望ではなかった。

 

 一方で、当時、私は大学で安全保障論やエコロジー経済学を主に学んで、人類社会はどのようにして現代の危機を乗り越えればよいのか、という問題を考えていた。すると次第に、教会での学びと大学での学びが矛盾しているように思えてきて、私は深く悩んだ。滅びることが決まっているのなら、この世界の保全回復に努めても無駄ではないか。役所や企業に就職するよりも、神学校に行って伝道者になり、一人でも多くの人を天国に導くべきではないか……。そんな考えを持ったこともあった。

 

 ところが、ある時、私は「空中再臨」を教えるとされるテサロニケ人への第一の手紙第4章に、次の御言葉が書かれていることに気づいた。

つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。(第一テサロニケ4:11口語訳)。

 テサロニケ人への第二の手紙第3章では、パウロは、「働かないで、ただいたずらに動きまわっている」(11)人たちに対して、「静かに働いて自分で得たパンを食べるように」(12)と命じている。これが今の自分に対する神の導きであると思い、私は大学卒業後、一般社会で働くことを決めたのであった。神学的には創造論と人間論、キリスト教社会倫理を学ぶことによって、神の文化命令(創世記1:26、28)に応える労働こそ人間の本分であることを悟り、世俗の仕事に8年間、積極的に取り組むことができた。

 これは小さな一つの例に過ぎないが、真面目に聖書を学び、その教えに従って生きようとしている人ならば、キリストの再臨と世界の終末について、自分自身の生き方と関係して考えたことが、一度ならずあるだろう。この論文の課題は「千年王国論的終末論」を検証することであるが、これを考えるにあたっても最終的には、我々自身の生き方を問うところまでいきたい。そもそも聖書の終末論は、抽象的な概念ではなくて、これを読む者に自らの生きるべき道を考えさせて、それを指し示す実存的な思想なのである。

 

 この論文では第一に、千年王国に関する諸々の教説について確認する。第二に、聖書全体の歴史観と終末論について考察して、千年王国の思想的な背景を探りたい。第三に、ヨハネの黙示録第20章第1節から第6節までのテキストの釈義を行う。最後に我々自身における千年王国の実存的な意味を考察したい。

 

 聖書のテキストは断りの無い限り『聖書 新共同訳』を使用する。

神の律法と人の言い伝え

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2018年1月14日 顕現後第2主日礼拝 説教
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【聖書朗読】マタイの福音書15章1〜20節

マタイ 15.1-39

【説教題】「神の律法と人の言い伝え」金井 望 牧師

【中心聖句】

なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
「この民は、口先ではわたしを敬うが、
その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。

人間の教えを、教えとして教えるだけだから」
(マタイ15:3,6,8-9)
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【説教要旨】

 

ガリラヤ地方で大勢の人々がイエスのもとに集まり、イエスを主君として独立運動を起そうとしていた(ヨハネ6:15)。その前から律法学者やパリサイ人はイエスの暗殺を企んでいたが(12:14)、風雲急を告げるということで、エルサレムからガリラヤに偵察員を送り込んだ。

 

彼らはイエスに尋ねた。

「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか」。

聖書の律法(トーラー)は――神殿で仕える祭司やレビ人が聖なるものを食べる時は、自らを聖別していなければならない――と規定していた(レビ22:4-7)。ところがユダヤ教のラビ(教師)たちは紀元1世紀にこれを拡大解釈して、一般人にも食前の清めを要求したのである。

 

パリサイ人や律法学者はイエスを訴える口実を得ようとして、<長老たちの言い伝え>を持ちだした。これは「口伝律法」(ハラカー)と言って、聖書の解釈を記したものであり、2世紀以降に「ミシュナー」となった。

主イエスは――「供え物」(コールバーン)と言えば、父母の扶養義務を免れることができる――という例をあげて、反論した。

なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。……こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。……人間の教えを、教えとして教えるだけだから」。

彼らは自らが霊的な「盲人」であることを認識していない。


信条・規則・慣習は必要なものだが、それは聖書に基づいていなければならない。そして、人間の言葉に聖書と同等あるいはそれ以上の権威を認めてはならない。

 

主イエスは群衆にこう説いた。

「口にはいる物は人を汚しません」。「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです」。


神が求めておられる清めとは、神に対する敬虔と従順であり、隣人に対する倫理的な正しさなのである。