KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

説教とは何か

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使徒パウロ


1 説教の定義

説教とは、神が聖書を用いて今日の教会と社会に生きる人々に語るメッセージ の、お取り次ぎである。

 

2 礼拝の二つの中心

聖書が説く福音を福音として正しく宣べ伝え、聖書の教えに従って聖礼典を正しく行うのが、礼拝である。教会とは、真の礼拝者の集まりに他ならない。

 

3 牧師の務め

牧師の最も重要な務めは、福音の説教と聖礼典によって、人々を霊的な新生に与らせ、養い、育て、導くことである。そして、聖徒を整えて、キリストの体なる教会を建て上げ、霊的な神の王国を実現することである。教会は、その務めにふさわしい人を育てて、牧師に任命し、その務めを託さなければならない。

 

4 生ける神の語りかけ

まことに神は生きておられ、今も我々に語っておられる。説教を語る者も聴く者も、まずこの信仰が無ければならない。説教の準備において説教者は、聖書の御言葉の中に深く沈潜して、神の御心を尋ね求めなければならない。

 

5 聖書の正典性

旧新約66巻の聖書は、特定の時代に特定の人たちによって記された諸文書を集めたものであり、歴史の所産である。その記述・編集・結集・選別において神の確かな霊的導きがあった。それゆえ聖書はすべて神の言葉であり、正典、すなわち我々の信仰と生活の絶対的な基準なのである。説教者はこの確信に立って、聖書の教えるところを忠実に、会衆に説き明かさなければならない。

 

6 聖書の釈義

聖書のそれぞれのテキストにおいて、その著者が当時の直接的な読者に伝えようとしたメッセージを、読み解くことを、釈義という。説教は、釈義を基礎としなければならない。しかし、釈義を語るだけでは、説教にならない。

 

7 イエス・キリストの福音

聖書の主題・中心はイエス・キリストである。聖書の目的・目標は、人々にイエス・キリストを証しすることであり、キリストの福音によって人々が救われ、救われた新生者の集まりである教会を通して神の王国が実現することである。説教においては、聖書のすべてのテキストが、キリストの福音を原理として解釈した上で、説き明かされなければならない。説教は、単なる歴史や文学の講義ではない。

 

8 教会のわざ

説教は神のわざであり、同時に教会のわざである。教会は、説教において、人々が悔い改めてキリストを信じ、罪を赦されて新生し、さらに豊かな恵みを増し加えられて成長し、キリストの体なる教会が活きて働くものとなることを、信じて期待し、祈るべきである。

 

9 牧会のわざ

キリストの体なる教会は、特定の時間と場所に限定されるものではない。教会堂における主日の礼拝を中心としつつ、体の各部分は、週日もそれぞれの場所にあって神の召しに従い、世の人々に仕えることによって、神の王国のわざをしているのである。牧師は、聖書のメッセージを忠実に説き、かつ今日の社会のコンテクストに適用することによって、この世における聖徒たちの奉仕のわざを励まし、支え、導くのである。

 

10 聖なる恐れ

説教はどこまでも、神のメッセージの「お取り次ぎ」でなければならない。説教者は、会衆ひとりひとりへの配慮を欠いてはならないが、会衆に都合よく聖書の教えを曲げたり、水増ししたり、割り引いたりしてはならない。ましてや説教者が、聖書以外の思想信条を広めたり、信仰にそぐわない世俗の活動を勧めたりするために、説教を利用するようなことは、決してあってはならない。説教者に何よりも必要なものは、この聖なるわざに携わることに対する恐れである。

 

11 聖霊に対する信頼

聖書原典の記述を守り導いた聖霊が、今も説教において会衆に聖書の真理を明らかに示し、ひとりひとりの霊の耳に神のメッセージを語ってくださる。説教者は聖霊に信頼して、説教の務めを果たすのである。ただし、説教はいわゆる神託やお筆先ではない。説教は限りある人間の知性と感性を用いて行われるのだから、誤った情報や不適切な表現・思想が含まれる可能性は、常にある。説教の内容すべてを絶対視すべきではない。

 

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心に触れる説教とは

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マインドコントロールの解き方

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統一教会合同結婚式

 

◆カルトとは

 

【カルトの定義】

カルトとは反社会的な思想集団である。

 

これは筆者が35年ほどいわゆるカルト問題に関わって、出したところの個人的な「カルト」の定義です。カルトに関する情報は巷にあふれていますが、定義はまちまちで、曖昧だったりします。

 

キリスト教系の宗教集団の場合、教義が正統的ならば「異端」とは言えません。しかし、その集団が本質として反社会的な思想や活動、行為を保持しているならば、「カルト」と判断できます。

 反社会性の一般的な基準は違法性です。ただし遍く人はあやまちを犯すものですから、一つ二つの事件でその集団全部をカルトと呼ぶべきかどうか、そこは難しいところでしょう。その集団の本質が反社会的であることが、重要な問題だと思います。

 

「カルト」(cult)は〈「崇拝」、「礼拝」を意味するラテン語 cultusから派生した言葉である〉ようです(Wikipedia)。けれども今日、実際には宗教以外の思想集団も「カルト」として扱われることがあります。

カルト - Wikipedia

日本では宗教以外のカルトの事例として、ヤマギシヤマギシズム)や一部の自己改造セミナーがあります。カルトに共通して見られるのは、マインドコントロールです。 


マインドコントロールとは、他人の心理状態を支配して、意思決定を特定の方向に誘導するテクニックです。これを使うカルト=反社会的な思想家・思想集団に気をつけましょう。

 

◆カルト的なマインドコントロールの方法

(1) 感情のコントロール

①セルフイメージの低い人に「暖かい」人間関係を与えて、自己肯定感を高めさせる。
②恐怖や不安を感じさせてから、解決法を提示して、安心感を与え、依存させる。

(2) 思想のコントロール

「唯一」の絶対的な「真理」を体系的に教え込み、「ミッション」を与える。

(3) 情報のコントロール

人間関係や情報源を制限して、その集団や指導者に不利な情報の流入を遮る。その集団や指導者に対する批判を禁じる。

(4) 行動のコントロール

過剰なルールを課し、具体的に行動を指導・管理して、賞賛や罰を与える。

(5) 生活のコントロール

経済的・社会的な資源を放棄させて、元の生活に戻れない状態にする。

 

◆マインドコントロールを解く方法

(1) 分離

ある程度の期間、クライアントをカルト集団・指導者から引き離す。

(2) カウンセリング

クライアントに温かな関心を示し、まず話をよく聞いて、理解に努める。

(3) 質問

クライアントが自分で問題に気づくと、解決が早く進む。そのカルトの教えを事前に調べて、疑問を持ってもらえるような質問をする。

(4) 学習

聖書・キリスト教の正しい教理と倫理を教える。複眼的な思考を教える。

(5) 想起

カルト集団・指導者と関わる以前のことを語り合い、思い出させる。

(6) 受容

家族や親しい人たちが「私たちは今もあなたを大切に思っている。戻ってきてほしい」と伝える。

(7) フォローアップ

クライアントの傷ついた心が回復して、社会復帰ができるようにサポートを続ける。

 

キリスト教がカルトを生むのか?

 

統一教会全能神教会など、聖書の言葉を引用して使うカルトが、たくさんあります。福音書にあるイエス・キリストの言葉も、使いようによっては、「世捨て人の勧め」のように聞こえます。

 

エスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

エスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

二人はすぐに網を捨てて従った。

そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。

この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

(マタイ4:18-22)

 

ペトロ、アンデレ、ヤコブヨハネは網や漁船、家族、自宅を捨てて、イエスに従ったのでしょうか? 福音書を注意深く読めば、彼らは網も漁船も家族も自宅も捨てていないことが、わかります。

 

エスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。

エスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。

(マタイ8:14-15)

 

 ペトロの自宅は、イエスと弟子たちの宣教活動において、重要な拠点となっていました。彼らはペトロやヤコブの舟でガリラヤ湖を渡って、各地で宣教を行っていたようです。

 

 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。

 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。

 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。

(マタイ8:18、8:23、9:1)

 

エスが復活された後、ペトロ、アンデレ、ヤコブヨハネなど弟子たちはガリラヤに帰って、湖でまた漁をしています。

 

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。

シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれな かった。

ヨハネ21:1-3)

 

歴史的・社会的な背景や文脈を考えないで、文字面だけを単純化して現代に適用するのは、問題があります。

 

行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。

旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。

町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。

(マタイ10:7-11)

 

当時のユダヤ社会には、今日の東南アジア仏教社会に見られるような御布施の習慣がありました。一般の信徒たちは喜んで、巡回伝道者たちを家に泊めて、様々な支援をしていました。だから主イエスは弟子たちに、無一物で身軽に巡回伝道をするように、と指導をなさったのです。

エスは十字架で処刑される前夜、敵に捕らわれる前に、弟子たちに具体的な忠告を与えておられます。

 

それから、イエス使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか」。彼らが、「いいえ、何も ありませんでした」と言うと、

エスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。

言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」。

そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。

(マタイ22:35-38)

 

エスはここでは弟子たちに、護身用の剣を持つことを勧めておられます。「完全な非武装・非戦・非暴力・無抵抗がキリストの教えだ」という話をよく聞きますが、筆者はそうは思いません。キリストの教えは現実的なものです。

 浮世離れしたカルト集団にご注意ください。

 

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聖書の世界観の概略

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(1)このコスモス(天地、宇宙、世界)は本来、神が創造した「極めて良い」ものでした。その中でも人間は「神に似せて」「神の像に」造られた特別に良い作品です。人間には、神の代理人=しもべとして地を治め、豊かな命が満ちた世界を造って、神の栄光を表す使命があります。これを「文化命令」と言います。

(2)ところが、神に反逆した堕天使たちの長であるサタン(悪魔)が、初めの人アダムとエバを誘惑し、堕落させたため、人の世は、罪と死の法則が支配するところとなりました。すべての被造物が虚無に服し、滅びの束縛に苦しんでいます。

(3)それでも、人の心には神の律法が刻まれており、良心の光によってその律法を読み取り、その道徳律に従うなら、神を知らない人でも、ある程度は善行ができます。神は、エジプトで奴隷となっていたイスラエル民族を解放して、彼らと契約を結び、律法を与えました。それは、彼らが「神の王国」のモデルとなって、世界の人々に真の神を証しするためでした。

(4)すべての人は、生まれながらに「原罪」に支配されている「罪人」です。完全に正しい人=「義人」は一人もいません。誰もが霊的に壊れていて、神の御心に反する悪い思いを抱き、神の律法に違反する罪を犯しています。罪の報いは、①神と断絶した霊的な死、②肉体の死、③黄泉(よみ、ハデス)の苦しみ、④地獄(火の池、ゲヘナ)における永遠の刑罰です。

(5)神の独り子イエスは、人類に神の完全な啓示を与え、すべての人の罪を贖うために、人となってこの世に来られました。イエス・キリストは、完全に天の父に従って、十字架で御自身を完全な犠牲としてささげてくださいました。御子イエスの流した血によって、私たちの罪はすべて赦され、清められます。ただし、この世に生きている間は、罪の無い完全な人は誰もいません。私たちは生涯、悔い改めが必要であり、清められ続ける必要があります。

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(6)子なる神イエスの地上への来臨は、「神の王国」をこの世にもたらしました。それは聖霊の霊的な支配であって、政治的な国家ではありません。この世は、神の支配と悪魔の支配が激突する霊的な戦場です。「神の王国」は、キリスト者の霊的な交わり、すなわち教会において顕著に現れており、教会を通して人々を救い、この世を造り変えています。

(7)イエス・キリストは十字架で死んだ後、霊において、悪魔・悪霊の牙城であり、死人の霊が囚われている黄泉(よみ、ハデス)に降り、そこを征服しました。イエス・キリストの復活と昇天は、神の王国の勝利を、霊的なコスモス全体、すなわち天と地と地下(黄泉)に宣言する凱旋でした。イエス・キリストは今も、天において大祭司として、人々の罪の赦しのために、父なる神に執り成しをしておられます。

(8)神に対して自分の罪を悔い改め、イエスを「主」(神の御名)「キリスト」(救い主)と信じて告白し、バプテスマを受けるなら、誰でも完全に罪が赦され、聖霊を受けて新生し、神の子とされます。永遠の命が与えられ、天国の国民とされます。こうして救われたキリスト者には、キリストによる救いの知らせ=福音を全世界の人々に伝える使命があります。これを「宣教命令」と言います。

(9)旧約(古い契約)の律法は主に、①十戒に代表される道徳律法、②古代イスラエル社会の市民律法、③幕屋・神殿を中心とした祭儀律法の三つに区分できます。道徳律法は普遍的・永続的なものであり、新約(新しい契約)の時代、すなわち教会時代にも有効です。形は変わっても、基本的な精神は変わりません。市民律法は時代や社会の状況によって変わります。祭儀律法は、イエス・キリストが完全な贖いを成就したので、不要となりましたが、その意味はバプテスマや聖餐などキリスト教の礼拝においてより完全な形で表されています。律法の呪いから解放されたキリスト者=教会において、律法は成就しているのです。

(10)「神の王国」は「すでに」霊的に始まっていますが、「未だ」完成していません。それは建て上げる途中であり、教会にも社会にも様々な問題があります。「神の王国」はイエス・キリストの再臨によって完成されます。その時、すべての死人がよみがえり、最後の審判が行われて、すべての人が二つに分けられます。悪魔・悪霊と、キリストを信じない罪人は、「火の池」(ゲヘナ、地獄)に投げ込まれて、永遠の刑罰を受けます。罪と死の法則も黄泉も滅ぼされます。天と地は新しく造り変えられて、一つになります。キリストによって贖われた者たちは、復活されたキリストと同じ永遠の栄光の体をいただきます。そして、被造物のすべてが、永遠の栄光の姿に変えられるのです。

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