KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

女性牧師の是非について

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      José Loncke 作 Priscille et Aquila

藤原導夫師(お茶の水聖書学院 学院長)が1992年にお書きになった「教会における女性教職者論をめぐって」という論文が、先日ブログで公開されていましたので、読ませていただきました。現代日本の教会というコンテクストにおいて、適切で重要な論文と拝見しました。大変参考になります。

教会における女性教職者論をめぐって: ふじわらみちお

 

筆者が所属する日本イエス・キリスト教団には、女性の牧師が大勢おります。これは神学的な検討以前に「すでにある現実」でありまして、本格的にその是非を検討したことは、ほとんど無かったと思います。実際問題として女性牧師がいなければ、我々の教団は成り立たないでしょう。今やトップの教団委員長も女性牧師です。

日本イエス・キリスト教団(JCCJ)

 

その背景にあるのは、母体である宣教団体「日本伝道隊」(JEB)の女性宣教師たちが発揮していた優れた伝道、教育、パストラルケア、リーダーシップだと思います。ウェブスタースミス師、バーネット師、マグラス師などJEBの宣教師には大変な女傑がいました。

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  1937年 バークレー・バックストン師を囲んで

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マーガリット・バーネット - Wikipedia

福田 博美著『英国人宣教師 M.A.バーネットの生涯
-大正・昭和の「中央日本」開拓伝道と福音伝道協会の形成-』
 

主の恵みを数えて

主の恵みを数えて

 
友だち家族「ベウラの園」―新しい老後の暮らし方

友だち家族「ベウラの園」―新しい老後の暮らし方

 

 J.E.B. Missionaries

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LEFT TO RIGHT: Judy Greenbrook, Bobbie & Tillie Toner, John, Bruce & Lynette Edwards (Dad & Mum), Ron Heywood, Alice Elsa Smith, Pat Heywood, Margaret Marcks, Eileen Warner, Maureen Smith, Marjorie Waller, Amy Luke

SEATED:  Eunice Clarke, Violet McGrath, Eric & Mary Gosden, Percy Luke

halloffaith - unfadingstory2

神の絶大な力―日本伝道隊史話

神の絶大な力―日本伝道隊史話

 

AIM25 collection description

 JEBの宣教師は英国人が多数であり、母国では聖職者・按手を受けた牧師ではない人が少なからずいました。特に女性の宣教師はそうでした。そのためJEBは教会を持たない主義であり、開拓伝道によって生み出した群れを、日本人の牧師や教団にゆだねていました。けれども、JEBの神学校(現・関西聖書神学校)には女性が次々と入学し、卒業していきました。その結果、牧師夫人とならずに独身で牧師となった女性がどんどん生まれた次第です。

関西聖書神学校 Kansai Bible College


さて、アクラの妻プリスカ(プリスキラ)に典型的に見られるように、初期のキリスト教においても、女性が牧者として活躍する現実があったのではないでしょうか。

さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネバプテスマしか知らなかった。彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。(使徒18:24-26)

アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。(第一コリント16:19)

キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい。(ローマ16:3)



 プリスカは、ポント生れのユダヤアクラの妻で、愛称はプリスキラでした(使18:2)。49年にローマ皇帝クラウディウスユダヤ人追放令を出したため、この夫婦はローマからコリントに移住し、そこでパウロに出会いました(使徒18:1-3)。パウロは同業者であったため、彼らの家に住みこんで、一緒にテント作りをしました。パウロエペソに移った時に、彼らも同行しました使徒18:18-19)

 パウロはこの夫婦を「同労者」と呼んでいます。彼らは優れた伝道者でした。雄弁な伝道者アポロがエペソに来た時には、彼の福音理解に欠けた部分があったため、「プリスキラとアクラ」が彼にさらに詳しく神の道を教えました(使徒18:26)。夫人の名が前に出るようになったのは、プリスカがより大きな働きを担ったからでしょう。その後、彼らはローマに戻り、「家の教会」を形成しました(ローマ16:5)。

 パウロは彼らの愛に感謝して、次のように激賞しています(ローマ16:4)。

彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである。彼らに対しては、わたしだけではなく、異邦人のすべての教会も、感謝している。

  女性伝道者プリスカは、ローマ、ギリシア小アジアの諸教会をつなぐネットワークの形成において大きな役割を果たしました。

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筆者は個人的には、荒井献氏が『新約聖書の女性観』で展開している女性牧師肯定論に賛成しています。

新約聖書の女性観 (岩波セミナーブックス)

新約聖書の女性観 (岩波セミナーブックス)

 

 

教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。もし、何か学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。(第一コリント14:34~35)

私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ静かにしていなさい。(第一テモテ2:12)


パウロがプリスキラと同労者であったことと、彼が書簡で主張している女性論には「矛盾」を感じますが、それは「すでに」実現しつつあり、「未だ」完成していない「神の国」において当然に生じるものだと思います。

そこにはもはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つなのだから。(ガラテヤ3:28)


「すでに」実現しつつある神の国パウロ自身も体験しているのですが、まだまだ1世紀の地中海世界においては、これを適用できない現実もまた存在していたのです。

 

パウロの時代から2000年を経た今日、我々は我々のコンテクストにおいて、改めて女性牧師について考え、議論し、実践する必要があるでしょう。 

 

福音主義神学』 32号(2001年)「女性教職論」

http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers32.html

 

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キリストの血の責任

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Christ in front of Pilate  by Mihály Munkácsy

 

2018年3月25日 棕櫚の主日 礼拝説教
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【説教題】「キリストの血の責任」金井 望 牧師

【聖書朗読】マタイの福音書27章15〜26節

マタイ 27.1-66

【中心聖句】

彼の血は私たちの上に、そして私たちの子どもたちの上に。

(マタイ27:25)

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2018年3月25日礼拝説教

【説教要旨】

 無罪であるイエス・キリストが十字架で殺されたのは、誰の責任だろうか。

 当時、ユダヤとガリラヤはローマ帝国支配下にあった。ローマ総督ピラトはイエスに尋ねた。

あなたはユダヤ人の王なのか

ユダヤ議会(サンヘドリン)はそのように訴えた。反乱の首謀者だというのである。主イエスは答えて言われた、

あなたがそう言っています

エスはこのようにも言っておられる、

わたしの国は、この世のものではありません」(ヨハネ18:36)

武器も兵隊も持たないイエスを、反乱罪に定めることはできない。

 祭司長や長老たちが、ねたみのゆえにイエスを訴えたことを、ピラトは知っていた。ピラトは祭の際の恩赦を利用して、イエスを釈放しようとした。その時、暴動を起こし殺人を犯したバラバという男が捕えられていた。

ピラトは群衆に尋ねた、

あなたがたは誰を釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエス

群衆は答えて言った、

バラバだ

彼らはユダヤの指導者たちに、そのように答えるよう説得されたのである。

 ピラトは言った、

では、キリストと言われているイエスは、どうすべきか

群衆は叫び続けた、

十字架につけろ」「十字架につけろ

十字架刑は恥辱に満ちた極刑である。

ピラトは彼らに問うた、

あの人がどんな悪い事をしたというのか

結局、暴動になって責任を問われることを恐れ、群衆の声に屈した。彼は群衆の目前で手を洗って言った、

私はこの人の血について責任が無い。あなたがたが始末せよ

群衆はみなこう言った。

彼の血は私たちの上に、そして私たちの子どもたちの上に

 使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言っている。十字架はローマ帝国の刑罰であり、ピラトは責任を免れ得ない。

 そして、ユダヤ人はこの血の責任を負って、ユダヤ戦争(66年から73年)でこの地を失い、1800年以上も世界を流浪することとなった。

 選ばれた神の民が、神の御子を十字架につけた。私たちも、この罪の重さを深く覚えたい。

 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

(ヘブル6:6)

 

 

兄弟が罪を犯したなら

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ジャン=フランソワ・ミレー『晩鐘』(パリ・オルセー美術館蔵)
L'angélus, by Jean-François Millet. (Musée d'Orsay, Paris)

 

2018年3月18日 受難節第5主日 礼拝説教
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【説教題】「兄弟が罪を犯したなら」金井 望 牧師

【聖書朗読】マタイの福音書18章15〜20節

 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

マタイ 18.1-35

【中心聖句】

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです(マタイ18:18)

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2018年3月18日礼拝説教

【説教要旨】

キリストは教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。

(エペソ5:25)

 <教会>という語は、福音書ではマタイ16:18と18:17にしかない。マタイ18:15-20は、教会に起こる罪の問題を扱う重要なテキストである。

  1. まず直接、個人的に確認し、叱責する

 <>とは<律法>に背くことである。

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

(第一ヨハネ3:4)

律法のないところには違反もありません。

(ローマ4:15)

 教会の兄弟姉妹が自分に対して罪を犯したなら、まず<その人と自分だけの場で>その人の言動を確認して、それが罪であれば叱責し、悔い改めを求めるべきである。その罪を他人に知られて、相手の名誉を傷つけることが無いように、また、プライバシーが守られるように、配慮が必要である。<もし聞き入れたら>、<兄弟>としての真実な交わりが得られる。

 不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。

(レビ19:15-16)

 あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。(中略)復讐してはならない。あなたの民の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。

(レビ19:17,18)

  2. ひとりかふたりの証人に確認してもらう

 <もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行き>、<証人>となってもらう。第三者を交えて客観的に<すべての言葉が確認されて>、公正な判断を下すことが大切である。謝罪や償い、処罰はその罪の重さに相応のものでなければならない。問題の放置や不正な裁きは、共同体の罪となる。

どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行わないであろう。あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。

申命記19:15-21)

  3. 教会に訴える

 <それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げて>、問題の処理を委ねるべきである。教会内の問題は基本的に、聖書の教えと教会法に基づいて処理すべきである(罪刑法定主義)。世俗の公権力を優先して用いるべきではない。

あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。

(第一コリント6:1-7)

  4. 教会戒規を執行する

 <教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように>扱うべきである。すなわち教会の戒告に応じない場合、陪餐停止・停職・免職・除名といった処分によって、その人を教会の交わりから除かなければならない。教会にはその権威と職責が神から委ねられている。

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。

(マタイ18:18)

 処分の目的は、当人の悔い改めと教会の交わり・職務への回復である。そのために、私たちは共に祈るのである。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

(マタイ18:19-20)

  

教会戒規

教会戒規

 
神と法と裁判と

神と法と裁判と