KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

ナムアミダブツとキリスト教(1)

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     鎌倉の大仏(阿弥陀仏

 『仏説無量寿経
一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名乗り修行し、衆生救済のための五劫思惟し、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済のための「四十八願」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就しとなった報身仏と説かれる。また、現在も仏国土である「極楽」で説法をしていると説かれている。

出典阿弥陀如来 - Wikipedia

 

第十七願
原文 - 設我得佛 十方世界 無量諸佛 不悉咨嗟 稱我名者 不取正覺

訓読 - 設(も)し我れ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、我が名を称せずば、正覚を取らじ。

意訳=私が仏となる以上、 全ての仏たちが私の名をほめ称(とな)えないということがあるならば、私は仏になるわけにいかない。

第十八願

原文 - 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法

訓読 - 設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く。

意訳 - 私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。

出典四十八願 - Wikipedia仏説無量寿経』「四十八願

称名念仏(しょうみょうねんぶつ)とは、仏の名号、特に浄土教においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)をいう。

法然
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、「南無阿弥陀仏」をひたすら称える「専修念仏」の教えを説いた。後に法然は、浄土宗の開祖と定められる。法然の説く念仏は、阿弥陀仏の本願(第十八願『念仏往生の願』)を信じて「南無阿弥陀仏」と仏の御名を称えれば、善人、悪人、老若男女、貧富の別なく、すべての衆生を救うと誓われた阿弥陀仏によって、臨終には阿弥陀仏をはじめ観音菩薩勢至菩薩や極楽の聖衆が来迎(らいこう)し、極楽浄土へ迎え入れ、彼の地に往生することが出来ると説いた。

また、この阿弥陀仏の選択本願の念仏は、臨終間際の悪人が善知識の勧めによってただの一遍称えただけでも救われると説く一方で、念仏の教えを信じる人は平生(普段から)より一生涯念仏を称え続けることが、阿弥陀仏の本願に順ずる事であると説き、法然は自らも日に六万遍、七万遍の念仏を称えたと伝えられている。

親鸞
親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。
出典:称名念仏 - Wikipedia

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       法然(1133年~1212年)

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       親鸞(1173年~1262年)

 

修行を積んで仏となった阿弥陀如来衆生に功徳を分け与えるので「南無阿弥陀仏」(ナムアミダブツ)と唱えるだけで、どんな悪人でも救われて、極楽に往生できるーー。法然親鸞が説いたこのような他力本願の教え=浄土宗浄土真宗は、日本で最大の宗派となっています。筆者の父の実家(新潟県上越市)は浄土真宗大谷派の信徒でした。

 

「南無」はサンスクリット語の「ナーム」(帰依する)の音訳であり、「阿弥陀」はサンスクリット語の「アミターユス」(無量寿、永遠の命)「アミターバ」(無量光、永遠の光)の音訳です。

 

正信偈の教え-みんなの偈- | 東本願寺

 

仏教学者の岩本裕氏は、次のように述べています。

阿弥陀如来に関して、他力本願の思想は明らかにキリスト教の影響があると考えられる。(岩本裕著『仏教入門』p.178) 

仏教入門 (中公新書 32)

仏教入門 (中公新書 32)

 

 仏像が初めて生まれたのは1世紀後半のガンダーラ地方ですが、それはギリシャの彫像に似ています。これはヘレニズムの産物です。


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 インドには使徒トマスの宣教に由来するキリスト教の一派があります。トマスはインドのみならず中国でも宣教した、という伝説もあります。東西の文明の交流は、1世紀には盛んに行われていたのです。

 トマス (使徒) - Wikipedia

www.academia.edu

川島耕司 著「インド・ケーララ州のキリスト教和光大学リポジトリ

https://wako.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=4451&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=55


杉本良男 著「天竺聖トマス霊験記」

https://minpaku.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=3970&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=21

 

岩本裕著『極楽と地獄-日本人の浄土思想』三一新書(1965年)

念仏しようという善意志と信心とは全くアミダ仏の恩寵の賜物。この思想は明らかにキリスト教の恩寵説と全く同じでありアウグスティヌス(354-430)の言葉を借りれば「恩寵の賜物」 Gratuitum donum「神の恩恵的な恩寵」Gratia Dei gratuitaであ り、したがって「恩寵が功徳を与えるのであって功徳によってそ れが与えられるのではない」Gratia dat merita, non meritis datur ということである。(p.216)

死後の審判という宗教信仰、すなわち宗教学でいう終末論(エシャトロジー)は、キリスト教ユダヤ教そしてイランのゾロアスター教では有名であるが、仏教にはもともとない思想である。
よく知られているように、仏教には善因善果・悪因悪果という業報思想があり、その結果として、四生あるいは六道に生れ変わり死に変わるという輪廻の思想があった。死後に審判を受けるという終末論的な思想は全然なかったのである。ところが、『霊異記』に見られる地獄の報告に関する諸説話、さらには平安末期以後の「三途の川」の所伝には、明らかに死後における審判という宗教思想がはっきりみとめられるのである。(p.192)

 極楽の原名がスカーヴァティであって、「幸福のある(土地)」の意味をもつ。(p.111)

スカヴァティーの名の起源は、どこに求められるのであろうか。結論を先にいうと、著者はスカヴァティーとはユダヤ教キリスト教で知られている「エデンの園」のエデンの訳語ないしその名にヒントを得た構成であると考えている。エデンとはヘブライ語で「快楽」を意味するエーデンのアラム語形である。(p.114)  

極楽と地獄 (1965年) (三一新書)

極楽と地獄 (1965年) (三一新書)

 

  

岩本裕著『佛教入門』中公新書 (1964年)

阿弥陀如来に関して、他力本願の思想は明らかにキリスト教の影響があると考えられる。......佛の本願とはキリスト教の恩寵説に おける「神の恩恵的な恩寵」gratia Dei gratuita と同一思想である。......佛教の本質は自力であり、大乗佛教の成佛思想も自力を基礎としている。それにもかかわらず、阿弥陀佛に関してのみ他力本願の説かれる理由は、佛教の内部では説明がつかない。キリスト教はすでに西暦二世紀にはインドの西北辺に達していたのであり、その後の数世紀にわたって佛教とキリスト教の交流がパルティア王国を中心に行なわれたのであって、キリスト教外典における佛教の影響は実に大きい。(p.178)

  

岩本裕著『布施と救済 大乗仏教』世界の宗教〈第7〉淡交社 (1969年)

このころ、ヒンドゥー経のバクティ(誠信)思想が仏教に受容されて本願思想が展開し、これが大乗仏教の菩薩思想と結合し、さらに西アジア方面の宗教思想(救済)の理念を受容して、阿弥陀仏と極楽の信仰があらわれた。(P.126)

 法然はこのようにいう。「それ速やかに生死をはなれんと思はば、......えらびて浄土門にいれ、浄土門に入らんと思はば......えらびて正行に帰すべし。正行の中を修せんと思はば......えらびて正定をもはらとすべし。正定の行とはすなはちこれ仏の御名を称するなり。名を称すれば必ず生るることを得。仏の本願によるが故に」と。ここに阿弥陀仏の本願は明らかに【ほとけ】の恩寵であることが指摘される。この恩寵をわが国で最初に発見したのは実は法然であった。(p.98)

親鸞の恩寵説では、阿弥陀仏の本願は絶対であり、老少善悪というような一切の相対的なものを否定するのである。阿弥陀仏の本願はわれわれの言語を絶し、われわれの思惟を越えるものであり、ただ「弥陀の誓願不思議にたすけまゐらせ」るよりほかに人間のおよぶものはなに一つないのである。恩寵説という点のみから見れば、親鸞の教えは宗教的に最高であると言っても過言ではないようである。(p.102)。

真宗は大乗佛教であるという主張に固執するかぎり、真宗教学は親鸞の純粋な恩寵説を曇らし汚しているかと思われる。真宗大乗仏教でもなく小乗仏教でもなく、いわば第三の「恩寵説の仏教」として展開するときに、親鸞の教えは真に宗教として花をひらくことになろう。(P.104)


  http://iwatachi.com/pdf/iwamoto

平山 朝治「大乗仏教の誕生とキリスト教」


 

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革命の闘士、聖パウロ Saint Paul, militant révolutionnaire

 

浄土教キリスト教は何が似ていて、何が異なるのか、整理してみましょう。

結論から先に言いますと、キリスト教浄土教と根本的に異なるのは、救世主(メシア、キリスト)であるイエスの歴史的実在です。浄土教では阿弥陀仏に具体的な歴史的実在性がありません。

なぜそうなるのか。ユダヤキリスト教とインド・仏教では、そもそも救済論の前提となる世界観や歴史観が大きく異なっていることに、留意すべきです。

ユダヤキリスト教の世界観では、創造主である神(God)は絶対他者です。神は永遠・無限ですが、人間は有限で儚い存在です。神と人間は絶対的な上下関係にあり、人間が神になることは絶対に有り得ません。

これに対して、インド・仏教の世界観では神仏(gods)と人間は連続的であって、両者の区別は曖昧です。

イエス・キリストは、天から地上に降ってきた神の御子です。神が人間になったのです。上から下へ向かう方向性です。これに対して、人間が修行して仏になったというのが、浄土教です。下から上に向かう方向性です。

ユダヤキリスト教歴史観は、天地創造から終末まで基本的に直線的です。これに対して、インド・仏教の歴史観は本来、円環的です。人間である求道者=菩薩は何度も生まれ変わって、功徳を積んでいき、ついに悟りを開いて覚者=如来となり、衆生を救うというのです。

阿弥陀如来になったのは誰だったのか。それを歴史的に具体的な特定をしなくても、宗教としてこんなに巨大な力を持てるのが、不思議です。

ユダヤキリスト教では、異教の「神々」(gods)は空想の産物か、実在するとしても天使や堕天使(悪魔・悪霊)のレベルに過ぎません。

 

古代ユダヤ教の唯一の「神」の名(固有名詞)は「主」です。ヘブライ語YHWHと綴られ、「ヤハウェ」または「アドナイ」と読まれていたようです。そのギリシア語の訳語が「キュリオス」(主)です。その原意は主がモーセに告げられた「私は在って在るものである」(出エジプト3:14)という御言葉であると考えられます。

ところが紀元20年代後半に、ガリラヤ地方・ナザレ村出身の大工であったイエスは、自らが「天の父」=God の息子であり、「主」であると主張しました。そして、それを証明する不思議な力を現しました。

ユダヤ人の指導者たちには、それは受け入れがたいことでした。彼らはイエスを冒涜と扇動と反逆の罪で責めて、ローマ総督の権威のもとで、十字架刑に処したのです。

ところが、イエスは十字架で殺されてから3日目の朝早く、復活して、40日間500人以上の人々にその姿を現わしました。復活はイエスが神の御子であり、メシア(キリスト)であることの決定的な証明でした。

エスは、オリブ山から天に昇っていきました。イエスは至高の天で王座に就き、天と地と地下、すなわち全ての領域の支配権を御父から授かった、と新約聖書は教えています。

 

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
新改訳聖書 第2版 第一コリント 15:3-8)

 

浄土経典に記された阿弥陀仏の話は、歴史性が乏しい神話です。それに対して、イエス・キリストによる人類の救済には、確かな根拠があるのです。

 

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人はイエス・キリストが為した誠実な業をとおしてでなければ、律法の行いのみでは義とされないと知って、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。それは律法の行いでなく、キリストの誠実な業によって義とされるためです。
(ガラテヤ2:16 浅野淳博訳)

(出典)浅野淳博著『ガラテヤ書簡』NTJ新約聖書注解(日本キリスト教団出版局)2017年 p.211

ガラテヤ書簡 (NTJ新約聖書注解)

ガラテヤ書簡 (NTJ新約聖書注解)

 

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。

あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

新改訳聖書 第2版 コロサイ人への手紙 2:9-15)

 

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神の御子イエスが人となって、誠実に神の義の要求を満たした。

イエス・キリストは人類の罪(=神の律法に違反したことによる負債)をその身に負って犠牲となり、贖いの死を十字架で成し遂げた。

これによって人類の負債は完全に償われ、債務証書は無効となった。

サタンはもはや、イエス・キリストの贖罪の恩恵にあずかる者たちを、訴えて責めることはできない。

キリストは黄泉に降って、悪魔悪霊の勢力を征服した。

そして、キリストは復活し、天に凱旋して王座に就かれた。

こうして人類に、罪と死の力から解放される救いの道が開かれたのである。

それゆえ、イエスを主キリストと信じて、その御名を呼ぶ者は、誰でも救われるのである。

 

使徒パウロ、エイレナイオスをはじめとする古代の教父たち、マルティン・ルターには、このような「勝利者キリスト」の信仰がありました。このような「勝利者キリスト」の信仰は、日本人への宣教に有効ではないでしょうか。

 

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)

 

キリストのである阿弥陀仏の名を称えてきた日本人が、その実体であるエスを主キリストと信じ告白する時が、今、到来しているのではないでしょうか。

 

勝利者キリスト―贖罪思想の主要な三類型の歴史的研究 (1982年)

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